谷干城 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。


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谷干城、天保八年二月、土佐高岡郡窪川村に生る。父は萬七。干城の五世の祖に谷重遠なる者あり、秦山と號し、磧學を以て聞ゆ。干城、初名申太郞、後に守部と改む、號を隈山といふ、又古海古狂とも稱す。二十歲、江戶に出で、安枝艮齋、鹽谷宕陰に學び、二十三歲、安井息軒の門に入る。文久年間、時勢に慨する所あつて、志士と交りを結び、國事に奔走した。明治元年、三十二歲、高知藩より小監察を以て出征を命ぜられ、高松、丸龜の諸城を征服して京都に入り、尋で大監察に任ぜられ、奧羽征討の官軍に從ふ。大に閥東の野に鬪ひ、轉じて東北に向ひ、板垣退助等と共に、會津討伐を行うた。戰鬪終りて賞をうく。明治四年、兵部權大丞に任ぜられ、陸軍大佐となる。同五年、陸軍裁判長、陸軍少將同六年、熊本鎭臺司令長官、同七年、佐賀の亂及臺灣征討に從軍して功あり。同九年、熊本神風連の變あつて後、十一月、干城は再び熊本鎭臺司令長官に任ぜられたが、翌十年、鹿兒島の徒黨、兵を擧げて、熊本城を圍むや、干城、城將として能く之れを禦いだ。時に干城四十一歲。功によりて、翌年、陸軍中將となつた。其後、陸軍士官學校長兼陸軍戶山學校長、學習院長を經て、明治十八年農商務大臣となつた。明治二十年頃、時弊匡正の念强く、歐化主義を難じて大に國粹保存を主張し、朝野の覺醒を促した。爾來政治に產業に誠意を傾けて論議した。明治四十四年五月十三日、七十五歲にして逝く。明治十七年、特に子爵を授けられた。
 干城、少時、頑童にして惡戲をのみ爲し、手習、學問は殆んど顧みやうとしない。從つて手習草紙には水を灌いで、文字を害いた眞似をして置いた。之れが露れて、伯父に怒られ、佩刀を取上げられた。常時の風俗として年少の者と雖も、刀を佩ぴねば外出する事ができない。流石の頑童も之れには弱り切つて泣き出してゐた。父は之れを見て、伯父にはいはず、却つて叔父の許へ行き、祖父の刀を得て、之れを干城に與へた事がある。後に至り、干城曰く、之れは伯父が强き敎誡を加へたもので、其時に刀を取上げられた事は、何よりも困つた事であつた。今にして見ると、伯父の我れを敎訓せんとする苦心は、感銘すべきものがあると。
 干城、然れども自ら啓發せぬものでない。丁年に近づく頃から、勉勵衆に勝れ、曩日の懶惰の極は、新に勉强の極と變じた。斯て智識も格段の進步をしたのである。
 安政六年、干城二十三歲の時、江戶に赴かんとて、途を讃岐に入り、金比羅を拜し、丸龜に向ふ途中、偶々商人體の男が、前になり後になり步きつゞけて來た。其內、十五六歲の白痴らしき少年が、何時とはなしに商人の道連れとなつた。ある機會によりて商人體の男は、干城に話しかけ、何處へ行かるゝやと尋る。干城、江戶に旅行する旨を吿げると。彼は大阪へ赴く者である、同行の榮を得たしと乞ふ。しかし干城は、土佐の本陣で泊る故に、同行し難しと斷ると、然らば途中に待合はして、共に族行をしたし、一人旅は寂しきものであるなど語つて、干城の意を迎うる事につとめてゐた。
