冷めたカレー


 目の前のお皿から、ゆっくりと湯気が失われていく。
 さっきまで、あんなに温かそうだったのに。
 あなたは、そんなことに気づきもせず、冷たすぎる風を生み出し続ける黴臭いクーラーに体を寄せている。
 君がつくったの?
 と、あなたは嬉しそうに笑う。少し太り気味のあなたの、首の後ろが汗でしっとり湿ってる。
 君、料理上手だね。
 わたしはにっこりと微笑んでみる。あなたはすでにカレーを半分以上体の中に収めてしまった。スプーンを口に運ぶのが、扇風機の回転速度よりも速い。
 その、くるくるまわる銀のスプーンをぼんやり眺めながら、わたしは、カレーが冷めるよりも速いスピードで醒めてしまったあなたへの恋心を持て余しつつ、カレーライスを口に運ぶ。
 甘すぎるカレーはどう考えてもオンナコドモの食べ物で、どうやらあなたのために作ったわけではないらしい。

朝、6時


 一秒一秒近づいてくる、その時間が僕は怖い。

 僕の存在価値。それを試されるようで。

 僕は君にとって、本当に必要なのか。ときどき分からなくなる。いや、正直に言えば、いつだって、今だって分からない。

 でもだからこそ、僕は体中で大声を上げるんだ。力いっぱい叫ぶんだ。

 言葉なんかない。言葉はどうせ伝わらない。

 朝、6時。

 窓際のベッドサイドの、いつもの場所で僕は大声で叫ぶ。

 ベッドの中の君の耳が、僕の声を捉え小さく震える。

 僕はさらに大声で叫ぶ。

 君に気づいて欲しくて。僕がここにいることを認めて欲しくて。

 君はゆっくりと目を開ける。 そして手を伸ばし、不機嫌な顔で僕の頭を叩く。

 僕は、自分の任務をやり遂げた達成感で、幸福に胸を熱くする。叩かれた痛みなど、どうってことない。 

 君は不機嫌な顔のまま、パジャマを脱ぎ、ユニットバスへと消えてゆく。

 そうして、僕の一日の仕事は終わる。

 せめて僕が目覚ましなんかじゃなく腕時計だったら、一日中一緒にいられるのに。


水面の感触


 うっかり彼女に憧れてしまったわたしは、そのあまり経験のない感情に翻弄され、みっともなくもあたふたしている。 


 わたしよりも一つ二つ年上の彼女は確かに憧れるに足る魅力の持ち主なのだけれど、よりによってこのわたしが誰かに憧れたりするなんて、と自分自身が信じられなくなっていたりもする。

 


 彼女みたいになりたくて、彼女みたいな洋服を着たいだなんて馬鹿げている。そう思っているのに、一括で購入してしまった両手一杯の紙袋の中身は一体なんのつもりだ? 来月のカード引き落とし期日が怖い。しかもちっとも似合わないときているんだから。 


 せめて彼女が男の人だったら、わたしだってもうちょっとマシなやり方で憧れることができるのに。体で片のつく問題は、いつだって心の問題より少しばかり簡単だ。 


 憧れは恋に似ていて、ソーダ水みたいにいつも淡く泡立っている。
 水面の感触にみたいにあやふやなこの気持ちは、一体いつまでわたしを支配するのだろうか。
 

 

 


 
 サイダーを飲むたび思うことがあるの。
 彼女は飲みかけのサイダーの瓶を、手で少し揺らしながら言う。

 そのたびに、瓶の中の小さな泡が、ゆらゆらと昇ってゆく。
 「思い出すの。恋をして海に身を投げた人魚姫のこと」
 人魚姫が泡になって海の中を昇っていったとき、その海は世界一たくさんのサイダー水みたいに見えたんじゃないかしら?
 変なことを考えるね、僕が言うと、変じゃないわよ、とすました顔で彼女は答える。

 多分同じこと考えてる人、世界中に百万人はいると思う。
 何人いようが僕には知ったことじゃない。

 大切なのは僕の前に彼女がいるということだけだ。
 じゃあ、たとえば君の飲んでいるそのサイダーが、人魚姫の溶けた海だったらどうする?

  僕は少し意地悪に、そう問いかけてみる。

 人魚の溶けた水を飲むの、君は?

 淡いブルーの瓶の中で、小さな海がしゅわしゅわとはじけている。

 瓶の中の海は、でも甘い。
 彼女は答える。
 「別にどうもしないけど?」
 そして一気にサイダーを飲み干し、彼女は小さくげっぷする。  

黄色が好き


 わたしがあなたを好きな理由は、あなたが黄色人種だからなんかじゃないのよ、と言ったら、あなたは

 「なんだそれ? 意味が分からないよ」

 と早口で呟き、はははは、と乾いた声で笑った。
 なにかを偏愛しすぎる傾向のあるわたしなので、なるたけ平行な感覚を持とうと心がけてはいる。

 だけれどでもやっぱり、南瓜やマンゴーやトウモロコシやパパイヤやアザミやヒマワリや蜜柑なんかを好きで好きで仕方がなくて、どうしようもない。

 信号だって黄色がいい。

 注意せよ、って意味だなんて、考えるだけでどきどきする。
 蜜柑はどっちかっていうと橙色なんじゃないかなあ。

 コタツの上に置いてあるかごの中に由緒正しき積み重ねられかたをした幾つもの蜜柑。

 その中に一つに迷いなく手を伸ばしながら、あなたは言う。
 そういえば、今日でほぼ一か月、毎日三つは蜜柑を食べてるよ、ほら、と言って差し出したあなたのてのひらは、ほんのり黄色く染まっていた。
 ああやっぱり黄色が好き。

 頬ずりしたいほど、好き。