日本書紀の謎を解く

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日本書紀の謎を解く 

      著述者は誰か

森 博達 著    中公新書  1999年

 

またまたご無沙汰しておりますが

ようやく歴史本(ヒストリア)の記事です。

 

いつか読まなくてはいけないと思い、買っておいた

森博達氏の中公新書を、やっと読み終えました。

はっきり言って・・・・

なんとか読みはしたのですが、

内容はさっぱり頭に入らないですえーん

難しい~

 

第一章「書紀研究論」は

どうにか楽しく、

それなりに理解できたと思うのですが、

第二章「書紀音韻論」

第三章「書紀文章論」は

文字を追うのがせいいっぱい(+o+)

暗号解読のようなのは

内容の性質上しかたないのですが~

ついていけなかったです・・・キョロキョロ

 

第四章「書紀監修論」は

書紀に記述された文章を実例をあげて分析しているので、

なんとかわかる部分もありましたが、

理解にはほど遠かったかなぁ・・・

副題にもある「記述者は誰か」という点に

具体的にふれている部分でもあり、

かなり興味深かったのですが、

説明量が少ないので、あっけない感じがありました。

 

わからないなりに

「結論」の章から抜粋させていただくと~

書紀30巻は表記の性格によって

α群とβ群にわけることができます。

 

α群 14~21、24~27巻

    雄略~欽明、皇極~天智紀

β群 1~13、22~23、28~29巻

    神代上~允恭・安康、

    推古~舒明、天武紀上~下

    (第30巻の持統紀は分類不可)

 

β群は、基本的に和化漢文で綴られていて、

原音で読むとまったく日本語の音韻を区別できず、

文章も倭習に満ちているそうです。

 

これに対しα群は、

中国原音(唐代北方語)によって仮名が表記されており、

文章は正格漢文でつづられている。

文章の倭習はβ群に比べてはるかに少ないそう。

さらに漢語・漢文の誤用は

原則として引用文と加筆部分に限られている。

そのため、α群は本来

原史料を尊重しつつ、中国語で述作されたとみられ、

渡来唐人が著述した可能性が高いそうです。

 

巻数表だけみると~

この群の分かれ方ってなに!?

と気になりますよね・・・

特に後半、雄略紀以降の推古~舒明紀、天武紀が

なぜβ群なのかが気になります。

 

その答えを、森氏は

著述者を特定することで導き出しています。

 

10世紀後半の史料『新儀式』によると、

国史編纂は、大臣・参議の監督下で

実際にはたったひとりの学者が中心となって

著述したのだそうです。(へ~ほ~びっくり

そのひとりは誰か。

 

史料編纂は律令編纂とならぶ

国際社会(当時の唐を中心とした世界)を意識した

国家の一大事業。

正格漢文をつづることができ、

唐朝の正音(標準語)に通暁している者。

その資格は

渡来唐人しか持ちえなかったと考えられます。

 

古代最大の画期とされる「雄略紀」から

まずひとりの人物、

続守言(しょくしゅげん)が書き始めます。

 

もうひとつの画期・大化の改新以後の記述を

契機となった「皇極記」から

もうひとりの人物、

薩弘恪(さつこうかく)が書き始めました。

 

ふたりとも、学生に字音(読書音)を教える

“音博士”として、記録に残っている人物です。

 

ところが、続守言が「崇峻記」修了間際に倒れ、

薩弘恪も「天智記」終了後まもなく卒去してしまいます。

 

(そうゆう記述がどこかにあるわけではないのですが、

 複数の史料からの推測で、そう結論づけています)

 

逸材を失った朝廷は、次の適任者を探します。

そして選ばれたのが、学問僧であった

山田史御方(やまだのふひとみかた)。

文武朝の文章博士(正六位下相当)として

記録に残る人物です。

 

残念ながら御方には

正格漢文をつづる能力はありませんでした。

(唐ではなく新羅に留学している)

そのためβ群は、

基本的に倭音と和化漢文で述作されました。

 

同時期に

「神代~安康紀」の記述の必要があらたに生じ、

β群に付け加えられました。

これらの御方の活躍は文武朝。

次の元明朝に

最終巻である「持統紀」が撰述され始めたと思われます。

 

「持統紀」はα群にもβ群にも分類できない

特異な巻。

これは執筆者が別にいたためと考えられています。

その記述候補者は

紀朝臣清人(きのあそんきよひと)。

 

仕上げの段階の元明朝では

別に、漢籍による潤色と若干の記事の加筆が

計画されたと思われます。

その潤色・加筆者候補が

三宅臣藤麻呂(みやけのおみふじまろ)。

引用文以外のα群の誤用は、残念ながら

彼の筆によるものだと結論づけられています。

 

まとめると

α群前半(雄略紀~) 続守言(しょくしゅげん)

   後半(皇極紀~) 薩弘恪(さつこうかく)

β群(推古~舒明、天武紀)

   (神代~安康紀) 山田史御方(やまだのふひとみかた)

持統紀(最終巻)    紀朝臣清人(きのあそんきよひと)

 

全体の潤色・加筆  三宅臣藤麻呂(みやけのおみふじまろ)

 

こうして元正朝の養老4年(720)に

日本書紀30巻が完成・撰上。

 

森氏は最後に、

真実はいつも簡単だ、と記しています。

 

結論だけみてしまいますと、たしかに簡単かも・・

 

この5人が中心になって記述していた、となると、

某マンガの編纂風景は誇張がすぎるということになり、

藤原氏書紀改竄説は、ありえないことになる?

いえいえ、この5人を藤原氏があやつっていたのです~

という説も成り立つかもしれませんがニヤリ

どちらにしろ、その辺りの森氏の説を

聞いてみたいものです。

どこかにインタビュー的なやさしい文章で

書いていらっしゃらないですかね~

 

久しぶりに超!長くなってしまったので、

ここいらで退散したいと思います。

いい加減にしか読めませんでしたが、

たぶん何回チャレンジしても無駄なので、

この程度の理解でご容赦願いたいです。

 

最後まで読んで下さった方、

ありがとうござしました。

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