いすけ屋


 韓国合併までの経緯なので、歴史的にはあまり面白くない。ただ、李朝の事大主義、親露傾向が強くなり、不安定になってくる。朝鮮国内にも独立派が生まれて、金玉均らはクーデターを起こすが失敗する。最後に日本が面倒を見なければならなくなる因縁があったのだ。彼等の後ろ盾になっていた福沢諭吉は「脱亜論」を書いた頃である。読んでいても気持ちがすっきりする。



 「(こんにち、日本の進路を考えるにあたり、我国は隣の国の進歩を待って共同してアジアを興す暇はもうない。もう待ってはいられないから)……その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず正に西洋人が之れに接するの風に従って処分すべきのみ。悪友と親しむ者は、共に悪名を免がるべからず。我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」





続き



独立党による甲申事変と改革の挫折      



 すべての朝鮮人が清国の属国となることを歓迎したのでは、もちろんない。朝鮮独立・近代化の志士も当然に存在した。朝鮮独立の志士といえば、金玉均や朴泳孝の名前があがるであろう。清を中国として服従する事大党に対して、彼ら独立党(開化党)は日本の開化政策をモデルに考えていた。そして、日本の援助と協力を期待していた。


 彼らは福沢諭吉の教えと協力を得た。福沢諭吉は、自分が日本で実行してきた方法、つまりは洋学(実学)の学校の設置・充実と新聞の発行を勧めた。


 学校の設立はすぐには困難だったので、金玉均は四〇名以上の学生を日本に派遣し、半数は陸軍戸山学校に入学した。陸軍戸山学校というのは、軍の術科学校である。


 他の学生は、各種の実業学校に入学した。ともに後日の指導者の育成を期待しての措置であった。


 新聞は福沢諭吉の弟子・井上角五郎が『漢域旬報』を発行した。朝鮮で初めての新聞である。このように、朝鮮独立の努力は順調に進むかに見えた。


 しかし、朝鮮の独立・近代化を嫌悪する清国はこれらの動きをいろいろと妨害した。


 日本と朝鮮の関係を律していった諸要因が、この時期に網羅的に出揃った観を呈している。なかでも決定的な出来事は、日朝修好条規の実質的な破壊・破棄であった。


 日本が「琉球」を沖縄県とした(一八七九年、明治十二年)こともあって、華夷秩序に立って琉球を見ていた清国は朝鮮支配を王朝的な宗属関係から「近代的」な支配・被支配の関係に転換・強化した。琉球を清国は属国と見ていたが、薩摩藩は「朝貢貿易」によって利益を得る方便としていたのを、西南戦争に勝利した明治政府は沖縄県として鹿児島県から分離させた。


 清国の朝鮮支配の強化が進むなかで、隷属的な閔氏政権を前にして開化派が二つに分裂した。清国の影響下に立ちながら開化を進めていこうとする事大派と、独立と近代化を主張する独立党との分裂である。


 事大派は閔氏勢力のなかにあって、清国に依存しながら開化策を進めようとした。


 それに対して、金玉均らの独立党は清国の支配下の閔氏勢力を排除し、清国の支配下から脱却した独立・開化の路線を進もうとしていた。モデルは日本の明治維新であり、日本の支援を期待していた。彼らは閔氏政権・李朝には深く絶望していた。これら事情を見ておこう。甲申事変での閔妃殺害という事件の原因にも関係するからである。


 閔妃は壬午の軍乱を逃れて地方の閔氏一族の屋敷に隠れていたとき、ひとりの祈祷師(女性)に帰依するようになっていた。王宮に復帰してからは、宮廷内に祈祷所(北廟と称した)を設けて朝夕に盛大な祭祀を行わせた。閔氏一族は言うまでもないが、王族・政治家・官僚などが列をなして礼拝するようになった。


 北廟の祈祷師は大霊君と尊称され、供物や祭祀料は困窮する国家財政を尻目に膨大な額にのばった。このため宮廷の財政は殆ど破綻状態になったが、関税収入が充てられる始末となった。メレンドルフはこれを献策しただけでなく、悪鋳の出目による財政「再建」策を実行した。「当五銭」と言われたが、五分の一の悪鋳である。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則のごとく、朝鮮国内の物価は当然に暴騰した。


