italian-lifestyle  一皿のおしゃべり

italian-lifestyle  一皿のおしゃべり

すべてを受け入れながら自分らしく生きる、イタリア人のシンプルなライフスタイルをご紹介します!

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 カウンターの奥に居て微笑んでいたのは、あの妙齢の女性だった。そ

の横では、右が四角、左が丸というアンバランスな黒縁メガネをかけた

若いイタリア男が微笑んでいた。その男の顔にも見覚えがあった。いつ

も急ぎ足で通路を行き来していて、時々ゴッドファーザーと並んで歩い

ている場面も見たことがある。二人が並んでいる後ろを歩いていたのは、

あのエキゾチックな女性だった。

「彼はね、僕の義理の息子です。料理がとても得意ね!」

 ゴッドファーザーがそう教えてくれた。

「それと、横に居るのが僕の奥さんです」

「え」と声が出そうになった。ということは、あの若い男性はブルーグ

リーンの瞳の旦那さんで、妙齢の女性はゴッドファーザーの奥さんとい

うこと? なんだなんだ、そんな単純な話だったわけか? それにして

も、その義理の息子さんもなんだか賢そうな顔をしている。とてもじゃ

ないけど、イタリアチャラ男じゃないことは明白だった。

 0.1パーセントの先入観で人を見るというのは、この程度のものだ。今ま

で自分のことをニュートラルな人間だと思っていたけど、よくよく思い返

してみると、それまでの自分が先入観で物事を判断していたことがわかっ

た。

 それから『イタリア映画の会』には、仕事が入っていて参加が無理な時

を除いては出席するようにした。パゾリーニの後は、アントニオ監督で、

次はフェリー二監督だった。

 映画を観終わると、鑑賞会に参加した十数名の老若男女で談笑を交わし

た。まずはゴッドファーザーが口火を切って映画の感想をそれぞれに求め、

その先はイタリアの文化や暮らし、季節、歴史や事件、習慣はもちろん、

日本の映画や世界の経済、政治についてまで話は及んだ。驚いたことに、

ゴッドファーザーや彼の義理の息子は、イタリア人だというのに(先入観

のクセはなかなか抜けない!)、小津安二郎の映画をすべて観ていた。年

齢も職業もバラバラなのに、会話はいつも盛り上がって、ワインをお代わ

りしながら夜の10時を回る頃まで会は続くのだった。

「この料理は?」

「それは彼が作ったり、持ち込みだったりします。すべてオーガニックな

素材だから、安心ですね」

 あのエキゾチックな風貌をしたゴッドファーザーの娘は「イタリア映画

を観る会」にはあまり参加しなかった。イタリア人は、一人一人の嗜好を

尊重する。彼女は映画ではなく、夜はゆっくりと家で過ごすことが好きな

のだ。

「娘はビーガンなのよ。オーガニックな料理教室も開催してるわ」

 映画の会が終わって後片付けを手伝っている時に、ゴッドファーザーの

奥さんであるマンマがそう教えてくれた。夜も更けていたので、さすがに

サングラスはかけていなかったが、存在感そのもののパワーが僕の脳に働

きかけて「マンマだな〜」と心の中で、僕は彼女のニックネームを決めた。

それから数ヶ月後に僕と妻の二人はイタリアへ行くことになるのだけど、

そのイタリアで食べた、トマトやキャベツやナスやニンジンなどなど、す

べての野菜が美味かった。日本でも自然農に興味を持つ人が増えていて、

僕がその家づくりをコンサルティングしている田舎暮らしを希望する人た

ちなどは、可能な限りオーガニックな食品を食べている。

「素材が一番です。だから、オーガニックであることが大切ですね」

 ゴッドファーザーはそう言った。その眼差しは笑った時のへの字ではな

く、芸術家のようにセンシブルにきらめいていた。

 

 

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「昨夜は『イタリア映画を観る会』だったんですよ」ブルーグリーンの瞳

をした若い女性はそう答えた。

それが、ゴッドファーザーの娘さんと交わした僕の最初の会話だった。エ

キゾチックな風貌を漂わせたその女性はゴッドファーザーの若い奥さんで

はなく、娘さんだったのだ。じゃああのサングラスの妙齢の女性は? 

