甲田先生の断食体験記③「一日一食主義、回復食を普段の食事に」 | Yokoi Hideaki

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甲田先生の断食体験記、三回シリーズの最終回(その三)です。

 

この三回目では断食後の回復食について多くが語られます。中でも胸に響いたのは以下のご述懐です。

 

断食をたとえ何回繰り返しても後の食生活の改革がそれに伴わなければ何の効果もないのだ。従って単なる断食療法だけでは何等の意味もなさない。結局また数日前の食事量に還って、心身が改造されるまで、否、改造されてからも終生この正しい食習慣を続けること、これが食養の極意であり、真の健康への道である。

 

断食には確かに卓効があります。週一回、また月一回の一日断食にも効果がありますし、体調不良時の短期の断食にも素晴らしい効果があります。しかし、真の健康道に入り、ここにお書きの心身の改造を完成させるには終生にわたって、正しい食習慣を続けることが肝要です。

 

(その三)では断食やその後の回復食で、ご自身の人相や手相まで変わったことが紹介されています。(その二)にも新たなほうれい線ができたことに触れておられましたが、運命すら変える力が食養にあるということでしょう。

またこの回では一食主義健康法が理想であることも述懐されてます。

 

この3週間にわたる甲田先生の克明な断食と回復食の記録は、病を治すためだけでなく、正しい生き方によって運命すら変えることができることを我々に教えてくるものです。この記録を皆さんの健康、治病、霊性開発に活用してくだされば幸いです。

 

私の断食体験記(その三)

八尾健康会館館長(医学博士)甲田光雄

 

昭和四四年九月二十日

チリメンジヤコのような小魚や、掌に入る位の魚を圧力釜で炊いて食べる実験を三、四回繰り返したがやっぱり皮膚が荒れてくる。肉や牛乳では一層ひどいことも解ってきた。止めて二、三日するとまたきれいな皮膚に戻ってくることがよく解る。今後、もう暫らく実験を重ねてみるが、どうも動物食を受けつけない身体になってきたようである。

 

それよりも動物食をあまり食べたくなくなってしまったのが不思議である。野菜や海藻類、それに玄米飯にゴマ塩、これらは何を食べても世界一うまいと思うのに魚類や肉類を食べた後のあの嫌なゲップはどうだ。

 

九月二十一日

本日午後、富山県の大道重次先生(注・農本主義の大家)がひょっこり来てくださった。

先日から関西方面を御旅行なさると聞いて、是非当院へも御来駕を御願いして置いたものである。二十二日か二十三日頃おいでになる予定であられたが、御日程の都合で本日御越しいただいたわけである。

 

初めてお目にかかった先生は大変お元気そうで七四歳とは思われない。三十歳の時から一日一食主義を守り通して既に四十四年間、しかも玄米と菜食に徹し、肉や魚は口にされない。そして間食は絶対といってよい程なさらないというのであるから、その精神力と克己心にはただ頭が下がる。いやそれは先生の御人格のしからしむところであって単なる興味本意では到底出来るものではない。

 

一食主義については、自分もかねてから大いに魅かれるところがあってしばらく、一食主義をやったことかあるが、自分の力の限界を悟り、又、昼夜の二食主義に戻ってしまった。然しもう一食主義は諦めてしまったかというとそうではない。何とかしてもう一度一食主義に挑んでみたいと思っているのである。

 

ところで一食主義を成功させるためには、中々大きな厚い壁があって、それを乗り越えるには大変な克己心や精神力、それに現代医学を無視するような栄養観に慣れてしまわなければならない。一食主義にすると食事のおいしいことと云ったらそれはやってみた者でないと解らぬであろうが、何を食べても涙の出る程うまい。そこでつい余計食べ込んでしまう。

 

ところが胃腸の消化吸収能力は三食者と比較にならぬ程高まっているからたまらない。少しでも余計に食べると後でもう動けなくなってしまう。即ち身体が忽ち捲くなって何をするにも嫌になり眠くなってしまうのである。

 

その上、現代医学の栄養学でもかじった者であると、頭の中で一日一回しか食べないのだから、これ位は食べないと身体が持たないだろうという考えがあるからこれがまた大きな障げになってしまって、つい余分に口に入れることになる。

 

こんな一食主義ならやらない方がずっとよい。一日二食か三食にしてほどほどに食べている方がよいのだ。一日一食にして長い時間を空腹で辛抱し、胃腸や肝臓を空運転しておいて急に重荷をかけたらどんなに強い胃腸、肝臓でも参ってしまうのは当然である。

 

それはモーターでも皆同じである。だから一日一食主義を成功させる為には現代栄養学の常識を無視し、頭で考えて食べるのでなく、玄米や生野菜のような完全栄養の食物を自分の腹と相談の上、腹八分に食べておくことが秘訣である。

 

夕食時になったので家で食べている玄米食を食べていただく。玄米飯が一杯の六勺(0.6合)トーフ二分の一丁、カボチャの煮炊き一皿、それにヒジキと生野菜少量が夕食の、いや一日の食量の総てである。 

 

現代栄養学から見るとカロリーにして500カロリー余り、動物性蛋白質零、カルシウムもせいぜい100ミリグラム足らず。現代栄養学を批判する立場にある私でさえ、この食量で一日分とは少な過ぎはしないかと不安になる。ところが四十四年間の体験者は「これでも少し多いぐらいかな。今日のようなあまり運動をしない日ならもう少し少なくてもやってゆけます」と泰然自若たるもの。体験よりにじみ出る確固たる自信。恐れ入るものである。まさに洗脳された一瞬である。

 