 純情の靑年なる干城は、何の惑ひもなく、商人と物語りつゝ步む事里許。彼の白痴少年は俄に物を拾つた。商人取り上げて見ると、小判凡そ二三十枚ある。商人窃かに干城を招き、低聲にていふには、此紙片にさいつら丸なる文字がある。恐らく船夫の落したものであらう。あの白痴少年の手に入らば、必らず他人に奪ばれて了ふ、寧ろ我等に分配しては如何と、頻りに干城を誘うて利益を說いた。干城、至廉至潔の者である。言下に叱つて、汝は我れを何者と思ふか、無禮千萬にも程があると赫怒した。商人恐れて謝する間に、干城は顧みずして去つた。後に他人に之れを語ると、それは胡麻の蠅といふ鼠賊である。干城若し金の分配を受ければ、必らず落主と名乘る者が現はれて、之れを役人に訴へんと猛り、言を左右にして內濟金を徵したであらうと。干城の廉恥心强き爲に、幸ひにして此賊難を免れ得たのである。
 十月江戶に入り、安井息軒の門に入つた。干城、入塾後數ヶ月にして、選ぱれて塾の執事となつた。是れ常人に勝りたる才能ある事を、師に認められたのである。
 萬延元年、十三經註疏を渴望して、之れを故鄕に請うた。親戚知己爲に憑子錢を集めて七兩餘を送金してくれたから、欣喜して其書典を購うた。師息軒曰く、我れ曾つて書籍に乏しく、學資に貧しくして、書籍を借覽ずるの目的を以て、藏書家なる篠崎小竹の門に入った。其頃より十三經を求めたいと思つたが、容易に購ひ得なかつた。漸くにして江戶に移りたる後、始めて之れを入手した。其時實に三十四歲であつた。之れを汝に比して雲泥の差があると。干城、師の苦學を聽いて益々發奮した。
 慶應元年、藩命により、前野悅次郞と共に探索用の名目を以て長崎に派遣され、更に上海に官遊した。之れは藩主容堂の命によるもので、上海は泰西人の輻輳する土地であるから、此地に居りて遙に泰西文物を想到する事が出來る。干城の識見之れに依りて大に開發された。
 慶應二年、容堂に從うて京都に入る。此歲、小松帶刀、西鄕吉之助、乾退助等と會合して、薩土同盟について談じた。
 同年十二月、王政復古の大號令は發せられ、二十七日、京都御所、日御門前に於て、薩長土藝四藩の觀兵式天覽あり、薩の軍隊、英國式に則り最も堂々たるものであつた。長之れに次ぎ藝亦之れに次ぐ。土藩、獨り蘭式の舊法に依り、倂も服裝等整頓せず、干城ために意を苦しめるものがあつた。
 翌二十八日に至り、西鄕の急に招くに會し、赴いて聞くと。西鄕莞爾として、はじまりました、至急乾君に通知あれと謂ふ。意は討幕の議已に進み、兵火を交うるは必然といふのである干城問ふ。土佐藩の出兵後れ過ぎたのでなからうかと。西鄕曰く、未だ後れはせぬが、一刻も速かなるがよいと。茲に於て、干城、土佐藩要路を說いて、京都出兵を促がした。藩に兩黨あり、反目嫉視して、迂餘曲折あつたが、結局、翌戊辰正月、深尾丹波を總督として、乾退助(板垣)を司令として、土佐大隊が進發する事となつたのである。
 明治元年正月十三日、土藩一大隊、高知出發し、干城、其小監察となりて軍隊を督した。丸龜及び高松を降服せしめ、海を渡つて大阪に赴き、直に京都に入つた。こゝに朝廷より果征の命下り、板垣、總督の任に就き、干城大監察に任ぜられて、京都を出でゝ、東山道先鋒として美濃大垣より信州路を進んた。
 干城、曾つて江戶に在る時、小佛峠を越えて甲府を過ぎた事があるから、甲峽の地の樞要なるを熟知してゐる。速に此地を官軍が占領せねば悔を胎す事あるを論じ、板垣は之れを贊成したけれど、薩藩が同ぜぬ、長藩亦薩と步調を合はすの狀を示した。其爲め土軍は因幡藩隊と共に諏訪より韮崎を經て甲府に入り、甲府城を收め、尋で勝沼に近藤勇の軍を破つて、遂に甲州路を江戶に進軍した。
