英検1級を圧倒したこの一冊【47】「甘え」の構造 | ひとときのときのひと

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まずは英語から。

 

 ここでは、英検1級1発合格術を少し離れて、「英語」学習にためになる、役立つと筆者が考える本をご案内しています。47冊目は、「甘えの構造」(土居健郎著)です。

 

 

 

 この本は、高校時代、夏目漱石の「こころ」や「坊ちゃん」の副読本として現代国語の教師から本棚にいれておくように促され購入しました。いまから半世紀前ですら、傑出した「日本人論」と扱われていまいした。

 

 もっとも、当時は難しくて読みこなせませんでした。

 

 しかし、今は楽しんで読める箇所が多々あります。いや多々見つかるといった方が適切かもしれません。

 

 たとえば、著者である土居がアメリカに留学したとき、自分を指導する立場にいた精神科医が「親切なことをしてくれた」ことに対して、お礼を言う必要を感じたものの、つい英語で「I’m sorry」と言ってしまった、というところです。

 

 あるいは、日本生まれで主に日本語も英語も話せるイギリス人女性に対して土居氏が精神分析を行っていたところ、「甘え」に相当する英語が無いので、「そこだけ」このイギリス人が「日本語で話した」ところ。

 

 こう書き連ねていくと、日本人の甘え、すなわち集団や他者に対して依存しがちなところを指摘している本なのか、そして、そんな体質の日本人には英語は、やはり使いあぐねる道具なのか、と思われる方もあるかもしれません。いや、それは、少し短絡的といわざるをえないのでもう少し先までお読みください。

 

 実際、この本を要約するとこう(下の傍線部)なるのではないかと本ブログ筆者は見ています。

 

 「甘え」という「他者に対する依存的な態度」について、つい「日本人固有」のものと思われがちだが、必ずしもそうではない。なぜなら、「甘え」とは赤ん坊の承認欲求から始まるものであり、誰もが抱えている「本能的」「非言語的」態度だからである。

 

 つまり、日本以外の国民、民族にもこの「甘え」という態度が無いわけではない。したがって「甘え」のある世界が、それと対置される西欧世界における「自我」の未確立とか未成熟を示すとは言えない。

 

 しかし、現象としてみる限り、日本人は「他者」をあるいは自分を取り巻く「集団」を自分より上位に置いて、行動したがる傾向がある。戦後、自由主義、個人主義の本格的移入により、この「甘え」社会は変革されたように見えるが、実はそうではなく、かえって中途半端で無責任な「甘やかし」「甘ったれ」がはびこってしまっている状態に陥っているのではないか。

 

 それでは、この要旨に基づいて、なぜこの本が英語学習に有益なのか、英語のやりとりを考える際に役立つのかを説明していきましょう。

 

 本ブログ筆者は、英語でのスピーチや討論をする準備段階としてまずは、「日本語で」物おじせず話す、訓練の重要性を説いています。

 

 たとえば、英検1級の2次試験の面接において、「緊張」したり「口ごもったり」する方が少なからずいるようですが、しかし、それは英語のスキル問題以前に、日本語ででも、堂々と話すことができていないとか、さくっと過不足なく自己開示できていないのではないでしょうか。

 

 日本人の自己紹介に関して、ときどきこんな謙虚な方に遭遇しませんか。

 

 「あー〇〇さんから急にご指名があって、いや、こういう皆様のまえでお話しする機会なんてのはあまりこんなことがしたことがなくて、本日も家を出てきたときから、こちらに来るまでの間も、もし自己紹介など求められたらどうしようかと思い、いやまさに本当にこうなってしまって、でも、ここに来た限りは皆さまのお役に立てるようにがんばりますので、よろしくお願いいたします」といった感じ。

 

 いや、これはこれでいいのです。自分をとりまく「世間」が日本語でしかやりとりしない日本人の世界であるときには、です。「察して頂戴」文化の中にあるときはです。

 

 土居も、何も日本社会は「甘え」が蔓延しているから、未成熟、あるいは遅れているなどとは言っていません。

 

 本ブログ筆者が申し上げたいのは、英語という異文化の世界に入るときは、一度この日本らしい「甘え」ある世界を一度忘れなければいけないということなのです。

 

 にもかかわらず、相変わらずその「甘え」あう態度のままで英語を使おうとしている傾向が根強いと言わざるを得ません。

 

 このあたりを、最近の「はやりことば」となっている一語を使って言い換えてみましょう。

 

 そのはやりことはとは「悪目立ち」という日本語です。一体なんなのでしょうか?これこそ、まさに日本人の集団志向、まわりに対する高い依存を示しているのではないでしょうか。

 

 そもそも目立つことに「いい」、「悪い」をつけたがる発想そのものが、変ではありませんか。どこからどこまでが「いい目立ち」で「悪い目立ち」なのでしょうか。

 

 なぜ目立つに関してそんな計測不能な尺度を持ち出すのでしょうか。善悪を決めたがるのでしょうか。

 

 本ブログ筆者は、アメリカの西海岸で行われたあるセミナーに参加したときのことを思い出します。それは、となりの席にいたおばさん(容貌はケンタッキーおじさんのような、貫録あふれる感じでした)が、そのセミナーのセッションが終わると、テーマとは全く関係ない質問を講師に対してし始めたのです。手を挙げて堂々とです。

 

 集団の動きを常にキャッチして、おたがい「甘え」あっている日本人からすれば、まさにこのおばさんの態度は「悪目立ち」なのでしょう。あるいは「空気が読めない人」。

 

 しかし、このおばさんにもそして、聴いている人にもまったくそんな「空気」を感ずるところがありませんでした。上で述べた日本人のおずおずとした「自己紹介」とは真逆の世界なのです。

 

 たとえば、オリンピックでメダルをとれば「いい目立ち」で、勝利者インタビューで「うれしいに決まってます」と本音を言ってしまえば「悪目立ち」なのでしょうか。実際、ある水泳選手がこの「うれしいに決まってます」と口にしたシーンは、その後のニュースではカットされてしまっていました。

 

 罪とか害悪ではないけれども、こういう思い切った発言をこの国は、許しません。この選手は、「実感がありません」といった紋切り型の受け答えを求めたがるマス媒体への一撃を試みたから

、「うれしいに決まってます」を言ってしまい、最終的には封殺されてしまった、とも分析できるかもしれません。

 

 が、まずは、集団の中で目立つことに関しては、非常にうっとうしい抑圧がかかっていることを示しているのではないでしょうか。

 

 この「悪目立ち」しないための「すみません」連発英語にこそ

「通じない」リスクがあるのです。少なくとも甘えある世界のままの態度で英語をしゃべって「通じない」リスクがある、その現実は自覚しておく必要があるでしょう。

 

 もう一度いいますが、「甘えある世界」はそれはそれで成り立っているのです。日本社会を肯定するつもりも否定するつもりもありません。

 

 問題は、「甘えある世界」を「どこにでもある世界」と思い込んで、それを前提に外国語、英語を扱うのはナンセンスだということです。そんな英語では、通じる確率が非常に低いと申し上げているのです。

 

 英語で「すみません、すみません」を連発しても、それが礼儀ある態度、節度ある人間などとは外国人は思いません。

 

 このことをやや偽悪的に書いたのが↓の投稿です。ぜひこちらもお読みください。実体験から導き出した一つの提言です。

 

 

 

 以上、英語のやりとりにおいては、「他人がどう思おうが」精神が欠かせないことを「甘えの構造」に素材を借りながら、お伝えしてみました。

 

 英語の参考書には書いてありませんが、あなたの英語学習の一助になればと思います。