もし、あなたが、今、恋の絶頂にいるものの、先行きの不安を感じているなら、ぜひおすすめしたい。
もし、あなたが過去の恋を思い出してあの頃に戻りたいと懐かしんでいるなら、ほんの少しでも、この本の一節を読んでいただきたい。
と、本ブログ筆者が最近読んでいる本の中で「いちおし」なのが、「ロベルト⇔クラーラシューマン 愛の手紙」です。
シューマンといえば、もしかしてクラシックの作曲家。そういう音楽は、聴かないので関係ない、などど思わず、まずは、この動画を見て、いや聞いてみてください。
この曲はもともと歌曲で、シューマンが未来の妻となるクラーラという少女、当時天才女流ピアニストとしてヨーロッパに名声を轟かせていた女性とあたかもロミオとジュリエットのように激しく密かに交際をしていた時代に書いた「献呈」という曲(そして、厳密には、それをあのリストがピアノ独奏用に編曲したもの)です。
なんとも甘美でまさに恋の絶頂を象徴するような躍動感と輝かしい喜びに満ちた曲と言えます。
この本の前半部では、クララの父に交際を反対された二人が密かに手紙のやりとりを通じて気持ちを確かめ合うところが、これでもかというほどに出てきます。
少し、引用してみましょう。
56.クラーラ
(一八三八年一月一八日 ヴィ―ン)
わたしの愛する、大好きなローベルト!
全身全霊でそうお呼びいたします。そしてもっとちがった呼び方がいつになったらできるのかと思ってやみません!―今度のあなたのお便りのすてきだったこと、言葉で書かれたというよりは、易しい花々をわたしにふりそそいでくださった感じでした。この上なく美しい月経樹の花びらが、あなたからはてしなく送られてくるようでした。
いかがでしょうか。
ここから先は、まだ文章は延々と続きます。たとえば、交際に反対している父親をかばってみたり、早く会いたい、この恋を成就させ結婚したい、「結婚しなければならない」とまで何行にもわたり書き綴ります。いやはや、その熱量というかしつこいまでの表現に、本ブログ筆者はたじたじとさせられます。
二人は、裁判にまで訴えて結局、法的にも有効な「結婚」を勝ち取り、夫婦となります。8人の子供(幼くして亡くなった子供をふくめて)に恵まれます。
しかし、めでたしめでたしとはならなかったのです。
結婚後、実質的に生計の中心を担ったのは、妻、クラーラだったようで、欧州各地に演奏旅行。その様子もこの本の往復書簡に登場します。
しかし、この結婚生活は16年しか続きません。ロベルトは、1854年つまり、43歳の2月、ライン川に身を投じてしまい、救助はされるものの、その約2年後に精神病院で亡くなることとなります。一方、クラーラの方はその後も音楽家として活動し、77歳で亡くなります。
さて、なぜこの本に本ブログ筆者が「圧倒された」のか。その理由をいくつかご説明したいと思います。
1.この本は、確かに二人の往復書簡を編集した形にはなっているが、ロベルト晩年に関しては、クラーラの手紙は一切掲載されていないから。
あれほどまでに手紙を通じて熱く愛を語っていた二人ですが、ロベルトの亡くなる数年前から死の直前に関しては、ロベルトの手紙しか、掲載されていないのです。
そして、その手紙の中で、ロベルトは、しきりにクラーラに対して、こんな手紙を君からもらったといった記述はしているおのの、そのクラーラの手紙は、ひとつもありません。
あたかも、シューマンが壁に向かって独り言をつぶやいているような印象を持たされるのです。しかも、それが一回や二回ではないのです。
クラーラの手紙になんらかの問題があるとみて、すなわち、とても公開できないような深刻な記載、たとえばロベルトの精神状態や治療に関する記載があり、あえて掲載しなかった可能性もあります。あるいは、クラーラが愛想をつかして、返信をもともとしていなかった可能性も考えられます。
いずれにせよ、前半のやりとりとのあまりの違いに本ブログ筆者は唖然とせざるを得ません。
2.恋という液体は、液体のようなままにしておくのが望ましいと感じさせられるから。
しばしば、永遠の愛などという言葉を人は安易に使いがちですが、人の気持ちは液体のようなもので、彫刻のように固形にはできません。
しかし、文字というのは、一種彫刻のようなもので。形として残ります。しかし、恋する気持ちは、揺れ動く。にもかかわらず、文字で固定しようとする。それは、どうやっても無理なのです。
つまり、この二人はもともとやってはいけないことをやってしたった。あるいは、やってはいけないことを、やり過ぎてしまったのです。
しかも、女性は当代随一のピアニスト。知名度も高い。この手紙は後世にのこされると、どこか意識して書いていた可能性があります。その意味でも、二人は無理をしていたと言えるでしょう。
もっとわかりやすく言えば、セレブと言われる人たちはあたかも夫婦円満や、良妻賢母を演じたものの、あっさり別れてしまう。あれと同じような構図、いいかえれば、彼らが人生の演劇のように生きようとしたがゆえの残酷な結果を読み取らざるを得ないのです。
さらにこの考え方をもう少し広げて言わせていただければ、本ブログ筆者は、しばしば英語教育でいわれるところの、「英語を好きになろう」といったやり方には、疑問を感じています。
無理が少なくないと申し上げています。が、その通じるところは上に述べたことと同じです。
つまり、「好き」などという気持ちは、そんなに人間が簡単に扱えるものではないのです。また、そんなに文字にしたり言葉にしては、いけないのです。
以上、愛についてあなたが考えるひとつのきっかけになればお思い、やや手に入りにくい本をもとに問いかけをさせていただきました。英語の参考書には載っていないかもしれませんが、あなたの参考になれば幸いに思います。