 悪鋳による出目は閔氏一族をはじめとする権力者たちの私腹を太らせることとなった。庶民は困窮にあえいだ。


 この当時の李氏朝鮮で、国民国家の形成と独立・近代化を本格的に自覚して活動したグループは金玉均たちの独立党以外には存在しない。金玉均は一八五一年生まれだから、甲申事変の年(一八八四年)には最年長の彼は三十三歳、他の独立党の志士たちはまだ二十歳代という若者たちの集団であった。


 彼らは若いだけではなく、いずれも将来を嘱望された両班階級出身の青年たちであったが、しかし、彼らは事大党や閔氏一派に憎まれて、要路に立つことはできなかった。


 一八八四年十二月、清仏戦争で清国が敗れるという事態が発生した。独立党はこれを機に日本の支持を得て、クーデターを起こした。事入党の主要な政敵を倒し、新しい政権を立てた。甲申事変と言われる事件である。


 新政権は、清国への朝貢の廃止・宦官の廃止・財政改革・警察の設置と治安の維持などの改革綱領を発表した。


 このクーデターに国王・高宗の暗黙の支持があったことに触れておこう。金玉均より一歳年下の国王は三十二歳であったが、国が清国軍の制圧下にあり、政治の実権は閔氏一派に簒奪されていた状況にあって、国の独立と近代化を主張する金玉均たちに深い共感を抱いてはいた。


 メレンドルフや閔氏一派は、独立党の禁圧と処刑を公然と口にするようになっていた。


 国王は密かに参内させた金玉均が「この機を逃すべきでない」と言うのに答えて、「国の人事を卿に委託する」と応え、詔書を与えている。


 だが高宗は後になって閔妃の勧めに従い、李朝の要請として清国軍の出動を求めることにも同意した。これは袁世凱の命を受けた重臣たちの働きかけによるものであった。


 「要請」を受けて袁世凱は一三〇〇人の軍を出勤させ王宮を攻撃し始めた。日本車はわずか一五〇人にすぎなかったが、激しく反撃し攻防は予断を許さない様相を呈した。戦闘では日本兵一名が戦死したが、清国軍は五三名の戦死者を出していた。


 戦闘継続を主張する中隊長の意見は退けられ、仁川港からの撤退に決した。血路を開いて、辛うじて仁川港から出航することができた。金玉均、朴泳孝たち独立党の指導者たちはこうして日本に亡命した。


 このとき日本公使館は焼き払われ、婦人を含む多数の日本人が惨殺された。


 日本国内には反清国、反朝鮮の声が高まったが、日本全権伊藤博文と清国全権李鴻章との間で調印された天津条約で一応の決着をみた。条約の要点は次の三点である。
 一、両軍は四ヵ月以内に撤退する。
 二、朝鮮は自国で軍隊を訓練する。訓練の教官は日本・清国以外の国に依頼する。
 三、将来、朝鮮に兵乱があり日清両国が出兵するときは互いに文書で通知し合う。


 李朝にとって両国軍隊の撤退は大きな収穫に見えた。清国にとっても独立党の敗退は日本の退潮とも見え、これまた収穫に思えた。しかし、事態はまったく別の展開を見せるのである。ロシアの登場である。


 もともとロシアの朝鮮進出は、両国が通商条約を結んだことに始まるが、この通商条約は清国が日本を牽制するために、朝鮮を列強諸国に対し開港させたことに端を発している。


 両国軍隊の撤退は、ロシアを大いに笑わせたのである。





李朝の新たな事大主義・親露政策  


 李朝では清国の干渉を逃れるために、密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。一八八五(明治十七)年一月に甲申事変の後始末のための漢城泉約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。策謀者はメレンドルフである


 メレンドルフは謝罪使として束京を訪れているが、滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スベールとの会談に賞やしている。メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる第三国にロシアを当てようとしたのである。彼は清国の顧門官であり、清国を裏切ったようではあるが、清国もロシアを「利用」する気持ちを抱いていた。それは清国へのロシアの圧力を朝鮮経由で日本に充てようという以夷征夷策に出ている

 メレンドルフの提案をスペールは受諾した


 ところが、四月十八日に天津条約が締結され日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した


 六月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが外務督弁・金充植は不知として相手にならない。交渉は紛糾した


