表現として適切かどうだかよくわからないが、自分がこれまで何かを形づくってきた行為、その産物である作品の位置づけ、意味あいを考えてみて、それを言葉であらわそうと試みたところ、「祈願増幅装置」という言葉になった。学術的説明でもあるまいにとてもしっくりとはこないし馴染みがたい表現だが、ぱっと出てきたのがそういった表現。
つまるところの「お守り」ということなのかな、早い話。
「御守り」というと神社やお寺などの霊験や御神徳をいただくというものが一般的。あるいはある種の宗教的絵柄、言葉、像などを用いた護符や偶像など。
一方で、その特定の個人だけに意義が生ずるもの、例えばおじさんの形見であったり、愛妻の手づくりの服など。
「お守り」は願いを込める→意を乗せる→祈りが具現化、実体化したものであり、後者のように個々人がありとあらゆる物質に対してそう定義づけることができる。そこには何の決まりもなく、自分がその時そう思えばそれはその瞬間からお守りとして成り立つ。さらに意識を拡大すれば、自分が認識するものすべからく、自分の存在が実世界に…っとこの話はまた別の機会に。
思い入れは誰にでもできる簡単なことで、誰しもなにがしかのお気に入りのものはあると思う。が、それを特に意味を凝縮させた象徴的なものとなると、やや特殊なものとして認識され専門家に委ねられがち。宗教的なものとして扱われることが多くなるため、神社やお寺のお守りが一般的となる。古来呪術者は特化した専門家だっただろう。現代では意味よりもイメージが優先されることが多い。パワーストーンやヒーリンググッズといったものが流行っているが、誰か(霊能者やヒーラー?)が定義づけたそれら特性をうたい文句にした商品として、わかりやすく受け入れられやすいのであろう。どんどん細分化されていっているように思う。
また話が脱線するが、素材の中では特に石が人の念、意識を転写し増幅させやすいといわれる。例えば「金運アップのタイガーアイ」などと目にすることがあるが、あくまでそれを持つ人の意識が問われる。拝金主義的欲求を抱いてそれを手にすればその通り邪な意識として増幅される。自分は石に限った話ではないが特に畏怖畏敬の念があるので扱いには少し気を使っている。

多くの人は自分の責任で、自分の意志で何かをする、定義するということが薄れつつあるように感じる。自分も含め。
また話が飛ぶが、戦国武将の兜の前立てには、様々な種類があり、武将それぞれのこだわりや思いが込められたものが多々ある。例えばとんぼや毛虫などのしつらえ、これらはその特性習性から決して後退しないなどの験担ぎや願掛けの意味を彼ら自身が祈り(意乗り)、決意として形に表している。

ちなみに世界各地の宗教においても、動植物の特性などから神の使いや象徴として祀られる例が見られる。たとえば、脱皮をくり返し強い生命力を持つヘビを「死と再生」の象徴としたり、エジプトのフンコロガシなどなど。

話を元に戻すと、呪術と美術は密接な関係にある。(戻ってないな…。)
何かを具現化する、形に残すことは意識があって初めて成り立つ。古代の人が石に彫り刻むという行為はよほどのものだったろう。
自分はなるべくお客さんの意を汲んでオーダーメイドで造るようにしていた。が、そう明確な意識を持った方はそれほど多くはない。逆にこちらから限定し定義づけ提示したほうがわかりやすく受け入れられやすい。パワーストーンのような商売はあまりしたくはないが、積極的表現として「祈願増幅装置」を今後少しずつ出していければと感じている。
今の「呪術寄りの美術」という立ち位置もなるべく怪しさを感じさせないようにしたいのだが、醸し出す雰囲気は如何ともしがたい。

と言うわけで最近つくったもの

「まな板の鯉」意味
我が身を相手のなすがままにさせておくこと。窮地に立たされても慌てずに泰然としている様子を指す。一説によると、コイは、活きたまままな板の上に乗せてもあまり暴れずに調理できることから、こう言われるようになった。または、細かくじたばたすることなく、一度だけ強く跳ねるともいわれる。近年は「抵抗できずにあきらめておとなしくしている様子」を指すときにも用いられている。(wikiから転載)

一般的には後者の諦観のような意味合いが多くなってきているようにも思う。が、個人的には泰然自若、あるいはさっぱりとした潔さという意味としてとらえていた。
今回、その解釈を少し変えて、異なる意味を付加して具現化。
STONE SCULPTURE-まな板の鯉 石のペンダント
「まな板の鯉」
約27×50×4mm 山形県白鷹町産・黒鴨硯の原石
定価12000円

人の一生において、変えようもない事柄、生い立ちや環境、顔姿形、それぞれに背負う因果がある。すでに決定事項とされる未来もあろう。それらとどう向き合うかということは古今東西全ての人にとっての最も大きな課題といえる。とらえ方、視点によって物事事象は善にも悪にも、プラスにもマイナスにもなる。
定められた宿命を受け入れつつ、その中を泰然と、悠々と泳ぐ様に生きたいという願い。人生、またその瞬間瞬間を謳歌したいという思い。


STONE SCULPTURE-まな板の鯉 石のアクセサリー
私自身の自刻像でもある。3.11以降の福島第一原発爆発事故を起因とする放射線汚染環境時代に突入した今、個々人が生きることの意味の再確認を迫られている。誰かに依存したり責任を委ねるのではなく、それぞれが自己責任において判断するという、本来の生き物としてのありよう。古今東西の賢人によって、いまここに在ることの奇跡、この瞬間がすべてであるということを様々な表現で語られてきた。今回の事象、考えようによっては核爆発被害が奇跡的に抑えられたともいえる。また、現在核燃料の所在、状況が確認のしようもなく、今この刹那地球規模の破壊的事象が起こりえないともいえない。生死、無常などの概念を非常にわかりやすく現実的な形で示されたように感じる。自分はある部分委ねている。おまかせしている。しかしそれは責任放棄でもなければ諦観でもない。今の状況、環境、そこに在る自分。比喩的に「まな板の鯉」として受け取っているが、そこには一般的意味合いだけでない自分なりの思いが込められている。私はこの世界を自分なりに泳ぐ。

STONE SCULPTURE-まな板の鯉 石のストラップ
「まな板の鯉」レリーフ版
石巻市雄勝町産・東京駅の屋根材でも用いられているスレート材と同様の素材で、一関市のスレート葺き民家の屋根材を再利用
定価2500円
オブジェ、根付、ストラップ、ペンダントなどに。手彫り削り出し。表面に漆加工。
「鯉の滝のぼり」ならぬ、「鯉のまな板のぼり」。鯉が龍になる登竜門の伝説にちなみ、立身出世の意味を込めることもできる。また、跳ねる鯉はまな板という限定された次元からの脱却を暗示してもいる。

…と言うわけで脱線しまくり、放射能から宗教的な話まで、微妙に関連するようでさっぱりずれてるろくでもない話を浮かんだままに並べてみたが、結局のところは単なる宣伝?

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