「今度、ぜひ参加されませんか? ぜひぜひ!」

考える間もなく、僕はその『イタリア映画を観る会』に参加することにな

っていた。

 

共用通路は吹き抜けを囲むコの字になって、吹き抜けには1階から上がっ

てくる階段がある。このコの字の上の一画にゴッドファーザーの事務所が

あり、その前がオープンなお店になっている。コの字の下一画が僕の事務

所、そしてコの字の右一画がゴッドファーザーが運営するギャラリーにな

っている。その3つの空間に覆いかぶさるような寄棟造りの大屋根がかか

っているから、ここを訪れた人は大きな吹き抜け天井を見上げながら「ま

るで市場見たいね」と言葉を漏らすことになる。

 

『イタリア映画を観る会』はいつもコの字の右一画にあるギャラリーで開

催されていた。定刻と聞いた午後7時にギャラリーに行くと、「ボンジョル

ノ、よくいらっしゃいました」満面の笑顔でゴッドファーザーが待っていた。

ボルドーカラーの長袖シャツに黒いパンツ。3分の2くらいは白髪になった

髪の毛を後ろにかき上げた彼は目をへの字に曲げて笑っていた。

「今日はパゾリーニのマンマ・ローマです。パゾリーニは詩人でもあるんで

すよ」

そう解説しながら僕を席まで案内する彼は、ちっともちょい悪オヤジなんか

じゃなくて、どちらかと言えばインテリジェンスに溢れている感じだった。

体は痩せていて顔は小さかった。その小さな顔は丸メガネをかけていて、目

がへの字に曲がった瞬間に愛嬌があふれ出すのだった。声はいつか聞いたあ

の「シー、シー、シー!」と同じものなのに、面と向かって話してみると意

外にもおとなしい印象だ。

「いつもうるさくないですか?」と彼は聞いた。

「え、何が?」質問の意味がわからず聞き返すと、

「いつも通路でワイワイしてるから、うるさくないかと」

「いやいや、ちっとも!」笑顔が引きつらないよう気をつけながら僕は答えた。

 

映画はモノクロだった。娼婦の母親とその息子の物語だ。この後、何本も

イタリア映画を観ることになるのだけれど、娼婦を主人公にした映画の多

いこと多いこと! フェリーニの「カビリアの夜」という映画でも娼婦が

主人公で、逞しくも妖精のように純粋な精神の持ち主として描かれていた。

席に着くと小さな木のテーブルに白ワインとオリーブのマリネが置いてあ

って、それを食べたり飲んだりしながら映画を観るという趣向だった。

僕はあまりアルコールに強くないこともあって、宴会のような交流は苦手

だ。忘年会や異業種交流とかは仕事つながりのことが多いから、これも敬

遠しがちになって、最近は人と集まってお酒を楽しむという機会から遠ざ

かっていた。だから、初めて会った人たちとワインを飲みながら、イタリ

ア映画を観るなんて、新鮮以外の何者でもなかった。

 

「イタリア語で『In vino veritas』、直訳すると『真実はワインの中にあ

る』ということわざがありますね。なのでー、ワインを飲んで、この映画

のお話をしましょう。真実が見つかるかもしれません!」

スクリーンを兼ねた白い壁の前に立ったゴッドファザーが笑顔になってそ

う言うと、ギャラリーの照明が消され、擦り切れたモノクロ映像でローマ

の街が映し出された。一説では、暗殺されたとも噂される詩人が監督した

映画だ。

 In vino veritas.

ワインを飲みながら交わされる会話にこそ本音が潜んでいる!

 

 

夜ごと夜ごと、イタリア人の食卓には「ワインの真実」がある。

そこには「本音と建前」なんて存在しない。自分のままで居ればいい。

思ったこと、感じたことを素直に表現していいのだ。

それにしてもこのワイン、美味い! スッキリしているのに深みがあ

っていくらでも飲めそう。お酒に弱い僕には危険な味だ。オリーブの

マリネもシンプルで絶妙な味付けだ。えっ、これは誰がつくったの?