 近藤勇は甲州に敗れて、常總の野に奔り、流山に大久保大和と變名して、其隊を屯集せしてゐた。干城、祖式金十郞等と、流山に赴き、其隊を解散すべきを命じ、隊將を伴うて板橋の本營に還つた。隊將は果して近藤であつたから、干城、其裁判に立會つた。裁判官は、近藤の背後に勝安房の指嗾あるやを疑うて、鞠問いと嚴しく、遂に拷問に付しても自首を强ひんとした。
 薩の平田九十郞之れを遮つて、近藤は兵を統べた隊長であるから、拷問は憐れむべきである干城等之れを駁して、彼れ固より爵位ある者でない、德川氏の爲に浮浪無類の徒輩を嘨集して狂暴を逞しうしたのみである。殊に最近は脫走の身であるから、聊も德川氏に關係なく、いはゞ博徒の類である。之れを拷問に付するに何の憚かる事やあると論ず。甲論乙駁して、薩は頑强に自說を主張し、若し容れられずば其軍隊を徹して去らんとするの勢ひを示した。茲に於て干城等忍耐して、近藤の追窮を歇めたが、薩論は尙近藤を京都へ送り、頗る寬ならんとするの疑ひが存してゐたから、干城等再び論じ、總督府に上申して、遂に近藤を板橋驛に斬つて、之れを梟首するに到らしめた。
 明治四年。薩長土三藩の兵を以て親兵となし、中央政府の所在地を衞戍せしめ、尋で各地方に鎭臺を置き、明治六年一月、徵兵令が布吿された。徵兵の制は長州が主唱する處で、薩土は喜ばぬのであつた。桐野利秋の如きは最も不贊成者で。西鄕隆盛も暗に壯兵主義であつたらしい。之れに反して山縣有朋、西鄕從道の新歸朝者は壯兵に反對して、徵兵を必要とし、西周助專ら之れを助けた。干城も亦徵兵論者で、壯兵は議論が多くて御し難いから、其害多くして利の少きを知つてゐた。
 明治六年、干城、陸軍裁判長より熊本鎭臺司令長官に轉任し、桐野利秋、更つて陸軍裁判長の任に就いた。干城の熊本鎭臺に來るや、前任桐野は古英雄の風があつて、規則を以て兵士を拘束せず、大抵放任主義であつたから、其後任者は相當の難局に遭遇せねばならぬ覺悟を要する。干城、茲に於て軍隊の編成を變更するを第一手段と爲し、先づ大阪の第十九大隊の兵を熊本に移し、熊本在來の二大隊を精選して一大隊となし、萬一の事あるに於ては、大阪兵を以て鎭壓するの策をたてた。桐野、徵兵の鎭臺兵を罵つて曰く、土百姓を集めて人形を作る、果して何の得る處ぞと。而して徵兵主義者と壯兵主義者との說を、實地に就いて驗したものは、それ西南戰爭である。
 明治七年、肥前佐賀に擾亂起る。干城、鎭臺の司令官として熊本にゐたが、其兵は僅に步兵二大隊に過ぎぬ。倂も其中の一中隊は對馬に分遣し、一小隊は日田分營に屯してゐるから、實際の兵數は一大隊半に滿たぬ。然るに佐賀には江藤新平等の擧兵があるのみか、薩の西鄕、土の板垣の行動も注意せねばならぬ、其他九州中國にかけて不平士族の群もある。吾鎭臺の將校中にも鹿兒島高知出身者があつて、其趨向も監視すべき必要がある。若し臺兵一大隊半の內、半大隊を以て城を守り、一大隊を戰地へ派遣する時は、一旦蹉躓を來すとなると、其收拾のつかぬ大動亂を發生するかも知れぬから、其間に處する干城の苦心は一方でなかつた。倂し東京より出兵の令あり、佐賀縣權令岩村通俊から護衞の兵を請うて來た故、決然一大隊を二つに分つて、海陸二路よりして佐賀に進入せしめ、諸道の官軍と共に擾亂を鎭め了へた。
 初め熊本縣令某、干城に吿げて曰く、佐賀と熊本とは懸隔の地に在る。多くの兵を留めて熊本を守るにより、此兵を率ゐて佐賀を擊たば、鎭定の速かなるものがあらうと。干城對へて、その設固より當を得たものであらう。然れども、熊本城は天下の雄鎭で九州に取つては甚だ大切の場所である。一步にても吾足を踏出さば、人心動搖して、城下の士族は蜂起し、吾虛に乘じて城を奪ふであらう。實に九州の治亂の機は此一城に在る、迂闊な事はできない。
