わたしがしばしば通うドトールコーヒーで映画の紹介者として有名なTさん(俳優・演出家でもある)に会うことがある。わたしよりずいぶんと年下だが、共通の友人に紹介してもらい少しだけ話をするようになった。先日、偶然にお会いした時に今年の話題作「福田村事件」の話になった。わたしが「あの映画はなぜヒットしたんですかね?」と尋ねるとTさんは以下のように答えた。


「日本映画は感動の実話を取り上げることは多いが、負の歴史を映画にする習慣がない。だからそういう部分をきちんと取り上げたことが人々の関心を惹き付けたのではないでしょうか」


なるほどと思う。確かに日本映画はそのような傾向があると感じるからである。お隣の韓国映画と比べればその差は明らかである。幼女に対する性犯罪を扱った「ソウォン/願い」や「トガニ~幼き瞳の告発」のような映画は邦画では絶対に作られない種類のものである。これらはみな韓国で起こった実話を元にした映画だが、日本に置き換えるなら「千葉女児殺害事件」や「宮崎勤事件」に相当する。また、「殺人の追憶」や「チェイサー」などの殺人を扱った犯罪映画も日本における「世田谷一家殺人事件」や「座間9遺体事件」に相当する。


しかし、これらの事件をきちんと映画化したものはなかなかない。なぜかと言うと、日本映画のプロデューサーたちがこういう題材を「ヒットしない」という理由から忌避するからだと思う。あるいは、遺族の反発を懸念して企画を実現することをためらうのかもしれない。結果、そういう負の歴史を扱った恐ろしい事件は闇に葬られることになる。プロデューサーたちの判断はあながち間違ってもいないと思うが、それは映画が描く題材を著しく狭いものにする。ことなかれ主義と言ってもいい。そんな中、大正期、関東大震災直後の千葉県の村を舞台に日本人による朝鮮人虐殺を描いた「福田村事件」は、果敢に日本における負の歴史を描いた。


「映画は娯楽だ。自分が楽しむと同時に観客を楽しませる」とは「ジョーズ」公開時の若きスティーブン・スピルバーグ監督の言葉である。まったくその通りだと思うが、このような映画の本質を踏まえた上で、日本における負の歴史を題材にした映画はもっと作られてよいはずである。負の歴史とは日本人が起こした失敗の歴史である。あるいは、歴史のダークサイドとも言える。「福田村事件」の大ヒットが契機となり、負の歴史をきちんと描く邦画が増えることを願う。少なくともわたしは、演劇の分野でそういった試みを続けたいと思っている。


*「福田村事件」の一場面。(「SPUR.jp」より)