背後のカウンターを振り向くと、意外な人物が微笑んでいた。

そう「ワインの真実」だ。おおらかな自然体で生きるイタリア人の秘密を

解き明かす鍵は、この意味深なフレーズの中に眠っているに違いない。

けれどその話をする前に、もう少し〝変なイタリア人〟との出会いについ

て語っておく必要がある。

最初に感じたあの違和感の正体は何だったのだろう? まさか、それが僕

の中で何十年にも渡って培われていた異文化に対する靄のような先入観だ

ったなんて思いも寄らないことだった。

 

 

実際に、彼らと出会う前までは、自分に先入観があるなんて考えたことも

なかった。もしそれを持っていたとしてもせいぜい0.1ミリ程度の厚みし

かないと思っていた。いやいやむしろ僕の思考はかなり自由な部類に属し

ていて、ある意味グローバルと言ってさえ良いと自負していた感がある。

住宅コンサルタントという仕事を進める手立ての一つにイギリス発のイン

クルーシブデザインというワークショップを用いたアカデミーな手法を使

っていたからだ。だから、まだ本場のイギリスに行ってこそいないものの、

気持ちの上ではイギリス人と同じになったつもりでいたのだ。

ところが、その0.1ミリの先入観が〝透明な鋼鉄〟で出来ていたなんて、今

となっても信じられない! それはそれは頑強な上に、そんな偏見が心に

眠っていることが、自分の目では見ることさえ出来ていなかったのだから。

 

「おはようございます」と挨拶をすると、

「おはようございます」というどこかたどたどしい日本語が返ってきた。

一つ屋根の下ですれ違い、笑顔で挨拶を交わすようになってからも、心はま

だ遠巻きにして彼らを眺めていたわけだ。

 

おそらくは、イタリア人と言えば、雑誌レオンに登場するちょい悪オヤジ風

の、女性という女性に無差別ラブコールを送る軽薄なイメージが焼き付いて

いたのだと思う。今となっては笑えてしまうけれど、ゴッドファーザーと並

んで歩くエキゾチックな風貌の若い女性を、僕は長いこと彼の奥さんだと思

い込んでいた。仲睦まじく赤ちゃんを抱っこなんかしているし、これ以上な

いくらい接近しておしゃべりしているし、さすがちょい悪オヤジ! あんな

若い美人の奥さんをめとっているとは! それに、時々彼らのギャラリーに

やってくる大きなサングラスをかけた妙齢の女性は何者なんだろう? 風の

ように現れてはテキパキと指示を下し、また風のように去っていく。その服

装は世界を股にかけたコスモポリタンという印象で、ドクロのペンダントを

胸から下げていたりする。彼らの仕事はどうやらイタリア語教室がメインら

しいけれど、ワインや雑貨も店頭に並べていて、日本人だけでなくイタリア

人や中にはフランス人なんかも出入りしているみたい。さらに驚いたのは、

共用通路にある日突然ビリヤード台くらいの大きさのサッカーゲームが持ち

込まれ、仕事中だろうがランチ中だろうがおかまいなしに彼らが、大の大人

の彼らが子供のようにはしゃぎながらサッカーゲームに興じ出すということ

だった。当然ながら、共用通路は異文化爆笑の渦に包まれ、なんでそんなに

笑えるの! えー、今喋ったイタリア語は何? ここ仕事場ですよね? な

んかボールを叩く大音響がすごいんですが、ある意味すご過ぎるんですけど

ー! とロバの耳がもうこれ以上はないくらいに大きくなった頃に再び仕事

に戻っていく彼らを、それでも遠巻きにしている日本人の僕って何? と考

え込む日々が続いていた。

 

ある日、共用通路に設けられた小さな洗い場を使おうとドアを開けると、流

し台の上はもちろん、床にまで汚れたワイングラスがぎっしりと置かれてい

た。パーティでもあったのかな? ワイングラスを割らないように気をつけ

て自分たちの洗い物を片付けていると、優しい声がした。

「すみません。ワイングラスが邪魔でしょう?」

振り向くと、あのエキゾチックな風貌を漂わせる若い女性が立っていた。眼

差しの奥のブルーグリーンが地中海を連想させた。とても爽やかな印象だっ

た。

「いえいえ、大丈夫ですよ」とっさに、なんの非難も態度には表さない日本

人的なスタンダードな受け答えが僕の口から出てくる。一つ屋根の下に居る

のだから、何事も穏便にやり過ごした方がいい。我々日本人には、今や日本

人の代名詞ともなった「おもてなしの心」だけでなく、すべては和をもって

尊しとすべしという調和の精神が骨の髄まで染み込んでいるのだ!