 明治九年、神風連の爲に、陸軍少將種田政明の殪さるや、干城、再び其後を襲いで、熊本鎭臺司令長官となつたが、當時の鎭臺兵の世評甚だ惡しく、小兒に至る迄、糞鎭と罵つて侮蔑を敢てする。干城の騎馬で通行するを見て、頑童の一團は靑竹を以て、馬の臀部を打ち、馬上の司令長官をのぞみて、糞鎭々々と連呼する。之れを叱責すると、石を投げ、あかんべいをして猿の如く齒をむいて嘲笑し、唾を吐きかける。
 小兒に於て巳に然り、熊本の士族の如きは、種々の手段を以て脅迫し、其僕婢に迄も威喝を施して、嫌忌の情を起さしめんとする。其執拗なる事言語に絕したものがあつた。
 かゝる情勢の下に、明治十年の西南戰役は風雲を捲き起したのである。
 薩摩の健兒一萬敷千、西鄕隆盛を擁して、大濤の如く寄せ來り、熊本城を包園した。薩軍は剽悍の士、率ゐる將は、天下知名の猛將軍等である。之れに對して熊本城を守る者は、所謂糞鎭である。倂も此城破れんか、天下は土崩瓦解の勢ひとなるから、司令長官たる干城の重責は實に一身を以て天下の安危存亡を決するの大切な鎖錀を握るが如きものであつた。
 干城、以爲らく、熊本を守るには、進んで肥薩國境の險に要擊し、或は半途に邀戰する等の策がないでもないけれど、鎭臺の兵は、神風連以來意氣銷沈して、舊時の舅氣は阻喪してゐるかゝる兵を以て强剛の薩軍に先んじて捷たんとするが如き作戰は畢寬徒勞に屬する。加之、縣下の不平士族が、何時薩軍と聲息を通じて起つか測り知り難い、一旦城外に出でゝ歌ひ、萬一に敗を取らんか、其結果恐るべきものがあらう。察ろ城を堅く守つて、敵勢を阻み、東京よりの援軍を來るを持つて、一擧に敵を掃蕩すが策の得たるものであると。
 干城、斷然籠城の決意をなして、曰く、安祿山の亂に唐の亡びなかつたは、張巡が睢陽城を堅守したゝめである。我城はまさに睢陽城である。天下の安危はかゝつて此城の存亡如何にあると。
 熊本にゐる將校には、樺山、與倉、川上、大迫等の薩人が多くあつた。彼等が若し薩軍の緣故や私情にたどらば、城內の危險はいふ迄もなかつたが、幸ひにして大義を辨へて、干城の籠城說に從つたから、此處に毅然として城に據り、砲火相見ゆる事となつた。
 熊本城を守る兵は二千五百餘名、それに小倉の三百名の兵と.六百名の警視隊とを加へて、總べて三千五百と數へられた。之れを包圍するものは一萬三千以上を算した上に、其兵氣より見れば、此の銷沈に比して、彼の軒昂の相違があり、主將たる干城の心勞は並々ならぬものがある。
 籠城第一策は、士氣の鼓舞が緊急である。乃ち干城は命じて、城內に於て、大招魂祭を催した。之れは曩に戰死したる種田、高島等の爲に招魂祭をなし、其餘興に角力等を行はしめて、之れによつて士氣の揚がるやうにと計つたのである。幸ひに其效果著しく現はれて、各兵士は大に緊張を來して、敵の襲擊に備へるの勇氣が現はれた。
 熊本籠城に於て最も困つたのは、糧食の缺乏であつた。始め、明治十年二月十九日、城中に火災あつて、糧食を盡く灰燼に歸して了つた。急いで之れが收貯に盡力し、何うにかして完整する事を得たが、二十日過ぎから全く城は包圍されて、頻りに猛襲を蒙るから、外部との聯絡盡く絕えて了ひ、糧食缺乏漸くに急を吿げた。遂には强壯者は三度の食事を二度に減じ、又米を粥になし、之れに補うに粟を以てしたけれど、尙缺乏を償ふに足らぬ。殊に病者の食餌には最も困つた。城兵の內に豆腐の製造を知る者があつたから、之れに命じて豆腐を作らしめ、飴の製造を知る者には、飴を作らしめて、之れによりて病者を養うてゐた。
