いすけ屋


 あるときは中国に、またあるときは強いロシアに付く、これが朝鮮の事大主義である。福沢諭吉が失望したように、朝鮮半島に手を差し伸べるのは、もうあきらめたほうがよい。ただ、かわいそうなのは、韓国の若い人たちで、我々が日教組から間違った日本の近代史を教えられたように、彼等も捏造歴史を習い、「独島は韓国領」と寝言に言うぐらい何度も詰め込まれた。彼等も海外に出て、真実を知れば、恥を知ることになる。


 しかし、日本が9条を改正しない限り、彼等の事大主義が、弱い日本を見直すことはないだろう。朝鮮の近代史を復習するため、「日韓併合は日本の誇り」の続きを以下に引用する。熟読のほどを・・・。




(引用始まり)


外国人が見た併合前の朝鮮
  


イザベラ・バード(朝鮮紀行)  


1894年始めてソウルを訪れたバードはソウルについて次のように述べている。


 「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。」


 朝鮮の独立はきわめて困難で、将来を望むことが難しい。朝鮮の事々物々はことごとく低級である。貧弱である。劣等である。

 ソウルには芸術品は全く無い。公園も無い。見るべき催し物もない劇場もない。


 日本や中国の都会にある魅力がソウルには全て無い。古い都だが旧跡もない、文献もない。宗教に無関心だったため寺院もない。「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。又溝から2,3フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」


 シャルル・ダレ(朝鮮事情)   


 朝鮮に於ける学問は全く民族的なものではない。読む本と言えば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉しでいる哲学大系は中国のものである。

 科挙は最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのでけなく、最も多額な金を持った者や最も強力な保護者のいる人々に対して与えられている。


 朝鮮人は、科学研究の分野に於いて殆ど進歩のあとを見せていないが、産業の知識に於いてはなおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。

 女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない。


アントン・ダブリイ主教(朝鮮事情)   


 両班はまるで支配者か暴君の如く振舞っている。両班達は借用したものを返済したためしがいまだかつてたい。彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしで済ませてしまう。しかもこの強盗行為を阻止する守令は一人もいない。



「日韓併合」あなたのイメージは?
   


 「日韓併合」について日本人はどう考えているのでしょうか?  


①秀吉の朝鮮征伐に続く朝鮮にたいする侵略である。
②「遅れてきた帝国、日本」が西欧列強に倣って台湾に続いて朝鮮を植民地にした。
③日清・日露戦争は「日中戦争」、「大東亜戦争」に続くアジアに対する侵略戦争だ。
④文明を伝えてくれた中国や朝鮮に対し、恩を仇で返した日本は不道徳な国だ。
⑤国を奪われた朝鮮人の立場に立てば、日本は良いこともしたと言うのは不遜である。
⑥武力を背景に開国を迫った日本は、黒船で開国させられた屈辱を朝鮮に押しつけた。
⑦閔妃を暗殺し、武力を背景に強引に併合し、三・―独立運動で朝鮮人を虐殺した。
⑧朝鮮の開発に莫大なカネをつぎ込んだのは植民地として搾取するためであった。
⑨朝鮮人を強制連行して奴隷のように虐待し、女性は従軍慰安婦として戦地に送った。


あなたのイメージに合う回答がありましたか? 


 では韓国や北朝鮮の人達はどう考えているのでしようか?  


①武力を背景に併合を迫ったのは侵略が目的であり、国際法違反であって無効だ。
②日本の朝鮮進出はせっかくの朝鮮独自の近代化の芽を摘み取ってしまった。
③「日清戦争」も「日露戦争」も朝鮮とは無縁であり日本のアジア侵略戦争だった。
④併合によって日本は朝鮮の全てを奪った(七奪)極悪非道な国であった。
⑤日本による朝鮮の近代化は植民地政策の一環であり、効率的な搾取のためであった。
⑥中華秩序では野蛮人である倭奴(日本人)が小中華の朝鮮人を支配するなど許せない。
⑦朝鮮人を強制連行して奴隷のように虐待し、女性は従軍慰安婦として戦地に送った。
⑧日本と一度戦争して勝たないと、この恨みは晴らせない。

上の例は日本が嫌いな人達のイメージです。

 このパネル展で『日韓併合』の真実をご覧下さい


朝鮮半島は古来より日本の脇腹に突きっけられた匕首(あいくち)
   


 「朝鮮半島匕首論」をご存じだろうか。百済の白村江の敗戦で唐の侵攻に怯えた古代、二度にわたる蒙古襲来に見舞われた中世、日清日露の宿命的な戦争を戦った近代、北朝鮮の暴発を恐れる現代と、占来より朝鮮半島は地政学的に日本の弱点だった。