 こうしたなかで朝露密約の存在が暴露された。内容の要点は次のようである

一、金玉均がウラジオストックに来れば、ロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す
二、日本への賠償金はロシアが日本政府への影響力を行使する
三、外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる
四、朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する


 外務督弁・金充植らがウソを言ったわけではない。ウソを言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。


 閔氏派の高官だちとメレンドルフが閔妃を動かして国王・高宗に働きかけ、国王の内諾を得てロシアとの密約が結ばれていたわけである。甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする別の事大主義が力を得ていた


 密約が発覚して、メレンドルフの立場は微妙になった。さすがに李朝宮廷も彼を外務顧問の任から解いたが、俸給は支払い続け、しかも彼は漢城に駐在を続けた。李鴻章はメレンドルフの後任にアメリカ人を充て、大院君も帰国させ李朝を制約しようとした。しかし、朝鮮の親露傾向は、清国の力をもってもどうしようもない域に達していた


 朝鮮半島は、ロシアのものになると列強は見始めた。果然、イギリスが動いた


 明治十八(一八八五)年四月、イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。朝鮮海峡を扼するこの島は、ロシアの東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている


 ロシアはイギリスに抗議して、巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた


 英露交渉は二年間にわたったが、清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで、英国艦隊は去った


 この事件は、日本に深刻な影響を残した。朝鮮へのロシアの南下がすぐに列強間の緊張をもたらす現実を日本は直視した。そして、李朝政府がいかに無力であるか、を改めて認識させられたのである。自国の運命が、外国勢力に好きなように左右させられるのを見た朝鮮国民のなかに、当然に危機意識を深める国民(志士)が増えた


 しかし、李朝の親露政策は強まる一方であった。明治二十一 (一八八八)年、露韓陸路通商条約が結ばれ、半島北東部の慶興にロシアの租借地が造られた。ついで、豆満江(現在の北朝鮮とロシアの国境)の航行権を李朝はロシアに与えた


 やがてロシアは鴨緑江の航行権を手に入れ、森林の伐採権を手に入れ、河口の港・龍岩浦をポートニコラエスクと改め、軍港工事を進める時点で日露の開戦にいたるのだが、十六年のちのことである


 福沢諭吉が「脱亜論」を「時事新報」紙上に書いたのは、甲申事変のすぐあとの明治十八年三月のことであった。福沢諭吉はこう書いた


 「(こんにち、日本の進路を考えるにあたり、我国は隣の国の進歩を待って共同してアジアを興す暇はもうない。もう待ってはいられないから)……その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず正に西洋人が之れに接するの風に従って処分すべきのみ。悪友と親しむ者は、共に悪名を免がるべからず。我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」と痛烈である


 甲申事変のあと、福沢諭吉は対清国開戦論を書いて「時事新報」はあやうく発行停止になりかけたことがあるが、巨文島占領事件のあと「朝鮮人民の為にその国の滅亡を賀す」と書いて、ついに「時事新報」は発行停止を命じられている


 福沢諭吉のことをここで詳しく述べる紙数はない。もともと彼は多くの日本人と同じく、日本・清・朝鮮・三国連衡で国難に対処しようという連衡論者であった



 しかし、中華主義から朝鮮支配を変えない清国と、内紛の絶えない朝鮮、しかも表裏常でない朝鮮の外交、加えて迫るロシアの脅威のなかで福沢諭吉たちは「脱亜論」に立つにいたった。これは、視点を変えれば、朝鮮の志士たちの心情でもあった


 朝鮮近代化の熱情に燃えた愛国の志士たちは少数ではない。志士と言えば金玉均の名があがるであろうが、彼の墓は東京本郷の真浄寺にある。彼は甲申事変に敗れると、朴泳孝らとともに日本に逃れてきたことは先にも触れた。身柄引き渡しを朝鮮政府は要求してきたが、日本政府は拒否している。日本での生活費用として日本政府は金玉均に「月給」五〇円を支給している。彼は同志の裏切りにより、上海に連れ出され殺される。死体は清国軍艦で朝鮮に運ばれ、六支の刑(頭、手足をバラバラにする極刑)に処せられ朝鮮各地にさらされた。父は死刑、母は自殺、弟は獄死という悲惨な結末で一家は全滅している。明治ニ十七年五月ニ十日、金玉均の葬儀は浅草本願寺で盛大に営まれている。遺髪を日本人が持ち帰り、葬ったものである


