こんばんは。

 

悲しみを乗り越え、生きてて良かったと思える日をお届けします大友智子です。

 

 

 

死なんてなくなればいいと思う時があります。

突然悲しみのどん底に突き落とされる死なんてなくなればいいと。

 

そうすれば楽しい日々が続いたのに。

そうすれば幸せな日々が続いたのに。

今この景色を共に眺めることができたのに。

時代の移り変わりを共に感じていくことができたのに。

 

 

 

人は当たり前にあるものを失ってしまった時、それが持っていた深い意味に気付けるのだと思うのです。

 

 

私は子育てが好きでしたが、3歳と1歳の息子を追いかけまわし、農作業に勤しみ、家事もこなす毎日に「一人になりたい」と感じることもありました。

 

3人目の子が安定期に入った頃、家族旅行に行った先で切迫流産となり、旅先の知らない病院でたった一人緊急入院することになりました。

 

夫が「おかーさーん」と泣き叫ぶ子供たちを連れ、その後ろ姿をベッドの上で見送り、静寂に包まれた時。

テレビもラジオもなく、もちろん見舞いに来る人もなく、ベッドから起き上がることも許されず。

 

騒がしかった日常。

動き回ることができた日常。

「おかあさん」と甘えてくれる日常。

「これやってくれる」と頼られる日常。

 

それがどんなに眩しく感じたことか。

 

 

 

 

今、私は思うのです。

母や夫の自死によって、父の死によって、その存在の偉大さに気が付けたと。

 

死は悲しいことだけれども、母の思いに寄り添い、夫の仕事への情熱をくみ取り、父の生き様がいかに強かったかを実感させてくれたのです。

 

 

もちろん、母から、まだまだ家事の手ほどきを受けたかった。

夫と子供たちの成長を喜び合いたかった。

父にも孫を生きがいに日々を楽しんで欲しかった。

 

でも、今この時も・そしてこれから先も永遠に、両親や夫は共にいてくれていると信じられるのです。

 

いることが当たり前になっていたあの頃よりも、共に生きられることは奇跡だと痛感できた今の方が、家族の存在が心の中で温かく再生され続けているから。

 

 

死の悲しみの先には、深いつながりや大きな気付きが待っていました。

 
 

 

本日もお付き合いいただきましてありがとうございました。

ゆっくりおやすみください。

 
 
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