 開国前後の日本には、欧米列強が日本植民地化の意図を持って押し寄せてきた。当時、有色人種の完全な主権国家は日本、トルコ、タイ、エチオピアの四力国だけであり、世界は軍事力や経済力で他国や異文明をねじ伏せ、植民地化する事が当たり前の帝国主義の時代であった。

 二百六十年の鎖国から半ば無理矢理開国させられた日本が行く道は、白人の植民地となるか、有色人種初の帝国主義国家に生まれ変わるかのどちらかの道しかなく、日本が選択したのは後者であった。


 欧米列強に付け入る隙を与えなかった短期間の素早い維新で誕生した明治政府は、「富国強兵策」を展開し、「封建的農業国家」を一気に「帝国主義的近代工業国家」に改造したのである。不平等ながら欧米列強と開国条約を締結し、国際法的整備を終えた日本が直面したのが「朝鮮半島匕首論」であった。

 極東から遠い欧米列強よりも、朝鮮半島に地続きで日本の隣国である支那かロシアが半島を征すれば、日本の安全保障が危うくなるが、半島の主人公たる朝鮮の実情は支那の属国であり、朝鮮半島の安定を託す相手ではなかった。江戸の鎖国時代でも支那と朝鮮は交易を通じて様子が分かっていたが、新しい帝国であったロシアの強引な拡張主義は、江戸時代を通じて日本の恐怖の的であった。


 その象徴的な事件は一八六一(文久元)年の「ロシア軍艦対馬占領事件」である。不凍港を求めて南下したロシアが対馬をロシア領土にしようとした日本侵略であった。半年に亘る日本の抗議は聞き入れられず、最後はイギリス艦隊が圧力を掛けて排除した。


 「力こそ正義」である事を思い知った日本は、以後、自らの安全保障のために、宿命的な日清日露戦争に向かってひた走ることになる。



十九世紀の支那と朝鮮
  


 栄華を誇った清国も一九世紀になるとかげろいが始まり、一八四〇年からのアヘン戦争で香港の割譲、治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認が、余儀なくされた。


 一八六〇年アロー号事件により、英仏連合軍は北京を占領し、ロシア公使ニコライーイグナチェフの調停の下に、恭親王との間に北京条約が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。

 更に調停に入ったロシアに対しても、アイグン条約以後は清露両国の雑居地であった外満州(現在の沿海州)を、正式に譲る事になった。更に、ロシアが沿海地方に軍港ウラジオストックを建設して、ロシア太平洋艦隊を常駐させたため、日露戦争の原因ともなった。


 尚日本にペリーが来だのが一八五三年、米英仏蘭露と修好通商条約を結んだのが一八五八年である。

 一方朝鮮は鎖国していたが、一九世紀にはいるとフランス人宣教師が大量に密入国して布教を始めていた。大院君は当初寛大に接していたが、儒生の要請や清国の事情も考え、弾圧政策に転じ、九人の宣教師と数千人の信徒を処刑した。


 そこで一八六六年フランスは九隻の軍艦を派遣してきたが、朝鮮軍の奮闘により、これを撃退した。

 その半年前、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めて大同江を経て平壌の羊角島に不法侵入した。これに対し、平壌の朝鮮地方官は慣例に則って、食糧や薪、水を支給し退去を命じる方針であった。しかし朝鮮側から派遣した使者である李玄益は連れ去られてしまった。更にシャーマン号は沿岸に集まっていた民衆に砲撃を加えて十余名を虐殺して河を上りはじめた。


 これに激怒した民衆はシャーマン号への攻撃を開始し、数日間の戦闘の末にシャーマン号は座礁した。ここで平壌監司の朴珪寿が指揮を執ってシャーマン号を焼き討ちし、乗組員全員を殺害した。この報復に。一八七一年アメリカ艦隊六隻が江華島に来襲したが、朝鮮軍はこれも撃退した。

 朝鮮は清国の冊封国であり、毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられていた。その代わり他国から攻撃を受けた場合は清国に対して救援を求めることが出来た。


 冊封国であった朝鮮の歴代の王が、中国の皇帝の使者を迎えるため迎恩門を作り、清代には三脆九叩頭の礼によって使者を迎えた。

 この冊封関係により、一八八二年壬午事変で閔妃は靖国に救援を求め、その後、袁世凱率いる清国軍の駐留が始まった。

 日清戦争の後、この門は取り壊されて代わりに独立門が建てられた。


アジアは欧米列強による植民地化心真っ最中だった!
   