でも、ちょっとだけ、ちょっとだけ気になっていたことを一つだけ質問して

みた。

「何のパーティだったんですか?」

この小さな質問から、僕らと〝変なイタリア人〟との間に横たわっていたサ

ハラ砂漠サイズの距離が一気に縮まっていくことになる。

 

 

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僕の会社が入居している商業施設は、広い敷地内に建っている3つの大屋

根の建物の中の一つ。その同じ一つの屋根の下に〝変なイタリア人〟がや

ってきたのは、今から2年前のことだった。

こちらこそ失礼な言い方だけど、異文化にあまり触れたことのない僕は素

直にそう思った。推理小説だと「違和感こそ真実への入り口」といったと

ころだろうけど、まさにかなりの違和感を感じていたわけだ。

 

今でもはっきりと憶えている。オフィスの中でデクスワークをしている僕

の耳に突然、「シー、シー、シー!」という聞きなれない言語が飛び込ん

できた。誰かと電話で話してるみたい! 新しくイタリア人が入居すると

は大家さんから聞いていたけど、共用通路に立って、しかも声を張り上げ

る感じで携帯電話でおしゃべりするなんて迷惑じゃない? 今思えばいか

にも平均的な日本人の反応として、僕はそう感じながらも、表に出て陽気

な声で注意するなんてことはしなかった。まあ、この辺りもいかにも日本

人と言えば日本人だなと思うけど。

それから、あっという間に2年が経って、〝変なイタリア人〟のことが大

好きになって、彼らが頻繁に催すパーティの常連にもなった。それに、ど

うしてあの時に彼が大きな声で通路でおしゃべりしていたのかも今ではよ

く理解できる。

そして今夜もまた、一つ屋根の下、マンマを囲んだ〝一皿のおしゃべり〟

がはじまる。彼のことを僕は密かにゴッドファザーと呼んでいて、その奥

さんのことはマンマと呼んでいる。

マンマは生粋の日本人だけれど、とてもおおらかでワイルドなところはイ

タリア人以上にイタリア人かもしれない。この二人がローマで出会って一

瞬にして恋に落ちた話は、またいつか話そう。骨董屋が並ぶローマの下町

に本物の手と見紛うかのような人形の手がぶら下がっていたシーンやゴッ

ドファザーの一家については、じっくりと語らなければならない。彼が人

形劇団のトラックを運転して、イスタンブールの砂漠を疾走した冒険談も

今はまだ何も語らずだ。 

 

今夜はイタリアの国立美術学院の学生たちの展示会の開催を祝うオープニ

ングパーティだ。イタリア語ではパーティのことはフェスタと言うから、

正しくはオープニングフェスタ。会場の片隅では、二人の美大生を紹介し

たマンマが、その流れでいきなりイタリア民謡を歌い出している。イタリ

ア人はどんな催し物でもかしこまった挨拶でスタートさせることはないけ

ど、流れ次第ではどんどん盛り上がっていくという傾向にある!

「このリンゴの歌は悲しい歌なのよ。とってもとっても悲しい歌」

そう言って歌うマンマの歌声は、〝過って妻を殺してしまった男の〟打ち

ひしがれた悲しみを滲ませていて、その周囲1メートルほどはマンマの湿

気を帯びた歌声で暗く陥没しているみたいだった。

会場のカウンターではゴッドファザーの息子さんがワインのボトルを持っ

てゲストをもてなしている。

「ロッソ・ビアンコ?」

「ビアンコ」僕が答えると、手にしたグラスに白ワインが注がれる。

それにしてもイタリア人はよくワインを飲む。

「種の数ではイタリアワインはフランスの比じゃないんだ。250種類はあ

るから!」ゴッドファザーは目をへの字にしたいつもの気さくな笑顔にな

ってそう語った。

会場のテーブルにはいくつもの料理を載せたお皿が置いてある。その中の

一皿は僕がつくった料理だ。茹でた生パスタのオレキエッテをボールに入

れたバジルペーストによく混ぜてまだ熱々の状態で大皿に盛り付けた一皿。

反響が気になったので見ていると、あっという間にみんなの胃袋の中に消

えていった。

「グラッツェ!」心の中でそう声を上げる。こんな展開なんて、2年前の

僕だったら考えられないことだ。そもそも、あの頃の僕なら、きっとここ

には居ない。

それに、〝ワインの真実〟だって知らないままだったに違いない。

 