 彼ら志士たちの存在は、なぜか語られようとはしない。理由を言えば、職業的「独立運動家」たちを、アメリカが戦後の韓国の権力の座に据えたからである


 伊藤博文を暗殺した安重根は義士と讃えられ、日本の高校の教科書にまで写真入りで登場する。彼の巨大な銅像を、私は複雑な気持ちを整理できないで見つめたものだ(本章末の(注)を参照)


 一方で、東京の金玉均の墓前でも、私は極度に複雑な思いに駆られる


 反日・嫌韓は戦後の一時期、アメリカの国策に沿うものであった。李承晩という職業的独立運動家たちには、金玉均たちの存在は邪魔であった


 インドでも最も高名な独立の志士はチャンドラ・ボースである。彼は日本軍と共同して、自由インド軍を率いてイギリス軍と戦った。日本軍が敗れたのち、不幸にも彼は事故死するが、インドの国民は彼を敬愛してやまない。だが、インドではポーズはまぶしがられている一面がある


 金玉均は、若くして倒れたが偉大な愛国者である。私は心から彼を敬愛する


 今度の大戦で、韓国人が日本人として勇敢にアメリカ軍や国府軍と戦ったことをわれわれ日本人は知っている。黄文雄氏の浩瀚な研究によれば、昭和十六年に朝鮮で三〇〇〇人の志願兵を募集したら四八倍の志願者があった、という


 翌年は、八四倍の二五万人余の志願者があった。特攻隊として散った朝鮮人も少なくはない。靖国神社には約三万人の御札が祭られている(『「龍」を気取る中国・「虎」の威を借りる韓国』黄文雄著・徳間書店)


 アメリカには時々とんでもない思い違いをする性癖がある。日本の徹底的な弱体化を狙って、ユダヤ対ドイツのような対立の構造を日韓両国の間にビルトインした。李承晩はこの路線の上で韓国の権力の座にすわった人物である。日本時代に親日だった圧倒的多数の韓国・朝鮮人がなぜ反日に転じたのか。これは事大主義だけでは説明できない。韓国が反日感情が現存する唯一の国であるのはなぜか


 一因を言えば、金玉均たちの存在がまぶしいからである。彼らを殺したのは韓国人であり、日本人ではないからだ。歴史を歪曲しているのは日本ではない。韓国・朝鮮の側である。捏造し歪曲した歴史を用いた反~数六~とイデ才リギー数行で、位田・朝鮮は歴史を失おうとしている。再度言うが、歴史を捏造しているのは日本ではない。これは国際的な常識である。アメリカにもアジアにも反日感情はない。韓国にだけ、あるのだ。中国の反日は別の問題である。中国の「反日」は共産党支配の正当化の道具であるからだ


 金玉均たちこそは、歴史の渦のなかで、祖国を清国やロシアの爪牙から守ろうとして志半ばで倒れた志士である。彼たちは朝鮮の安全保障・開化・近代化のために、清国やロシアに対抗するためのパートナーに日本を選んだ政治家である


 日清戦争のあと大韓帝国が成立したが、ロシア帝国の爪牙に組み敷かれた。そのとき、日露戦争に勝利した日本と組むしかないと理解していたのが、韓国内の強力な世論であった


 安重根は義士かもしれないが、金玉均たちの経綸(国家を治めととのえる)の抱負・使命感・視点の高貴さを見落としてはならない(金玉均は日清戦争の直前に虐殺され、彼は日清・日露戦争の結果を知らずに死んでいる。心事哀れである。安重根については後出)


 韓国内に日本との連携を考える強力な世論が存在しないまま、韓国は日本から赤子の手をひねるように一方的に併呑されたというのだろうか。今、日韓の歴史はそのように握造されている。これは形を変えた蔑韓論である。言うまでもないが、これは歴史の事実に反する。歴史を知る日本人は、例えば特攻隊で散った朝鮮出身の若者のことを決して忘れてはいない。



続く