母親が最後の汽車で西に向かうと.

ポーランドとロシアに属するオーデル・ナイセ両河以東の旧ドイツ領に 残されたドイツ人孤児は 第二次大戦後 西に向かって 森の中をさまよい歩いた。「狼こども」と呼ばれた。リトアニアに向かい、さらに東ドイツに向かって メメル河(Memel、東プロイセンの河)を超え、彼らは歩いた。
映画では おじは消え、母は死んで、リトアニアの自然・森・沼・川と子どもが主役になる。監督はRick Ostermann.
大戦の直後に この土地で ほとんどが東プロイセンの子ども達が 数千人 生き延びるために闘っていた。家族を失い、グループになり、無人の農家に泊まっていた。リトアニアは 大戦が終る直前の 数ヶ月は 東プロイセンと比べて、それほど破壊されていなかったので ホームレスの子どもにとって 食べ物のある土地だった。
彼らは乞食をし、盗んで生きた。生き延びた子の中には 安い労働力として 農家に受け入れられた子もいた。「狼こども」が何人いたか はっきりとは わかっていない。約5千人いたという推測もある。
50年台の初めに ソ連は ドイツ孤児を東ドイツに移送した。東独で約3000人が 児童施設に収容された。
リトアニアに留まった子どもも 数百人いた。ドイツ語は 忘れていたが ドイツ人であるという自己意識をもって生きていた。ソ連の時代に そのことは 話せなかった。しかし 1990年台にリトアニアが独立した後、「狼こども」は「エーデルワイス」という協会をつくり、自分たちの悲運を知らせた。
ドイツのテレビは この10年間、狼子どものドキュメンタリー映画が 繰り返して放映してきた。Sonya Winterbergの「私たちは狼こどもだった」という本も 最近 出版された。
上述の本の著者 Sonyaは 1944年の秋に 5歳のヘルムートが 家族から生き別れた様子を記述している。母親は Memel地方から 身内のいるザクセンへ ヘルムートと3人の子どもを連れて行こうとした。四人の子どもは 小さいリュックサックを背負っていた。西へ向かう最後の汽車は 駅を出てしまったと 兵士はヘルムートに言った。駅の雑踏の中で 母親は ヘルムートが 取り残されているのに気づかなかった。彼は 家族に再び会うことは なかった。
逃亡の大混乱の中で 強姦・拷問・死を見るというトラウマのために 狼子どもは孤立した。1990年台に やっと 辛い体験を話せるようになった時に ほとんど誰も 聞いてはくれなかった。
現在でも 戦争と内乱のつづく地域では 数百万人の子どもが 同じような経験をしている。
この映画の撮影班や俳優は Memel三角地帯の休暇村に滞在した。子役にとって 撮影旅行は 家族の休暇のようなものだった。
メメル河を 板の筏で渡る場面は プールではなく、実際の川で撮影された。
70年前と ほとんど変わらない風景が そこに あった。狼こどもの代わりに 牛が居た。
下記サイトから:
http://www.welt.de/fernsehen/article108407207/Wenn-die-Mutter-im-letzten-Zug-nach-Westen-sitzt.html