これは、自己紹介というよりも経歴のようなものです。

読んでもらった方々からは、かなり好評なので、
楽しんでいってください。

 

Have fun!


1975年
小学6年生で個人塾にて英語を習い始める。

ただ毎週の宿題だった「desk」や「apple」等の

7つの簡単な単語が覚えられず、
小学生なりに悩める日々を過ごす。

 

 

 

 

 

1970 年
その甲斐あってか中学1年時の

通年の英語テストの平均点はナント98.5点!!
英語に関してのみ「怪童」のような評価を周りから受ける。
しかし栄枯盛衰で学年が上がることと反比例して
英語の点数は落ちるばかり。
高校2年生時にはついに5段階評価の2まで落ちる。

 

 

 

1979 年
高校入学と同時に野球部に入部。
まだ1年生だった、ある土曜日の午後のこと。
小雨の降る中の練習試合前の練習で
相手チームの三塁手が手を滑らせて

一塁へ暴投。
それが試合準備をしていた 自分の側頭部を直撃
その場で耳から血を流して転倒
1人のチームメイトは

以前に事故で耳から血を流して死んだ人を

見た事が あったらしく、
内心、「コイツ死ぬわ」と思っていたらしい。

その後、担架にてすぐそばの救急病院へ搬送される。
担当医師からは

「こんな雨の日に野球なんてするな!」
「何かあったら親にどんな顔向けをするんだ!」

と叱られた。
そんなこと言われても・・・

自分には試合を中止にする権限はなかったのに・・・ 
結局鼓膜が破れただけで、こと無きを得た。

人間かんたんには死にません(;^_^A

 

 

 

 

 

1980年
高校球児で2年生になる春に先輩を抜いて

レギュラーとクリーンアップを獲得。

もうノリノリの時期で

「プロのピッチャーでも打てるんと違うかな?」

なんて勘違いをしていた。
しかし好事魔多し。

ある日の遠投で肩を故障し、

その後何ヶ月もボールを投げられないようになる。
練習もできなくなったので、

当然レギュラーはパァ・・・  泣いた・・・

 

 

 

 

1982年
大学受験が迫ってきた。

勝負できるものは

中学1年時より高校3年時まで

唯一オール5を貫いた体育のみ!

で、体育学部を受験するも見事に玉砕( ̄Д ̄;

その後、方向転換を迫られ

基本の五教科で唯一3まで成績が上がっていた?
英語で勝負することに。

(それまでは2だった・・・(^_^.)

どう考えても、

5段階評価の3しかないの教科への方向転換は無謀。

でも学業は高校3年間、

1学年380人中、席次が常に360番台。

これでは他にチョイスがなかった・・・

自慢できるのは常に360番台という安定性のみ・・・(;^_^A

 

 

 

 

1983 年
紆余曲折を経て関西外国語大学英米語学科に入学。
関西外大に決めた理由は

交換留学生の枠が100人程度あったから。

それを目指して入学するも5月にはギブアップ。
同じように交換留学を目指していた

学生たちの英語力やバックグランドが凄すぎて

自分のショボさが浮き彫りになり

早々に敗北宣言。
 

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大学での2年間は何の因果か、
部活でアメリカンフットボールに明け暮れる。

講義にもろくに出席せずに

毎日クラブのために大学へ通っていた。
ある練習試合では、

相手チームの選手に左手中指をスパイクで踏まれ、
第一関節までの肉がえぐられた
が、それでもその部分にテープだけを巻いて

試合には出続けた。

「ごめんな、ごめんな」と言いながら

とにかくテーピングを指の怪我の部分に

グルグル巻いてくれたマネージャーの言葉が
今も耳に残っている。
ちなみにそのマネージャーは彼女だった^_^;

 

この頃、授業には出席しないのに

なぜかほとんどの授業では

出席したことになっていた

いわゆる代返

それからまったく理解していなかったのに

「優」の成績をとることができた教科。

これらはすべて体育会の横のつながりの証明。

今は、こんなことは許されないのかも・・・

 

