【「体罰」を考える】(19) 

「殴ってみろよ!」「傷ついた。死んでやる」 教師を挑発する生徒たち      
2013.2.22 10:28
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130222/wlf13022210340004-n1.htm


 関東地方の高校教員から寄せられたメールに「最近の実例」が記されていた。


 卒業式を控えた生徒たちが、あえて叱られるような髪形や服装で登校し、挑発的な言動を取るようになったという。


 「殴ってみろよ! お前の生活をめちゃくちゃにしてやる」。諭すと、笑いながらこう言い返してくる。「あーそうかい、傷ついた。死んでやる」。周りの生徒たちが、さらにはやし立てる。「もし、こいつが死んだら言葉の暴力だぜ。お前ら証人だぞ」


 メールの主の先生は「教員だから、これを耐えろというのですか。荒廃した現場をみて、どう考えるのですか」と問いかけていた。


 この先生は「体罰を許さない」という風潮の高まりの中で、特に学習指導や生活指導が難しい“荒れた学校”で、生活指導に熱心な先生ほど窮地に立っているという実情を記していた。「真面目に指導している先生が悪なのでしょうか」。文面から悲痛な思いが伝わる。


 体罰だけでなく、不当な要求を繰り返す保護者(モンスターペアレント)やいじめの問題など、学校現場を取り巻く課題は多い。まじめな先生ほど追い込まれている現状もあるといい、別の教員のメールには「先生にも自殺者が出そう」と書かれていた。


 ただ、冒頭のメールの先生は「こんな状態になってしまったのは、われわれ教員が指導法を確立していないまずさもあるとは思います」と反省の言葉を記し、こう続けていた。「過熱した報道を見て、自殺すれば社会を動かした英雄になるかもしれないという子供が増えないか、心配でなりません」


 大阪市立桜宮高校の問題でも、体育系2科の入試募集中止や部活動停止をめぐり、同校の女子生徒を名乗る若い女性から、市に「私が死ねば在校生はみんな救われるんでしょうか」と自殺をほのめかすような電話がかかっていた。子供たちにとって「自殺」が事態打開のキーワードになっているということだろうか。


 体罰問題と直接関係ないが、今月14日には、大阪府大東市のJR片町線(学研都市線)野崎駅で、快速電車にはねられて小学5年の男児が死亡。「どうかひとつの小さな命とひきかえに(小学校の)統廃合を中止してください」と記した遺書が見つかるという衝撃的な出来事もあった。


 現場の教師たちは、相次ぐ子供たちの自殺を逆手にとってふざけた態度をとる生徒とも対峙(たいじ)しつつ、思い詰めた子供の「SOS」を見抜くことが求められている。先生たちからのお便りを見るにつけ、苦労がしのばれた。(か)





いすけ屋


 「体罰」について、日本ではある一定の空気が出来ている。そこで「体罰」を容認するような事を書くと、もう酷いものだ。それでもここは勇気を振り絞って一言言わせてもらう。日本人は情にもろい。よってある生徒が先生に殴られたと言うと、皆は一斉に体罰を下した先生を責めるが、生徒に何故殴られたのかは聞かない。はなから「体罰=悪」という認識であるから、理由は必要ないのだろう。しかし、大概の場合、生徒が先に何か悪いことをして注意されてのことである。また先生に歯向かったりもする生徒もいる。先生も人間だから手が出ることもあるだろう。逆に生徒から暴力を受けてケガをした先生も多いが、これはたいてい表に出ない。部活の場合はこれとは別で、罰としてグラウンドを10周させるより早く済むからだと聞いたことがある。



 今、教育の現場に関係のない、お偉いさんたちが、「厳しくしなきゃ」と、体罰に加えて叱ることまで制限しようとしている。生徒は未熟であり、事の善悪も判断できない場合だってあるのに、その指導すらできなくなったら、日本の教育はいったいどうなってしまうのだろう。それと、何故、いじめられたぐらいで、あるいは体罰を受けたぐらいで「死」を選ぶような弱い子が多いのか、不思議でしょうがない。死んで訴えればヒーローみたいに扱われるのも、勘違いの手助けをしている。両親に対して「産んでくれてありがとう」という感謝の心も教えられていない。



 結局、日教組が進めた教育方針に誤りがあったのではないか。個人の権利を誇張しすぎたため、利己主義な大人が増えた。「〇〇の為に」という奉仕する心は、戦前のナショナリズムを煽るとして教えられなかった。それでも、福島震災の折には、全国の若者がボランティアとして現地に集まり、災害復旧に手を貸しているので、正しく育った子たちもいることは間違いない。



 そう言う根本的な問題も解析せずに、何もかも規制すると言うのは、現場の教師にとっては、「何もするな」ということになり、機械的な授業になってしまっても仕方がない。昔は教師と言えば大学を出ていて父兄からも尊敬されていたが、現在は猫も杓子もいちおう大学出だから、先生をバカにする。この態度が子供に感染して、授業中に横柄な態度をとるようになって、叱られると、親に報告し、モンスターペアレントのお出ましだ。しかし、そんな左巻き父兄を育てたのも日教組だから、己が蒔いた種である。



 この産経の「体罰を考える」シリーズでは、いろいろなケースが出てきて、考えさせられる。女子柔道だって、男子からはそのような苦情は出ていない。名前も名乗らない。というか、誰かが止めている。なんかそこに、「女だから」という甘えがあるように思う。テレビに一緒に出されたとか、理由にならない。全国代表の合宿に参加しただけで大したものなのに、何故それが誇れないのか。園田元監督は2年間に5度ほど暴力行為はあったと言ってるが、この程度なら当たり前だと思うが・・・。



 私は、この15名を取りまとめた「女三四郎」と言われた山口薫筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授の「全柔連」に対する抗議だった見ている。全日本柔道連盟は29人の理事・監事がいるが、女性役員はゼロである。最近オリンピックでは女子の方が活躍しているこのご時世に女子の役員がいないのはどうかと思う。15名の女子選手も本心はここにあったのではないか。全柔連の組織改革は必至であるのに、「体罰」問題に振り替えてしのごうとした幹部役員は卑怯でもある。「体罰=悪」の空気を盛り上げてしまった。



 話がずれたが、「体罰」がタダいけないというのは正しくはないと思う。私自身、高校時代は剣道をやっていたが、練習が厳しくて朦朧としかけた時、師範に一本まともに面に入れられて、シャキっとした経験もあるので、あながち何でもダメと言うのは当たらないと思う。もちろん程度の差はある。この立ち位置は、体罰容認派なんだろうけど、別にすべてオッケーでもないので、表現が難しい。しかし、物事を隙間なくギチギチに規制することは反対だ。