フランスの哲学者で、
昔は日本でもよく読まれた人に、
アランがいます。
彼の本を拾い読みしていて、
「遠くを見る」という見出しにぶつかりました。

うつ傾向の人は、近くばかり見ている。
だいたい本ばかり読んでいるし。
すると、視野が狭くなる。
目の筋肉も固まってしまう。
だから、うつになってしまう。
地平線、水平線が見渡せるところにいこう。
そして、遠くを見よう。
そうすれば、目の筋肉もほぐれて、
心も軽くなる。

だいたいそのようなことが書いてありました。
ちなみに、アランは
身体とこころを結びつけて考えるところに
特徴のひとつがあります。
とりわけ、身体の状態がこころの状態に与える影響の大きさ
を強調します。
こころを変えたかったら、身体を変えなさい、
というわけです。

それはともかくとして、ひっかかったのは
「遠くを見る」という問題です。
アランとは別の意味でですが、
現代人というのは、
遠くばかり見ている
と私は思っています。
(以下の話は、
古東哲明という哲学者
の考えを参考にしています。)

たとえば受験生。
いつか訪れる「受験合格」という
現在からは時間的に「遠い」ところにある
「合格」の日を夢見て、いまは受験勉強にがんばります。
「合格」という「遠い」未来の目的のために、
現在はすべて手段となります。

そこには、
幸せは「遠い」未来にある
という想定・期待が潜んでいます。

夢とか希望を重要視する人は、
だいたい同じ考え方でしょう。

さらに現代は、空間的に「遠い」ところにあるものや人を
重視する傾向が強くなりました。
テレビやネット、ケータイといった通信機器が普及したおかげで
「遠い」ところのことが瞬時に知らされ、
「遠い」ところにいる人と瞬時につながる。
「テレビ」は英語で書くと
television setですね。
televisionとは
「tele-(遠くの)」と「vision(見ること)」
という2語からできた合成語です。
電話(tele-phone聞くこと、音)も同様です。

テレビ、ケータイ、ネットの普及は、
良いものは「遠い」場所、
ここではない「離れた」場所にある、
という価値意識を生んでいるように思います。

そうです。
「青い鳥」物語を現代人は地でいっているのです。

今ここにあるもの、身近な人間関係などを
価値の低いもの、つまらないもの
と感じやすくなったのです。

しあわせは、今ここではない、
どこか遠いところにあると
ますます思うようになった
とも言えるでしょう。

同時に、
自分は現に、いまここにいる
ということを忘れてしまっています。

哲学は、
自分は現に、いまここにいること、
それを知ること、
それを愛すること、
そこから始まったようです。

どんなに哲学っぽいことを知っていても、
このことに気づかなければ、
哲学していることにならない。

もちろん、哲学しなくても
全然いいんですけどね。

アランの言いいたいこともわかるつもりですが、
一番近いところに重要なことがあるのも
事実だと思います。