第一次支援隊の出発を見送り、第5次までのチームを確定させたあと、その後に続くチームのメンバーを各組織に依頼した。


そこまでの手配を終えてから、奈良県医師会としての今後の支援のあり方を考えるために、私自身が現地の状況を把握する必要があり、宮城へ向かうことを決めた。


地震の被害や原発の爆発などの情報を入手。道路事情も可能な限り情報の収集に努めた。


その結果、新潟空港まで飛行機で行き、そこでレンタカーを借りて山形経由で仙台に入ることにした。ホテルは確保できたが、洗面所でお湯が使えない、もちろん風呂も入れない。東北の3月はまだ雪が降る。きっと寒いだろうと、寝袋を用意していくことにした。


地震の発生から時間が経つにつれ、その被害の規模が徐々に明らかになってきた。

とくに海沿いの街が壊滅的な被害をうけ、死者、行方不明者の数が驚異的に増えていく。医療機関の被害も甚大なものがあり、ほとんどの病院、診療所がその機能を停止した。


日本医師会が中心になり、全国の都道府県医師会から支援部隊を派遣することが決められた。奈良県医師会は宮城県南三陸町への支援を行うことになった。医師、看護師、薬剤師、事務担当、各1名で構成し、4日間交代で派遣することとした。


できるだけ早く支援を開始しなくてはならない。どうチームを作るのか?果たして協力が得られるのか?


理事会を開催し、役員に協力を依頼した。幸い全員が協力してくれることになり、差し当たって5つのチームを順に派遣することとなった。チームの構成は各理事に任せることとなり、早速その翌日に第一陣が出発した。わずかの時間でチームを作り、必要な機材、薬剤等を準備して、2台の車に分乗し奈良県を出発したのだった。



2011年3月11日は金曜日だった。


午前中の診察を終え、自室で見ていたテレビが地震の発生を伝え画面が切り替わった。

映し出されたのは東北地方の各都市の惨状。多くの建物が倒壊していた。だがこれはその後に起きるさらに大きな悲劇の序章に過ぎなかった。

まもなく津波警報が発令され、画面には宮城県、岩手県などの海沿いの街が映し出される。


海面が持ち上がり、ドス黒い海水が堤防を次々と超えていく。海に浮かんでいた船が堤防の上に押し上げられる。走っている車が次々に流されていく。仙台空港では飛行機までが水に乗って流されている。高台に上がった人たちが、下にいる人たちに向かって口々に叫んでいる。「早く逃げろ、早く、早く」


テレビの前の自分には何もできない。ドキドキしながら、手に汗をにじませながら、ただただ見ているだけ。