 或る時、城內の濠から鯉を二三尾釣りあげた者がある。此佳肴を司令長官に獻ぜんとすると干城大に喜び、且曰く、此鯉は兵士が艱難の間に少暇を得て、釣り得たものである。我れ一人の口腹を養ふべき物でない。幕僚一同に等しく饗應して賞味せしめやうと。乃ち料理する者に命じて、鯉汁を作らしめると、三尾の鯉を多人數に分割するのであるから、各人に供すると、或者には汁が不足し、或者には汁があれど鯉がないといふ狀であつた。料理人は甚だ正直漢であつたから、恐縮していふには。實は各位の頭數を算へ損じて、一片不足の儘に料理しましたが、さう〳〵不足のある筈でないから、冀くば各位の椀中を檢閱して、二片あるのを搜索願ひたいと請ふ。それより俄に鯉汁の檢閱が始まつて、其滑稽に積日の鬱を散ずる事を得た。
 糧食愈缺乏して、司令長官と雖も、親しく戰鬪せぬものには、粟飯或は栗粥を供する事になつた。干城、粟粥啜り.倂も所謂三杯目にはそつと出しの、恭謙さを以て、其粟粥を受けた。
 野菜盡き、魚肉盡き、遂に病馬を屠り、斃馬の肉を削ぎて、肉汁を製し、之れを病兵負傷兵に與へ、殘れる肉を兵士の食とした。此馬肉は最上の美食であつた。されば敵彈に中つて馬の傷くや.其肉の分配に與らんとて、各隊から兵士が馳せ集つて、爭つて死馬の肉を割截し去つた。
 煙草の缺乏は、大根の葉、茶の葉等を刻みて、之れに代用し。干城以下の將士、皆粗食減食を以て甘んじて、土を食ひ、石を囓りても、敵を沮むにつとめた。然れども援軍容易に至らずして、城內には、旅團は氣永で音ばかりションガイ、といふ俗謠さへ流行した。時には又、滑稽諧謔に類するものがないでもなかつた。三月十二日の屁合戰の如きは卽ちそれであつた。
 段山は敵の占領地で、之れに對する片山は城兵の陣地であつた。雙方の距離僅で、相對して口舌の戰を挑んだ。彼れ曰く、米があるまい。我れ曰く、薩摩芋で生存する吾等ぢやないと。三月十二日、又斯の如く舌戰してゐた。一巡査叫んで、賊徒吾屁を嗅げと、放屁一發を與へる彼れ亦報ひるに一發を以てした。吾れ怒つて、十數人の巡査、劍を技いて敵に近づく、彼れ亦之れに應戰し、延いて後續部隊も會戰して、茲に激戰は展開された。吾死傷七八十。敵の死傷も略同數。之れ段山の屁合戰と名づくるものであつた。
 籠城幾旬、食盡き、兵疲れ、援軍は僅に砲聲を傳へるのみである。茲に於てか、干城は重圍を突破するの案を立てた。四月七日、衆を聚めて、全城死活を決定する最後案として、突圍の議案を提出した。之れが決行は四月八日を以て行ひ、干城自ら其陣頭に立ちて指揮し、事を一擧に定めんと謂ひ、樺山(資紀)兒玉(源太郞)に、患者及び城の後事を委ねんといふ、實に悲壯なものであつた。しかし、主將親しく陣頭に立つて、決死的突圍を試むる事は、壯は壯であるが、上々の策でない。包圍を突破するについては、他の將校を以て之れを爲さしめ、主將は城に留つて尙永く敵軍の禦止を司どられたい、といふのが、參謀及び部下の將校の意見であつた。こゝに評議の結果、陸軍步兵少佐奧保鞏をして突擊隊の指揮者と爲す事に定つた。
 四月八日。突擊隊は曉霧を衝いて、城を出でゝ突進した。幸ひに援軍の營に着いて其使命を果し得た。
