4年前の記録を読み返しますと、私と同年の友人が「ただ生きているだけ」などと、随分侘しい気持ちでいたのが分かります。

 

闘病の末、2020年2月28日にこの世を去りました。今日はそんな彼女と私の、もどかしさもあり、切なさもあり、懐かしさもある昔話をしたためます。

  

 

小学6年の時、私は田舎から市内へ引っ越しました。ポツンと一人ぼっちの私へ声かけをしてくれたのが、彼女でした。

 

運動が苦手な私にボールテニスを投げて寄こしてくれた彼女。「ピアノを習いましょうカラオケ」と引っ張っていってくれたのも彼女。

先生が、先輩に教わりなさいと乙女のトキメキピアノの前まで連れて行ってくださったのですが、私は逃げ出してました。今思えばその時期からでも遅くはなかったはずですのに、習うという勇気が出なかったのです。(;´д`)  なんとアホなわたし。引っ込み思案で自信喪失感のつよ~い子でしたから・・・。

 

中学へ通い出し、毎日のように玄関先へ迎えにきてくれて  二人で通学しました。祖父母に育てられていて、祖父は病に臥せっておりました。乙女のトキメキ美空ひばりの映画を観に行きました。言えば許可してくれる祖母…。

 

常にリードをしてもらってたんです。2年間の交流でした。 その後中2で私は九州へ引っ越します。

 

大人になり、彼女からのレターには 「親愛なる○○さんへ」と。もうこれだけでビックリです。手紙には冒頭に「親愛なる」をつけるものなの⁉ などと。びっくり

 

帰郷して、会った時には、男の子との他愛ない純情話を聞き、幼稚な私には普通に成長している彼女の言動に刺激を受けたものです。ウインク

 

教師をなさってたというお母さまを尊敬し、結婚も好きな方とは成就せず、母上の薦める方とゴールインしました。母は正しい、けれど心には空洞が・・・これが彼女の気持ちでした。いつも何かを求めながら、、、けれど求めても得られない哀しみ。

 

実際には旦那様を盛り立て内助の功が奏し、立派な後継者もお出来になりました。

 

子育ても一段落した頃から、夏と冬には必ず贈り物を送り合い、その都度世間話をいたしました。

家族の前では話せないことを二人で話したい。徳島で会いましょう。 何度この言葉を繰り返し聞いたことでしょう。

晩年には私の方から「豪華客船に乗りましょう!」とお誘いしました。残念ながら叶いませんでした。

 

大阪に会いに行きました・・・やせ細った彼女の姿に涙は止まらず・・・そして・・・二度とお喋りすることが出来ないままに、永遠に瞼を閉じてしまいました。

 

「すべてに感謝してます」メールでの最後の言葉です。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ♡♡♡ ありがとうございました ♡♡♡