 

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フィレンツェのこの辺りの通りに、そのアンティークショップはある。

名前は『ルカ』。

お店に入ると、他の骨董屋とは明らかに違った雰囲気が漂っていて・・・。

 

 

声をかけてもいいものか、慣れないイタリア語で

「すみません、よろしいですか?」細長い店の奥に向かって話しかける。

 

現れたのは、店主とおぼしき美しい女性。

いくつかの商品について説明を受けるものの、話は途切れ、彼女は再び奥へ。

商いをしようとする感じは皆無で、ただただ時間が止まったようなその空間に

彼女はひっそりと身を置くだけ。

 

「この絵画は?」

「そう、それはボーイフレンドが描いたものなの」

「素敵ですね」

「ありがとう、画家なの、名前はルカ」

 

イタリア語では続かない会話をなんとか英語で続ける。

 

値段を聞いて、財布の中身を想像し、二人で顔を合わせた。

頷かないのは「また今度ね」の合図。

仕方なく、店の外へ。

 

この辺りの通りを歩きながら、会話がやがていつものリズムを取り戻す。

「あの絵、良かったね」

「うん、良かった」

「いつかまた来ようね」

「うん、きっとね」

 

だからもう一度、僕らはきっとフィレンツェへ行くことになる。

 

ルカのガールフレンドは、自分の時間を生きている。

もしかしたらルカの描く絵の中に彼女は生きているのかもしれない。

 

イタリアには「満杯の酒樽と酒好きの女房を同時に持つことはでき

ない」ということわざがあるけれど、彼女もまた、たった一つの時

間の中で息をしているのだ。

 

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どんな人の人生も100センチメートル。

たとえ数時間の命でも、50歳でも100歳でも、そのサイズは

100センチメートルなんだ。

 

 

だから1センチずつ1センチずつゆっくり歩けばいい。

街はずっとそこにある。

人もみんなそれぞれの1センチを歩いている。

スピードは偶然に任せればいい。

雨の日の風の日も嵐の日も悲しい日も祝いの日も、

自分の100センチを目指して歩いていけばいい。

 

ところで、偶然のサイズはどれだけだったっけ?

 

たぶん、35ミリだと思うよ。

偶然は映画のワンシーンだからね。

 

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心のサイズを大きくしたければ、シエナに行けばいい。

自分を取り囲む建物の高さ、目の前にすり鉢状になって広がる異

様とも映る広場空間、肌にまでひしひしと伝わってくる中世やル

ネッサンスが持つ歴史的な色彩、行き交う人種が放つ強烈なカオ

ス感。それがあなたを圧倒し、心のサイズを大きくしてくれる。

 

 

高さや広さといった物理的数値も、手触りや風光のもたらす刺激

の程度も、悲しみや喜びといった感情の起伏も、そのすべてが、

幻想にも似た心の中のサイズだ。

そのサイズ感は環境に左右されるから、シエナのような圧倒的な

スケール感の中に身を置くと、ショック療法を受けたように、そ

の大きさは倍増する。

 

 

日本の都市では出会うことのないこのスケール感の中を歩く、見る、

測る、覚える。

そしてその視界を日本の町に転じて、そこにシエナの残像を重ねてみ

る。すると、心のサイズが大きくなっている自分に気づくだろう。

 

それが人生のサイズが変わる瞬間だ。この体験をしたら、すべての物

が違って見えてくる。今まで違和感を覚えていた風景を受け入れるこ

とができる。落ち着いた本来の自分を取り戻し、1ミリも揺れること

もなく「いいってことよ!」と人を許す寛容さが生まれてくる。

 

その時、一皮剥けた、新しい役者が誕生している。

 

 

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チビタ・ディ・バーニョレージョ。

「死にゆく町」とも呼ばれる集落だ。

 

 

今から2500年も前にエトルリア人によってつくられた都市。

凝灰岩の台地に立ち、その周辺が徐々に崩壊している。

いずれはこの地上から消えて無くなるというのが「死にゆく町」

と呼ばれる所以だろう。

 

夏は100人ほどの人口も冬場には20人ほどになる。

集落の中には土産物や小さな宿、リストランテがあり、石積みの

家が囲い合うように通りを包んでいる。

 

 

