飛騨高山で企画展・特別展を観る その2、どうした長近展 | みののかみのブログ アメブロ版

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史跡および日帰り天然温泉の訪問記が殆どと成り候

さるぼぼバスで濃飛バスセンターに戻ると

今度は高山市街地を走る「匠バス」の

東西線のミニバスに乗り継ぐ。🚍🚏

時刻は正午前で、乗り継ぎ時間が空けば

高山駅前で昼食に行こうと思ったが、🥢🕛️

濃飛バスセンターに戻ってから20分ほどで

獅子舞の獅子がモチーフの匠バスが来るため、

駅前へ出るまでもなく乗り継いだ。🚌

この乗り継ぎに際しては、

飛騨の里方面へのさるぼぼバスに

外国人がたくさん乗り込んで

発車まで時間がかかり、👩‍⚖️🧔🧝🤵🤱

後続のバスが出発出来なくなって、

匠バスの東西線は5分ほど遅れて

のりばにやってきて乗客を乗せて

市街地へ行く待ち客がいなくなったら

7~8分遅れで発車した。🚌

 

匠バスの東西線は、高山市街地を

濃飛バスセンターからノンストップで

まず高山陣屋前まで走って

日本人の若い男女を降ろし、👫

続いて飛騨高山まちの博物館の

正面に停車して私も下車した。🚍🚏

世界生活文化センターからのさるぼぼバスを

濃飛バスセンターで降りた際に

匠バスへの乗り継ぎきっぷをもらえたので

下車時は乗り継ぎきっぷを出すだけだった。🎫

 

特別展を開催中の飛騨高山まちの博物館は、

飛騨地方の歴史や文化を詳しく展示紹介する
岐阜県立の文系博物館で、
同じ岐阜県立の兄貴分の総合博物館の
関市の岐阜県博物館とよく交流展示を行うが、
飛騨高山の歴史と文化に特化した
独自の特別展も頻繁に開催していて、
今夏は高山城と城下町を築き
金森氏の6代107年間の藩政を作り上げた
金森長近の生涯を史料展示から追う特別展
「どうした長近 
  三人の天下人に仕えた飛彈の名将を、
10月13日(日)まで開催している。
入場料は無料で、❌👛
掲出されたポスターを見て展示室へ行く。
特別展示室に集められた金森長近関係の史料は
長近の出生からの記録が展示され、 
小牧長久手や関ヶ原の合戦の陣取り地図や
長近が着用していた鎧兜も並び、
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の
3人の天下人に仕えて大名として続いた
長近の生きた姿に迫る特別展だった。
またこの特別展の展示室は
長近以降の高山藩主金森氏6代の
常設展示室にもつながっていて、
長近以降の高山藩主としての金森氏の
歴史展示もそのまま観られた。👀
金森氏は長近以降、その養子の二代可重、
三代重頼、四代頼直、五代頼業、
六代頼時と続いて、
頼時時代の元禄5年(1692年)に
出羽上山(山形県上山市)に転封となり、
続いて元禄10年(1697年)には
美濃郡上八幡(岐阜県郡上市)に再転封した。
 
金森氏が領していた飛彈一国は
山がちで農業は振るわなくても
鉱物資源と林産資源が豊富で、🏔️⛏️🌲🪓
金森氏の100年ちょっとの治世でも
鉱物資源と林産資源の収入で
米など農業収入の少なさを補ったのだろう。
徳川幕府もその飛彈国の
鉱物資源と林産資源に目を付けて、
五代将軍綱吉時代に側用人を務めていた
金森頼時に難癖をつけて飛彈国を召し上げ、
資源の乏しい出羽上山や美濃郡上八幡に
強制的に移封させたとされる。
鉱物資源と林産資源に恵まれた飛彈国は
幕府としても重要な直轄領になり、
明治維新まで要職の郡代を置いて
幕府天領として統治し続けた。
逆に資源の豊富な飛彈国を失った金森氏は
相次ぐ転封もあって深刻な財政難に陥り、
美濃郡上八幡では領内にも対幕府にも
あの手この手を尽くして増税を実行して、
領民の猛反対に遭って百姓一揆を起こされ、
その対応に失敗して改易処分された。
 