 

 

1985年
交換留学は叶わなかったので

自費留学をすることを決意。

大学3年になると同時にに休学し
高時給の給食配達のバイトをみつけて、
半年間で100万円以上の資金を稼いだ。

そして8月に渡米。

念願のアメリカ、夢にまで見たカリフォルニアに到着。
しかしLAの空港で待っていた出来事は・・・

メキシコ人による誘拐!!
その後、命からがら何とか脱出。
 

 

 

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焦燥の果てに辿り着いた Downtown LA では
路上で血まみれで倒れている人を見たり、
行きずり殺人が頻繁に起こっていた

スラム街に迷い込んだりで、
これまでの人生で一番恐ろしい体験をする。

 

その後、ノースカロライナに移った。

アメリカ滞在2ヶ月目だったが

助手席に乗っていた車の事故で大流血!

アブドーラ・ザ・ブッチャー顔負けの顔面大出血!
最初で最後のアメリカの救急車を体験。
左頬を七針、左まぶたを五針縫う羽目に・・・
顔面左半分はフランケンシュタイン状態になる。

 

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1986年
いろんな国の若者たちとバンに乗って

アメリカ縦横断旅行を敢行。
合計32州をまわる。
しかし夜中のドライブ中に友人のドライバーが居眠り運転。
路肩からはずれて、もう映画のワンシーンのように

バンがゴロゴロと2回転するのを初体験。
感覚的には5回転くらいしたような感じだった。

友人のアメリカ人は割れた後部の窓から

道路に放り出された。
窓の大きさは60cm四方なのに

うまく?そんな狭いところから飛び出たものだ。

後続の車に轢かれなくて本当によかった。

 

 

 

 

 

 

1987年
帰国前にメキシコとの国境の町、ティワナへ行く。

そこで悪徳警官に難癖をつけられ
危うく留置所に拘留されかける。

お金を取ることが目的だったみたいだが

事件が発生して緊急出動がかかり

彼らは負け惜しみを言いながら

渋々去って行った。

「今度見つけたら、絶対に逮捕するからな!」

なんのこっちゃ。

 

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1988年
カリフォルニアでの留学から帰国後、英会話のECCに入社、
その後、ECC難波校に配属される。
そこで出会った上司の Terry(日本人)に仕事の姿勢に対して
とてつもない影響を受ける。

その後、鶴橋校、天王寺校、大宮校の責任者を歴任。

 

 

 

1990 年
社会人アメリカンフットボールのセンストーンに入部。 
大学のチームは2部でしかも2年間しかアメフトをプレー
していなかったので、あまり自信がなかった。
しかもチームメイトの大半は

大学の1部または2部の強豪チーム出身。 
それでも運にも恵まれ

レギュラーのディフェンス・エンドとして、
結局35才まで現役としてプレー。

 

 

 

1994年
妻のSarahこと杉本桂子とともに大阪の難波にイスク英語学院を設立。

 

1998年
七田チャイルドアカデミーなんば教室を開校。

 

1999年
放漫経営のために破産の危機に!
ある日銀行で通帳記帳をすると残高が三桁しかなく、愕然とする

 

2000年
W21という英会話スクールのアメリカ人オーナーからM&Aの話があり、
結局300万円の詐欺にあう。

 

2001年
法人化し、有限会社グッドスピードを設立

 

2005年
 「はじめよう!子ども英会話教室」を家内と共著で同文舘より出版。

 

2008年
望月俊孝先生のもとで宝地図公認ナビゲーターとして活動開始

 

2009年度
NPO法人子供の未来を守る会を設立。

 

・宝地図公認ナビゲーター

・NHK文化センター講師

・ウエルスダイナミクスプラクティショナー

・スピードコーチング認定コーチ

 

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