自己反省も含めて、大事なことなので書き留めておきたい衝動からブログに向かってみています。
僕自身、
人を信じることに対する許容力がもともとは強いとはいえない。と思う。
どちらかといえば、自分が頑張って、自分が周りを引っ張って、周りがついてきて、
逆に言えば、「頑張らないヤツはダメだ。」という思考回路を持った生き方を高校時代からしてきていたんですね。
ある種、他人に対して「なんでやらないんだ」という怒りがあったり、「やる気がないなら、もういいよ」と諦めたり。
よく部活にいる、熱血系の人いるじゃないですか。
僕の場合はサッカーでしたが、試合に際しては大声で怒鳴り、負けては泣き・・・
「ちゃんとやれよ!」とはいうのが口癖の人。
もとはと言えば、僕はそんな人間です。
でもね。
やっぱりそのやり方では、大きなことは成し遂げられないんです。
そのことが、ここ数年でジワジワと身に沁みて感じるようになりました。
早く行きたいなら一人で行け、
遠くに行きたいなら仲間といけ。
この言葉は、たまに僕に大事な注意を与えてくれます。
たとえ、
仲間が少しさぼっているように見えたって、それがもし少し本当にさぼっているのかもしれないとしても、それを批判しても何も意味がない。
たとえ、
仲間が真剣に物事に取り組んででいないように見えたとしても、それが本当かどうかは全く知りようもないし、それを批判しても何も意味がない。そして、それが真実であったとしても言及することに意味はない。
批判することから得られるものは、その場の自分の優越感だけ。
逆に、批判する気持ちは、相手・仲間を信頼する気持ちを遠ざけるだけ。
それも自分からだけじゃなくて、お互いにね。
人を批判する時って重大な盲点がいくつかあるんだな~と思います。
相手を批判する気持ちを持つっていうことは、
①自分のメガネをかけ違えている可能性が高いのにそのことに気付いていない
…そのメガネとは、相手が間違っていて自分が正しいといういかにも自己中心的なメガネ。相手の状況を完全に偏見で見ることにつながり、そうなのに自分の感情的な衝動を優先することになります。その視点でものを捉えている癖が抜けない限り、物事はまともにみえないかもしれません。
②行動を伴わず、問題を解決しないのに、問題を解決した気になる。
…批判するという時点で、相手への信頼を諦め、相手も信頼を諦めるきっかけを作ることになるけれど、批判をしている時点でそれは即ち「解決への行動」を諦めていることと非常に近いです。むしろ、解決を遠ざけていることになってしまうかもしれません。
③結果として協力を得られない
…自分の気持ちは解決しますが、結果として協力は得られなくなり、遠くにいくことはできにくくなってくるかもしれません。
つまり
批判というレンズでものを見ているときは、
「正当な視点」「問題解決への行動」「信頼の構築」
全てにおいて「諦めている」だけ。
というのが本来の姿なのかもしれません。
その重要なことに気付かないでいると、相手の気持ちを考える余裕もないまま、
自己優越の妄想に浸り・溺れながら、信頼は知らず知らずの内に遠ざかっていくし、
結局のところ大事は成し遂げられません。
僕自身の沢山のイタ~イイタ~イ経験を通じて、
やっと心に沁み渡るように、そう思えるようになってきました。
じゃあどうすればいいかっていうのは分かりませんが、少なくとも
・自分に非がないかどうかをみる
・解決への行動をする
それしかないのだと思います。
その一連の心の動きは、感情的になっている時点では、
「遠回りをする」ことに見えますし、その場の「自分の気持ち・感情を我慢する」ことでもあり、いいことなしのように見えるかもしれません。
「ある種の怒り」で進んだ方がよっぽど近道だろうし、合理的に思えるかもしれません。
でもやはり、
「ある種の怒り」をもった瞬間に、「自分が前向きな努力をしていない。」
ということであることを見失っているという厳然たる事実=盲点を意識しなければ
大事な一歩は始まらないかもしれません。
それならば、その盲点を心に留めていたいし、そこから「解決への努力を放棄しない」ことを忘れたくありません。
私は、それを仲間に指摘されてから、徐々にですが気付きました。
最近、もちろん完全にというわけではないですが、怒りの気持ちを持つことは、10分の1くらいになりました。
でも、前向きな努力が本当にできているのか?と問われれば、
まだ人を心の中で「批」したりしてしまっているのだろうし、
それは本当に本当にもったいないことだな~としみじみと思いました。
だから、これは自分への反省分です。
心に留めておきたい気持ちをつれづれなるままに書きとめてみました。