  植民地化年表

1571年フィリピン        (スベイン)
1639年インド           (イギリス)
1842年支那香港        (イギリス)
1863年カンボジア       (フランス)
1886年ビルマ         (イギリス)
1887年ベトナム        (フランス)
1893年ラオス         (フランス)
1897年支那膠州        (ドイツ)
1898年支那広州湾       (フランス)
1898年支那関東州       (ロシア)
1898年フィリピン       (アメリカ)
1904年インドネシア      (オランダ)
1909年マレー半島       (イギリス)
1910年ブータン        (イギリス保護国)
1910年朝鮮併合        (日本
)



征韓論と西郷隆盛
    


 西郷隆盛は「征韓論」を唱えて朝鮮侵略の口火を切った人という説がありますが、ほんとうでしようか。実は、西郷隆盛は、朝鮮との平和的な交際(交易)を心から望んでいた人でした。


 明治の初め、明治政府は、李氏朝鮮との交際をもとめて国書を再三朝鮮政府に送った。しかし、その国書のなかに「皇」「勅」の文字がは
いっていることを理由に、朝鮮政府は受け取りを拒否してきた。


 清国を宗主国と仰ぐ朝鮮にとって、「皇」「勅」の文字は、清国皇帝のみが使用することのできる文字であり、朝鮮からみて文化的に下流の国である日本の日王(天皇)のごときが使うのは無礼なことと考えたのだ。

 明治4年、釜山にある日本の出先機関「大日本公館」の使用をめぐって朝鮮側とトラブルが起きた。日本政府は閣議を開いて、この問題や国書受け取り拒否の問題にどう対処するかについて協議した。


 板垣退助は、「釜山に居留する日本人を保護するために軍隊を派遣すべきだ。それと同時に、使節を送って朝鮮と談判をせよ」と主張した。


 それに対して、西郷隆盛は、
 「初めから軍隊を派遣すれば、朝鮮を無用に刺激して、まとまる話もまとまらなくなる。私か使節として単身、朝鮮に行こう。そして、誠意をもって説明すれば、きっと朝鮮政府は交際の必要性が分かるはずだ。もしそれで交渉がまとまらず、相手側が怒って万一私を殺すようなことになれば、それを理由に武力に訴えるのもよかろう」と反論した。


 一般に、西郷隆盛は征韓論を唱えて朝鮮侵略の口火を切ろうとした人だと考えられているが、それは、「日本は、明治の初めからアジア侵略の野望をもって行動してきた」と考える偏った歴史観にあわせて作られた虚像なのである。




やっと説得した朝鮮の開国
   

朝鮮の鎖国は、日朝両国に危機を招く!   


 一八七六年(明治九年)日本は西洋の国際法方式に従い、七年かかって朝鮮を開国させた。欧米列強もその後、日本に続いて朝鮮と国交を開いた。


江華島事件


 一八七五(明治八)年九月、朝鮮西岸で測量活動をしていた日本の軍艦雲揚が、飲料水をもとめて江華島に近づいたとき、同島の砲台から砲撃を受けた。 雲揚は反撃を加え、兵隊を上陸させて砲台を占領した。翌年、日本政府は黒田清隆全権大使を朝鮮に送り、
 (1)朝鮮政府が国書の受け取りを拒否していること
 (2)軍艦雲揚を砲撃したこと
について朝鮮側の全権と談判させた。


日朝修好条規


 朝鮮側は、この二つについて非を認め、一八七六(明治九)年二月、日朝修好条規が調印された。修好条規の第一条には、
 「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國卜平等ノ糧ヲ保有セリ」
となっていた。これは、「朝鮮国はどこの国にも従属しない」という意味であり、日本が朝鮮にもとめていたのは、「清国の従属から一日も早く独立国として自立し、日朝両国が対等の立場で交易し、互いに利益を得ること、将来的には近代化した日朝中三国が協力して西洋列強の侵略に対抗できる基盤をつくることにあった。


 条規には、釜山、元山、仁川の三港を開港することに加えて、開港地における日本の領事裁判権を認めることが明記されていた。これは、交流のあった徳川時代から朝鮮側が認めていた慣例に従うものであった。


 日朝修好条規により、日本公使館を京城(漢城)に開設し、江戸時代以降途絶えていた日本と朝鮮の国交は回復した。




朝鮮の独立と近代化政策、最初心つまずきは壬午事変
  

朝鮮の近代化政策は、なぜ、つまずいたのだろうか。  


 ■壬午事変(壬午軍乱)   


 朝鮮の軍隊は、装備が旧式で国を外敵から守るには不十分であった。閔氏(国王の后)一族が権力を握る朝鮮政府は、日本から軍事顧問を招いて、新式陸軍を編成し、西洋式の軍事訓練をほどこし始めた。ところが、守旧派の大院君(国王の父)一派は、日本主導の近代化政策や軍政改革に反発した。

 一八八二(明治一五)年七月、給料の支払いが遅れたことをきっかけに、旧式陸軍に所属する兵士が暴動を起こした。大院君は、この暴動を利用し閔氏一族から政権を奪おうとした。大院君にそそのかされた旧式陸軍の兵士たちは、王宮に乱入し、閔氏一族の重臣たちを殺害した。この時、閔妃の命も狙われたが、奇跡的に脱出し殺害を免れた。