 突擊隊の成功は。籠城者の元氣を鼓吹するもの偉なるがあつた。四月十一日。法華坂の守兵は、盛んに花岡山の敵軍を砲擊して、之れを二本樹村に退かしめた。干城、傳令使を具して病院を巡視した後、段山に回り、一の橋の邊の邊に立つて展望してゐると。敵の狙擊するものあつて、一彈、干城の咽喉を射て、後に侍立した傳令使の腭を貫いて斃した。幸ひに干城の負傷は、氣管及び大動脈を外れてゐたゝめ、一週間の治療にて平療する事を得た。
 諸道の官軍遂み來つて敵を破り、遂に熊本城との聯絡は全く完成し、之れより敵は退却に退却を重ね、城山の陷落によつて此戰役は閉ぢ終つた。然れども十年戰爭をいふ者は、必らず熊本籠城を主とする。而して熊本籠城は谷干城の堅忍不拔によつて、最後の光輝を仰いだのであつた。
 干城、嚴正謹直の人物であつたが、一面には淚に富む情誼の人物であつた。師安井息軒逝くや、幼少なる送孤を庇護して、安井家を起さしめ、又西南戰役には敵對者であつた、池邊吉十郞の甥義象を撫育したるが如き、其例證夥しくある。
 干城の安井塾を去つた後、雲井龍雄が代つて塾頭となつた。干城龍雄の異圖あるを覺つて、屢師に注意を與へてゐた。龍雄之れを知り、干城に決鬪狀を送つた。干城、決鬪は欲せぬけれど面談して胸懷を述べんとて、一日龍雄と會した。干城曰く、師を火中に入れんとするは愼しむべき事である。汝事を成して後、師の榮を添へるは可であるが、事の成敗の定まらぬ以前に於て、師を引き入れるのは甚だよろしくないと、懇ろに龍雄を戒めた。龍雄漸く悟つて、累を師に及ぼす事を憚つたが、後果して龍雄は事破れて斬られた。
 土佐藩。曾つて國內の紫銅を募つて、巨砲を鑄造し、之れを海軍に備へた。砲成つて、其堅脆を試むるために射擊の擧行があつた。干城、其試驗の一員に選ばれ、導火一點、衆は皆危險を恐れて我れを爭うて逃れ走る。干城、蜀り自若として砲側に在つて、導火の滅して火門に達せぬ故に、傍にあつた火鉢の火を取り、息を吐きて之れを導線に移すと、轟然一發。其響き山河を動かし、白煙漠々として四邊を閉ざした。衆、干城が粉韲した事と思うてゐると、砲煙鎭まりたる後に、既に砲門に矢を投じて窩中を洗ひゐる干城を、發見して、再び驚嘆した。
 干城、嚴格で容易に笑はぬ。他人の談話を聽く時、每時も必らず顰眉してゐる。人あり。其所以を問ふと。人の談話を笑ひながら聽くは禮を失するから、謹んで威儀を正すのであると。 或人、干城に問ふ。庭園の荒廢甚しいから、少し手入れをしては如何。答へて曰く、吾眼中に一家の私事はない。吾庭を掃除する餘力あらば、其餘力を天下の掃除に費さん。
 會津征討に效を奏して凱旋の後、論功行賞があつた。此事について不滿の者が、新聞樣のものを作つて、滑稽交りに惡罵した事がある。板垣退助之れを見て、其者に腹を切らさすと怒る。干城生命を奪ふ迄のものでないと諫めた。しかし板垣は之れを聽入れずして、上官に反抗するは禮を失するものであると詰つた。干城、肅然として、それ程生命が奪ひたければ、先づ吾生命を奪へよ。
 干城の妻玖滿子は內助の功を以て知らる。明治十年、熊本籠城に當つて、殊に其著るしきものがあつた。常に炊事裁縫の事を掌り、時に牡丹餠を造つて將士の勞苦を犒はんとしたが、鍋もなく七輪もない。玖滿子自ら塀を越え、土堤を踏み、敵軍の目を掠めて、燒け殘つた空家へ入り鍋七輪を搜し來つて、牡丹餠を作つて、將士に分ち與へた。其他籠城中に產婦の出產する者があると、爲に助產婦の任にあたり、傷病者のためにはよく看護に力を盡した等、干城儼として城を守れば、玖滿子は溫情を以て衆を慰め劬はつた。


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