ひとつ前の記事の追記です。


なんだか、家族の平和を祈るような殊勝なこと言ってるけど、
本音は。

母が不安定になったら、私の負担になる。
(私が背負い込まなきゃって、やっぱり思ってる。)


今回、弟の病気が分かったのだけれど、
それは悪化すれば、かなり深刻な状態にもなりうるもので。
もしそうなったら、周りの人間も、
物理的、金銭的、精神的に負担を負わなきゃいけない。

それはイヤだ、困る、って思ってる。


私は、私のことだけ考えていたい。
家族に煩わされたくない。
だから、家族の中で問題が起こるのは困る。


それが本音。

なんだかんだ言っても、そうなんだな。

愛なんてどこにやら、だ(笑)



こんな自分を認めて許す。

いま、間違い無くそう思ってることは認める。
自分がそういう身勝手な人間だってことも。

でも…許していいのか?(笑)



許せないっていうことは、
本当は認めて無い、
認めているようで、実は逃げてる、真剣に向き合ってない、っていうことかもしれない。


うーん、どうしたものやら。



3歩進んで2歩下がる…どころか、
一歩も動いて無いんじゃないだろか。








母が、弟に、

「ずっと昔から、その声も喋り方も大嫌いだったんだよ!」と言われたらしい。



弟は、私と違って、自分からは全く喋らない。

(「ほとんど」とかじゃなく、文字通り「全く」喋らない。)

話しかけても、かろうじて、2~3言、言葉が返ってくるくらい。


子どもの頃は、ひょうきんで無邪気で明るい、優しい子だったけれど、

家の中でのいろいろなこと、そして、学校でのいじめが重なって、

自分を表現しない、人と関わろうとしない、

でもプライドの高い、

「よく分からない人」になってしまった。


でも、基本は、すごく優しいと思う。

(あ、でも一時期は、カッとなると包丁持ち出したりしてたな。。。怖かった。。。)



母は、そんな弟を、母なりに守ろうとして来たんだと思う。


私は母としょっちゅうぶつかって来たから、

母は私に何を言われても、今さらそれほどダメージは受けないだろうけれど(笑)、

弟からそういわれて、かなりショックを受けている様子。


そりゃそうだね。

まさか弟がそんな風に思っているなんて、想像もしていなかっただろうから。

しかも、反抗期や思春期ならともかく、30歳も過ぎた今になって。




以前だったら、母の心中を思って、私も取り乱していただろうと思う。

でも、母からこの話を聞いても、それほど動揺しなかった。


・・・いや、やっぱり直後は、こんな風に思って落ち込んだし、やり切れない気持ちになった。

「どうしてこんな問題ばかり起こるんだ!

うちはずっとこんな問題だらけの家族のままなのか。

仲良くなったりお互いを大切にしたり、そういうことは望めないのか?叶わないのか?」


でも、あまりそれは長くは続かなかった。


それは、私が変わったからというよりも、

母が、思ったよりも落ち着いていたから、だろうけれど。


母は、すごく悲観的で被害妄想が強い面があるから、

こんなことが起こったら、また「消えたい、もう死んでしまいたい」だの、

「私なんて生きている意味は無い、今までの人生何だったの」と、

泣いたり喚いたりしていただろうと思う。

でも、今回は、心の中は嵐かもしれないけれど、表面上は落ち着いている。


母が取り乱したら、やっぱり私も、そんな母と、そして弟に対して、

悲しみと怒りでいっぱいになっていたと思う。



母とこの件で、少し話をした。

その時、私の口からは、「気にしなくていいと思う」という言葉が何度も出た。

何故なのかよく分からないけれど。


母の立場になってみたら、「気にしない」なんて無理だと思う。

ショックだろうし、「自分の今までの人生はなんだったんだ」という気持ちになるだろうと思う。

「うちは、子どもがみーんなこんな風になっちゃって。何が間違ってたんだろう。」

そう呟く母を見るのは、やっぱり辛い。



私もそうだったけれど、親が与えてくれるものを、子どもが受け取るとは限らない。

どうしたって、食い違いはあると思うから。

それに、たとえ「嫌い」だと言ったって、嫌いが100%では無いと思う。

嫌いが50%を占めていたとしても、好きとか感謝とか、他の思いもあって、

ただ、話の流れで「嫌い」が刺激されて、「嫌い」が出ちゃっただけ、っていう面もあるんじゃないかな。

仮に、心の底から嫌いだったとしても、そういう思いをずーっと自分の中に押し込めてたら、

それはいつまで経っても変わらない、「嫌い」のままだと思う。

でも、こうやって口に出すことで、何かが変わるかもしれない。

本人に言うことで、ある程度、解消するというか、終わりにできる部分もあるかもしれないし。

ここでお互いに話をすることで、色々と分かることもあるかもしれないし。

だから、悲観ばっかりしなくてもいいんじゃないかな。


そんな風に母に話した。

母は、「嫌いって言うんだから、100%嫌いなんでしょうよ。」と、納得はしていなかったけれど(笑)