 日本人に反感をいだいていた朝鮮の民衆は、兵士達と共に日本公使館を襲撃した。日本の軍事顧問や居留民達三〇余人が、これら暴徒に殺され、花房公使以下二八名の公使館員は命からがら朝鮮を脱出した。これを壬午事変という。


 ■清国に従属する国に逆戻りした朝鮮  


 朝鮮政府の要請を受けた清国は、軍隊を派遣して暴動を鎮圧し、一旦は政権を掌握した大院君を清に連行し、この後、三年間幽閉した。一連の事件で日本の無力を目にした閔妃一族は、開化政策から親清政策へと方針を転換することになる。清は千午事変を切っ掛けに軍隊を朝鮮に駐留させ、閔氏一族の政権を指導するようになった。

 その結果、朝鮮政府は近代化政策を放棄させられ、日朝修好条規に謳われていた「自主独立の国」になろうと努力する国から、再び清国に従属する国にもどってしまった。




甲申事変、再び清国が邪魔する朝鮮も近代化
    


甲申事変  


 二年前の壬午事変で再び清に服属した朝鮮内部にも、日本を手本にして朝鮮の近代化を成し遂げるために、国王中心の立憲君主国の樹立を目指す金玉均、朴泳孝、徐載弼などの開化派(独立党)の愛国者がいた。


 清と閔氏一族に実権を握られて不満だった国王高宗も開化派の行動を支持し、日本のバックアップもあって一八八四(明治一七)年一二月、近代化路線の復活を賭けて開化派(独立党)が、クーデターを起こし、新政府を樹立した。政府は旧弊一新の改革を実現させようとして次のような革新政策を発表した。


一・国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。
二・清国に対して朝貢の礼を廃止する事。
三・内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。
四・宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。


 しかし、清国は属国視している朝鮮に親日政権ができることを許さなかった。袁世凱の率いる一五〇〇人の清国軍は、王宮から独立党の金玉均や朴泳孝たちを追い出した。さらに朝鮮兵とともに日本公使館を襲い、外交官や護衛の日本兵を殺害した。朝鮮民間人と清国居留民も、日本居留民を襲い老若男女の区別なく乱暴をはたらき殺傷した。金玉均や朴泳孝は、日本に亡命し、新政府は三日で崩壊した。これを甲申事変という。近代化を目指す新政府崩壊の裏には閔妃と清国の影があった。


天津条約を守らない清に日本は不信感    


 一八八五(明治一八)年四月、日本は清国と天津条約を結び、清国は日本公使館襲撃に関与した将校たちの処分を約束し、両国軍隊が朝鮮から撤退すること、今後朝鮮に出兵するときには、日本・清国が互いに相手国に通知することで合意した。     

 しかし、清国は将校達の処分はうやむやにし、兵力を首都漢城に残し、朝鮮政府への干渉を止めなかった。



福沢諭吉の「脱亜論」その真意はどこにあったのか
   


 「脱亜論」はアジア蔑視で、日本の朝鮮侵略の口実をつくったという反日派の説はほんとうでしようか。

 「脱亜論」は、日本・清・朝鮮三国が協力して西洋列強の侵略に対抗しようとの日本の呼びかけに応じなかった清・朝鮮に対する絶望感をあらわすものでした。


 一九世紀に入り、西洋列強の東アジア進出は盛んになってきた。特に、南下政策をとるロシアは、朝鮮半島に入ろうと機会をうかがっていた。福沢は、 「いま西洋が東洋に迫るそのありさまは、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすればすむというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼はまぬがれないからである」と述べている。


 福沢は、「西洋列強の浸入から日本を防衛するには、日本が近代国家になるだけでは不十分である。隣りの朝鮮と清国も近代国家になってもらい、三国が力を合わせて西洋勢力に対抗していかねばならぬ」と考えていた。

 日本政府の考え方も、福沢の考え方と同じであった。日本政府は国の立場で、福沢は個人の立場で、朝鮮の開化派がすすめようとする近代化を援けた。


 しかし、朝鮮を属国とみている靖国は、朝鮮に日本の影響力が及ぶのを嫌った。そして、朝鮮国内の守旧派と連携し、朝鮮の近代化政策を妨害した。


 福沢は朝鮮の改革派である金玉均や日本に留学した若い朝鮮人達を慶応義塾に受け入れて援けたが、朝鮮はその恩に報いることはなく、逆に改革派を弾圧したのである。

 そうした妨害のつづくことに絶望して福沢が書いたのが「脱亜論」であった。その後、福沢は半ば諦めながらも、朝鮮や清国の覚醒を期待し続けた。
(引用終わり:続く)