近藤勇・流山前後29 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。


テーマ:
板橋での尋問
慶応四年四月六日(グレゴリオ暦1868年4月28日)


 この日、天皇様は大坂城で諸藩兵の操練を御覧になりました。行在所日誌によると、以下のように執り行われています。
卯の刻(0600時)過ぎ、御発輦あらせられ、各藩の兵隊は兼ねて御沙汰の有りしことなれば、早旦より城中二ノ郭に揃ひ屯集せり。辰の刻(0800時)、城中本丸操練天覧所へ著御あらせられ、直に第一兵隊薩州、芸州、越前の人数、おのおの隊列を整へ、令に随ひ、仮の操練場に進み、運動発砲をなし、終て退く。次て第二兵隊長州の人数、次て第三兵隊細川、柳沢、北條の人数、いづれも順序をもって操練場へ代る代るあい進み、運動発砲をなす。右操練終りて、各藩兵隊へ酒殽を賜ふ。御沙汰の次第、左の通り、
 今日調練大儀に思しめされ、いささか酒殽を下し賜り候こと

『復古記』第三冊p309
 このあと天皇様は「御歩行にて」天守台などを巡覧あそばされました。およそ天皇様とは、地面の上を歩くことなどしないものだとさえいわれていた当時のことですから、これもまた御一新の一場面なのでした。

 同じ頃、板橋の東山道先鋒総督府では、投獄した近藤勇の身柄を奪い返されないよう、厳重に警戒すべきことを四月五日付けで通達していました。
過日、宇都宮へ出張致し候官軍御人数、流山と申すところに於いて、賊兵の長、大久保大和、実は近藤勇と申す者を召し捕り候に付き、当駅獄中に繋ぎ置き候。然るところ、賊党、松波(松濤)権之丞より、相馬肇と申す者を使いとして、右勇へ書状持参致し候に付き、これまた御召し捕りにあいなり候。右の次第に付き、なおこのうえ賊党当駅へ入り込み、自然非常の儀これあるべきやも計り難く候あいだ、諸軍一同兼ねて承知の儀には候へども、廻番など疎略これなき様、一段厳重にあい勤むべき旨、御沙汰候條、御達し申し入れ候なり。

『復古記』第十一冊p437
 勇の身柄を奪われては東山道軍の沽券に関わりますから、厳重な警戒を命じたのは当然のことですが、ほかに見過ごせないことが書かれています。もと新撰組の相馬肇が、松濤権之丞から勇への書翰を持参してきたということがそれです。
 権之丞の松濤という苗字は、松波あるいは松浪とも書かれることがあるのでマツナミと読むようです。御家人でしたから幕臣としては下級ながら、横浜鎖港交渉団の随員としてエジプト経由で渡欧していますから、ただ者ではありません。そして、この時期には勝海舟の下で脱走兵らに帰還を説得する役目に就いていました。おそらく大久保大和守が徳川家の正式な命令を受けて鎮撫を行なっていたことを証明する書翰を届けさせようとしていたのでしょう。しかし、大久保大和守が近藤勇と同一人物であることが新政府側に露見していたのですから、むしろ話はややこしくなりました。
 板橋で勇を尋問した様子は、谷干城(土佐藩士)の『東征私記』に書かれていますので、見ておきましょう。
勇御吟味に付き、勝沼戦争の取り正しもこれあるに付き、因、土(鳥取藩と土佐藩)より立ち合い吟味致すべしとの沙汰により、余と安岡亮太郎両人行く。当時、勇病気(原注、伏見戦争の前、竹田街道に於いて伊藤(伊東)甲子太郎の徒のために銃せらる。病気と云ふは即ちその瘡再発せるとなり)にて、御宥免申し出づれども挙用せず。応接処の櫞下に筵を布き、その上に坐せしめ、督府の小監察責問す。
 彼れ(勇)云ふ
「流山に出でたるは臣子の分を尽くさんためなり」と。
「然らば兵を募り、官軍に抗する心か」
 勇云ふ
「まったく然るにては非ず。いま慶喜の心を察するに、さぞ心外にあるべし。このうえ慶喜の御処置によりて、臣子の分を尽くさんと欲するのみ」
「然れば兵をもって官軍に抗するに非ずして何ぞ」
 と深く責むれども、只云ふ
「一人丈の分を尽くすことに、決して抗すると云ふには非ず」
 とて吐かず。問ふ、
「汝、流山に出でしは勝安房(海舟)の命を奉じたるべし」
 勇云ふ
「決して左様のことはこれなし」と

原注、このとき同席に薩長因なども居たり。薩、平田九十郎(宗高)、勝・大久保・山岡の輩に勇指使せられしことを明白にするを欲せず。これ薩州海道の参謀らの意にして、伊地知(正治)これを平田に云ひ含め、勝らへ関係のことの責問を防がしめたること疑いなし。
 平田云ふ、
「彼れ万一の時は臣子の分を尽くすと云へば、それにて事は分りたれば、別に責問するには及ばず」
 小監察ならびに余ら云ふ、
「ただ彼一人の口さゑ聞かば宜きと云ふにては非ず。かくの如き巨賊ゆえ勝・大久保はじめ旧幕の諸臣のなさんと欲するところも預かり知りたるべし。強く責問し、白状せば則ち発せざるに当たり先づその策を打つ、策の巧みなり。ただ過去のことのみ問うて処置すれば、もっとも安きことなり。是非に未発のことを言はしめんす」
 平田堅く防ぐ。亮太郎、平田と強く争ふ。平田ついに云ふ、
「いま勝・大久保らのことまで詰責せば、海道の穏やかな御取り扱いの御主意にももとり申すべし、かえって事の敗れになるも計り難し。かつ勇も賤しき者に非ず。数十人の隊長をも命ぜられしほどの者なれば、拷問などを致すは甚だ然るべからず」
 と云ふ。余ら云ふ、
「勇はじめより官位あるに非ず。ただ徳川氏のために浮浪無頼の徒を募り、暴威を張れるのみ。格別徳川より爵位を与へ、何隊の長と命じたるにも非ず。そのうえ今は脱走者のことにて、また徳川に関係なし。我れより見るところ、ほとんど博徒の頭にひとしきのみ。博徒の頭、いずくんぞ拷問棘楚を遠慮せんや」
 と、議論紛々なり。

『谷干城遺稿』上p98-99
 まだまだ尋問の場面は続きますが、長くなるので、いったんここで切ります。
 元陸援隊の香川敬三も含め、土佐系の人々は新撰組を憎んでいました。三条制札事件などで土佐人が新撰組に殺されていましたし、坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのは新撰組ではないかと強く疑っていたからです。
 それと対照的な姿勢を示した平田(九十郎)宗高は、薩摩藩士です。思い起こせば、山岡鉄舟が西郷隆盛に対して「甲州での抗戦は脱走人によることで、徳川家は関与していない」と断言したことから勝・西郷ラインでの和平交渉が始まっています。事実がどうあれ、勇を脱走人として扱わねば和平交渉は根底から覆ってしまう理屈です。それをいまさら「徳川家の命令で動いていました」などと言い出されたのでは、隆盛による和平工作を支持する薩摩藩士らはたまりません。こののち徳川家の陸海軍の武装解除がうまく行けば、薩摩藩の功績は動かしがたいものになるでしょう。しかし、徳川家が勇に新政府軍への抵抗を命じていたということになれば、和平など画に描いた餅になってしまいます。
 このように、勇への尋問は、彼ひとりの処分だけでなく、徳川家全体、ひいては和平交渉の結末を左右するほどの大問題でもあったのです。



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