母は、備忘録を兼ねた壁のカレンダーに、

弟が帰ってくる予定の日付のところに、こんなことを書いていた。

「聞く。ただ、聞く。」

それを見て、母の気持ちを感じて、その時は少し泣きそうになった。

母はたぶん、ちゃんと、受け止めようとしているんだと思う。




子どもを心配し過ぎたり、ついつい構い過ぎたり。

それは母の愛から来ているっていうこと。

母は、両親から見捨てられたような形で生きて来たから、

心配すること、構うことが愛の表現なんだ。

昔の母は、その自覚が無かっただろうけれど、いまは、それをちゃんと、自分で知ってる。


それを「愛」だなんて思えなかったけれど。

「母が自分の欲を満たしたいだけだ」という見方をして来たけれど。

それは、母の愛。

少しずつ、それが分かってきた。




正直、不安はある。

やっとここまで来たのに、ここからまた雪崩みたいに、家族が崩壊に向かうんじゃないか、って。

大袈裟かもしれないけれど、そういう不安は、ある。


でも、「全ては良い方へ向かうための変化である」ということを、信じてみる。

インディアンの中には、常にその部族の幸せ・平安を祈る、信じる役割のひとが居た、という話を聞いたことがある。

その役割のひとではないけれど、私は、「大丈夫」って信じる。






そして、昨日。

山川亜矢子さんの本を読んでいた時のこと。


何か、トラブルや「悪い」と思うことが起こった時に、

「私がどうにかしなきゃ」という思いを持つっていうこと。


ハッと、それに気付いて。


涙が出た。

ああ、そうだったんだなあ、って。


職場でもそうだ。

人間関係でも。


私に関係の無いようなことにまで責任を感じ、背負い込もうとする。

「私が」どうにかしなきゃ、何とか解決しなきゃ、って。


でも、実際にそれに対して、何か行動をするわけじゃない。

(ここが私の傍観者的なところ、「逃避癖」の出るところだと思う。)

その時、自分の中では、「私には関係の無いことだ」という思いと、

何もできない自分に無力感を抱いて自分を責める気持ちとが、同時に存在する。

また、「何もできない」という無力感が防御に転じた時は、

相手や状況への怒り、イライラになったりする。



私は、実は、優しいのかもしれない。

あはは( ̄▽ ̄)


でも、それが、自分を責めることや、相手への怒り・イライラになっちゃったら、元も子も無いよね。



何でも背負い込もうとする傾向、そして、無力感。

この感覚は、幼い頃に、家族の問題を何とかしたい、

母親を助けたい、幸せにしたい、と思っていたこと、

そして、それなのに自分には何もできなかった、

その経験から来ているのかもしれない。

(分からないけど~( ̄▽ ̄))


もう、なんでもかんでも背負いこもうとしなくていいんだ。

(実際、背負い込むことなんてできてないんだし~( ̄▽ ̄)ww)


リラックスして、その時に、自分がどう感じるか、どうしたいのか。

何かしたかったら、すればいい。

したくなかったら、しなくていい。

そして、「しないこと」に罪悪感は感じなくていい。(難しいけど。。。)




だから、今回も、「なんとかしなきゃ、丸く治めなきゃ」じゃなくて、

自分の気持ちに正直に居たいな。


今回のこと、いまは、客観的に観てる・・・気がする。

そんな自分を、冷たいように感じたりもするし、

居心地の悪さや罪悪感を感じたりする部分もあるけれど。



・・・こんなんでもいいのかな。


よく分からない。


でも、これが今の私、だしなー。

これしかできないよね。




今日もまた、長いつぶやきを。

読んでくださって、本当にありがとうございますo(^-^)o












…っていうタイトルの阿部さんの曲は、
聞いたこと無いんだけども(^▽^;)



焦ること、ある。

特に、「10月28日(だっけか?)は、アセンションの扉が開く日」とか、
「二極化が進む」とか、
「いま選択していない魂はアセンションできない」とか、
「どんどん距離の広がって行くパラレルワールド」とか、

聞いちゃうとね。

焦りますよ(笑)



自分は置いて行かれるんじゃないか、とか、
果たして私は「選択」できてるのか?とか、
いま私は、どの「レベル」に居るんだろう、とか、
アセンションの扉をくぐることができるのか?
もしできなかったら、どうなっちゃうんだろう、
気付いたら、「地獄」みたいな世界に居たりして、とか、
私はずっとこのまま、変われないままなんじゃないか、とか、

…とかとかww



(私個人の勝手な希望は、「分かれる」んじゃなくて、「みんなが一緒に上がる」がいいし、そう願うんだけど~( ̄∀ ̄))





でも、極端な話、
たとえもしも「さいごのひとり」になったとしても、
「ひとり」じゃない。

すごいねえo(^-^)o

本当は、大丈夫。






すべては、完璧なタイミングで動いてるそうな。
いまの私が居る場所は、いまの私にとって完璧だし、
起きることが起きる。

なるようになる。
なるようにしかならない。

だから、あれこれ苦しんで、「自分」の力で何とかしようともがくよりも、
安心してお任せ、なんだろうなあ。


「お任せ」ってことは、自我ちゃんを手放すことで、
そりゃあ激しく抵抗されるけれども(笑)


でも、僅かな時間でも、「何ものでもない自分」を感じてみる。
阿部さんの言う、頭が無くなった状態。

…よく分からないけどww




とにかく、なんか、
「さいごのひとり」になっても「ひとり」じゃない、
そういうことらしいです( ̄∀ ̄)






「私」の人生は、長くても、せいぜいあと40年くらい?
そうしたら、「私」は消える。

40年て、実際に生きるには、短くは無いけど、
でも、それほど長くも無いよね。
「へ?長くてもあと40年??」て感じ。

宇宙で、最初で最後の「私」。

不安で縮こまって、自分を騙して無難に生きるよりも、
自分を、生きたいよね。



少しずつ、少しずつでも。
時には思い切って。


行きまっしょい(≧∇≦)