建物の風化も進んでいてやがて岩山と同化していくのかもしれない。

石畳に腰かけたギター弾きの奏でる悲しい音色、ひなたぼっこする

気だるそうなネコ、通りを抜けていく風の声。

 

 

笑い声が聞こえたので振り向くと、観光客の一団だった。

住民の声はあまり耳に届かない。

エトルリア人がローマ人と同化して消滅したように、この町も

歴史の中に消え入ってゆくのだろう。

そこには、一種の美学がある。抗うことなく、時の流れに身を委ね、

歴史の彼方へと歩みを進める者たちの哲学が、

この町を包んでいる。

 

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「美の競演だね」と二ツ星のイタリア男が呟くと、すかさず

「君の美しさの前に出る者はいないね」と三ツ星男が囁く。

 

 

勝者は三ツ星!

女性への褒め言葉は、オンリーワンに勝るものはないからだ。

 

言葉選びには細心の注意を払いたい。それ一つでこちらが与える印象が

グンと異なる。そして、印象はカテゴリーに直結する。一度でもそのカ

テゴリーに分類されると、なかなかそこから抜け出せない。第一印象は

ずっとイメージを引きずっていくことになる。

だからこそ、いついかなる時にも三ツ星のセリフが口から出るように訓

練をしておきたい。

その極意はいろいろとあるのだろうけど、「いい樽はいいワインを作る」

というイタリアの諺にもあるように、口先だけではなく言葉を生み出す

頭の中身を鍛える以外に手はない。

ただし「自分の型を持つ」という方法はある。自分という人間を分析し、

その〝来し方行く末〟を想定して今のステップで演じるべき自分の役柄

を理解した上でそのキャラクターを知る。樽で言うならば、それが楢製

なのか栗製なのかメープル製なのか樫製なのかそれを知ること。それで

どんな香り付けができるかが異なるはずだ。その上で、その役柄にマッ

チした最上のセリフの性格付けを行っておく。後はその性格と相性のい

い名人たちの格言や名台詞のパターンを覚えておく。ざっと言えばこん

なステップで自分の型を作っておく。

これが僕の考える三ツ星セリフの造り方だが、他にもいろんな方法があ

るはずだ。もっと長期的な作戦に基づいた〝種を蒔いてから刈り取る〟

までにステップアップしていく三ツ星セリフだって考えられる。

一番大切なのは、自分のキャラクターにふさわしい三ツ星セリフが口か

らこぼれ出ること。しかもその行為がとても自然であることだ。

それを当たり前のように日課にしているのが、イタリア人だと思う。

 

 

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そのシーンに自分を配置してみること。

それもフレーミングと呼んでいいと思う。

それをすると何が解るのか? 

まずは自分のサイズや大きさが解る。

自分がそのシーンに似合っているかどうかが解る。

この二つが解るだけで、その先にどんな手を打てばいいのか、

戦略が打てるように思う。

もし自分のサイズが小さ過ぎてそのシーンに似合わなかったとして

それでもそのシーンの中できらめいている自分を獲得したいなら、

一体どうすればいいのか? それを必死に考えることが大切だと思う。

 

この中世のシーンにあなたは似合うだろうか?

 

 

それをフレーミングしてみる。

時代は現代だろうか? それともルネッサンス?

このシエナの町のどこにあなたは居るのだろう?

門番、リストランテのシェフ、ギャングのボディガード、警官、

司祭、清掃人、カメラマン、難問に挑む教授、恋に焦がれる青年、それとも

単なる観光客? どんな役柄だって、このシーンに登場することができる。

 

ここからの遠景では、町のサイズ感は解らない。

さあ、中に入ってみよう。

 

 

圧倒的なスケールがあなたを待っている。

それは、決死の形相で城壁を打ち破ろうとする敵から民族を守るための

壁の高さを基準にした中世のサイズ感だ。

 

このサイズ感をキャッチすることが大切だ。

そうすることで、あなたは新しい観察の仕方、すなわち〝測り方〟を

会得することになる。

 

一瞬、足元の石畳が揺れる。

目眩の中にうずくまると、あなたは中世のイタリアに立っている。

自分で自分を観察する。自分で自分を測る。

私は何者で、どんな役柄を演じるためにこの世の劇場に舞い降りたのか?

想像する、創造する。そして微かなヒントが見えてくる。

 

イタリアの町を歩いていると、こんなフレーミングが

自然に始まっている。

 

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