初代長近の頑張りは、郡上八幡に移されると
(金森氏の故地に近く、関ケ原の戦い前には
 郡上八幡城を攻撃した前城主の遠藤慶隆に
 2代可重が援軍を出して一緒に攻略した)、
ボロボロになって終わってしまったのだが
 (長近以来の名家と認められ、名跡として
 分家の越前南条郡白崎の旗本が存続した)、
初代の長近は相当な世渡り上手で、
美濃守護土岐氏の一族として美濃で生まれ、
土岐氏本家の家督相続争いなどから逃れて
近江野洲郡金森(滋賀県守山市)に移り、
出生地の美濃土岐郡大畑(多治見市大畑町)
から名乗っていた大畑姓を金森姓に変え、
尾張一国を統一し台頭する織田信長に仕えた。
そして豊臣秀吉と徳川家康の台頭にも
しっかり早くから対応して地位を保ち、
関ヶ原の戦いでは長近本人は77歳ながらも
手勢とともに本戦の東軍最前線で戦って、
戦後には甥(姉の子)の佐藤方政の領地の
美濃武儀郡上有知(岐阜県美濃市)などを
戦功として加増された。
長近は織田信長時代は柴田勝家の指揮下で、
越前大野城(福井県大野市)主だったが、
賤ヶ岳の戦いから羽柴秀吉に抵抗した
越中富山城主の佐々成政に飛驒国の
戦国大名の姉小路頼綱が連携したため、
天正13年(1585年)8月に
羽柴秀吉の命を受けて飛驒国に侵攻して
姉小路頼綱を討伐し、そのまま国内鎮圧後
飛驒一国を与えられて越前大野から移った。
飛驒国の領民は長近に抵抗したが
👉️(時同じくして天正大地震が発生して、
  白川郷の内ヶ嶋氏は長近に従属して
  領地安堵された祝いの宴会の最中に
  大地震に遭遇して、居城の帰雲城が
  背後の山の山体崩壊で崩落した
  土砂に完全に埋まってしまい、
  偶然白川郷の外にいた一族以外は
  全員生き埋めで滅亡してしまった)、
浄土真宗寺院の照蓮寺が
飛驒国に多かった浄土真宗門徒と
金森長近の間に立って鎮圧を助けた。
 
また長近は飛驒一国の領主になると、
領内のあちこちに支城を築き、
5代後の頼時が出羽上山に移るまで
一族が配置されたり参勤交代時の
宿泊旅館としても支城が活用された。
この金森氏の支城群は、北部の
吉城郡(飛騨市)の遺構については
昨年秋に飛騨市が開催した企画展と
歴史学者らによるシンポジウムで
現状の報告などがなされた。
 
特別展を観終えると、
博物館の出入口の案内所で
無料頒布の図録をいただき、📖
博物館を退出した。
時刻は午後1時前になり、🕐️
博物館から歩いてすぐの
上三之町の近くの交差点角に
高山ラーメンの店を見つけて入り、
独特な甘じょっぱい醤油味の
高山ラーメンを食べた。🍜🍥
以前、山県市内の十六銀行の隣に
「さるぼぼ」という高山ラーメンの
専門店が何十年間かあって、🍜🍥
ここの味とそっくりだなと思った。
醤油オンリーの甘さもある味は
高山で食べられて良かった、
美味しい高山ラーメンに
ありつけたのはラッキーだと思った。😋
 
満腹になったら、
博物館の特別展を観て気になった
高山城跡の2箇所へ歩いた。🏯
高山市街地を見下ろす
城山の高台に二之丸以上があって、
急坂を登ることになるが、
地図を見ると護国神社の背後から
二之丸跡へ連絡する近道があり、⛩️
護国神社の背後から城山へ登り、
二之丸跡の公園へ行った。⛲️
ここに金森長近の銅像があり、
以前に何度か見に来たが、
スマホやタブレットでしか
写真を撮っていなかったと思い、
デジカメで銅像の写真を撮った。📷️
二之丸の公園は家族連れが多く、
銅像の周囲も幼児が出入りして
シャッターを押すタイミングが
いつも以上に大変だった。👦🧒
二之丸の公園は居場所がなく、
さらに階段を上がる本丸は
曇り空の高山市内でも
登って行けば汗だくになり
疲労も増すので行かなかったが、
博物館の特別展に史料があった
浄土真宗寺院の照蓮寺が
二之丸の続きにあると分かり、
山門の前へ立ち寄った。
照蓮寺は高山藩主からも
領民からも支持されて
飛驒国の最上級の寺院になり、
高山城跡の一角にずっと
境内を構えているのだなと思った。
 
その後石段の急坂で城山を下り、
飛騨高山レトロミュージアムを覗き、
宮川を渡って高山城跡を眺め、
土産物を物色しがてら
濃飛バスセンターへ歩いて戻った。
しかし乗車予約した帰りの
岐阜行き高速バスの発車まで
まだ40分ほど時間があり、
高山駅駅舎の1階のカフェで
高速バスが濃飛バスセンターの
のりばに入るまで過ごした。🥤
カフェで注文したアイスコーヒーは
氷の入ったカップに
まだ湯気が出ていたコーヒーを
客自身が注ぎ足すもので、☕
カップの中の氷もコーヒーだった。 
カフェで30分ほど過ごすと、
濃飛バスセンターへ行き、🕓️🚏
16:10発車の岐阜バスの
名鉄岐阜バスターミナル行きに
乗車して帰路についた。🚍️🛣️
帰りの16:10発車の高速バスも
インバウンドの客でいっぱいで、
ラテン系の話し言葉と風貌から
スペイン人と見た団体客は車中で
頻繁に動き回っていた。🇪🇸🙋🧔👦