「夕食をした後一時間かそこらで、すーっと胃の中が軽くなって、少しももたれた感じがないような食べ方をしなければならない。食べてから二時間も三時間も胃にもたれて、身体を動かすのが憶怯になったり、眠くなったりするようでは食べ過ぎで、一食主義の落第である」と言ってのけられたのはさすがに急所をつかれた貴重な教訓である。

 

先生も、しかし一食主義に入られた当時には、やはり腹で食べずに頭で食べられた為、これ位の量は食べておかないと身体がもたないだろうと余分に食べられたので、反って身体が捲くフラフラになってしまって一時は一食主義を中止してしまわれたのであった。ところが御長男が今度は馬を使っての重労働を玄米、一日一合内外と生野菜という少量の食事で見事にやってのけ、これに教えられ再び一食主義に入り、今迄のように頭で食べずに腹の調子で食べるようになってからうまく成功したということである。

 

現代栄養学の知識で、カロリーは一日でいくら、蛋白質は何グラム。カルシウムー日1グラムは摂らぬといけないと考えていたのでは、到底一日一食主義は成功出来るものではない。単に本だけを頼りにする学問より、実際の体験程強いものはないなあと、先生の御言葉を有難く拝聴する。

 

一食主義に慣れると、空腹時こそ頭が一番よく働き、力も十分に出るということで、しかも疲労が少なく、睡眠時間も短くてすみ、寒暑にも強くなるなど、要するに真の健康体になると強調される。全く魅力たっぷりの一食主義である。

 

九月二十五日

一昨日、お彼岸に自然のままの一番良いクローバーのハチミツだとまだ色の黒いのを持って来ていただいたのを黒パンにつけて食べたのが大変においしくて今日で三日間続けて食べた。

 

ところがいかに良いハチミツでもやはり糖分に違いない。本日温冷浴をしてみると左足首が痛むではないか。昨夜、夜中に汗をかいたのも糖分を過剰に摂った時にいつも出る症状である。いくら良いハチミツでもやっぱり過剰は慎まねばならぬ。

 

九月二十七日

今日は温冷浴の際、水の中で左足首の痛みが全く消失してしまっている。二日間、完全に糖分を摂らなかったらやっと足首が治ってきた。やはり今後はハチミツといえども余程警戒して、食べ過たり三日も四日も続けて食べるというようなことは慎まねばならない。

 

九月三十日

朝四時に起床、起き抜けに生水をコップに一杯飲むと直ちに胃大腸反射が起って便所へ行きたくなる。実に気持のよい排便で頭の中までスーッと軽くなる。夜寝る前に腹ペコである時程朝の便通は良いようだ。胃大腸反射が正常に起るためには、だから小食であることが絶対に必要である。(注:胃大腸反射=食べ物などが胃の中に入り、胃が膨らむと、胃から大腸に信号が送られ、信号を受けた大腸が反射的に収縮し、便を直腸に送り出そうする動き。)

 

大飯を食って上からトコロテン式に大使を押し出すような排便では落第であり、そんな便には必ず悪臭がつきまとう。小食で完全に消化吸収された便はそんな悪臭がない。腹の中がきれいな証拠である。支那の道書『抱朴子』の中に

欲得長生腸中当清

欲得不死腸中無滓 

即ち、長生きをしたいと思ったら腸の中は清くなかったらいけない。不老不死を得たいと思えば腸の中に滓が溜っていたらいけない。この詩の意味をよく味わって、腸の中で食べたものが腐敗醗酵しないように、また宿便を溜めないように小食で満足出来る良い習慣を守り続けなければならない。その意味で今のこの食事を断食後の特別恢復食と思ってはならない。これが生涯の平常食と思い、慣れ切ってしまうまで徹底させるのだ。
 

石の上にも三年というように、三年でも五年でも続けて実行するぞ。七年経てば人間の細胞はすっかり入れ加わり全く別人になると云う。それまで頑張ってこそ完全に持って生まれた悪因縁の業が断ち切れるのだ。

 

人間というものは、元の古巣(悪い習性) へ帰りたくて仕方のない厄介な存在で、食べ物でもちょっとでも油断をすると元の食生活に戻ろうとするものだ。

 

十月一日

天高く馬肥える食欲の秋、今年は台風の襲来が少なくて、実りの秋は豊作が予想されている。ところで、食欲の秋にまかせての過食は肥る秋に胃腸病患者の続出となる。家内が少し貧血気味であるから、鉄分の多い食品を食べなければいけないというので、海藻の中でも最も鉄分の多いアオノリ(100グラム中106ミリグラムの鉄を含有)を粉末にして毎日食べているが、一度に5グラム食べたらすっかり胃を悪くしてしまった。

 

自分もアオノリを毎日食べているがやはり量を過ごすと胃を悪くする。玄米飯が身体に良いからと、一日に三合も四合も、人によっては五合、六合と大食をする者があって口内炎や口角炎を起し、舌の先がただれたり、胃を痛めたりする者、或いは又、秋の味覚を楽しむべく、ブドー、ナシ、イチジクなどを毎日食べ過ぎて胃を悪くする者、誠に口は禍(わざわい)のもとである。玄米食でも海藻類でも健康上欠くことの出来ない良い食品であるけれども、過食すればやはり胃腸をはじめ消化器を損ねてしまう。

 

自分の場合は先ず舌に白く苔が出てくる。そのうちに口内炎、口角炎などが生じてくる。これらの症状は胃の粘膜や腸管の荒れ具合を端的に物語っているのである。若し、食直後に生水や湯茶をガブ飲みしたり、「食後には果物を食べるがよい」といい気になってナシやブドー、イチヂクなどを食べたりすると、一層てきめんに、症状が早く現われてくる。

 

このように食べものの質と量の問題、それに水や茶の飲み方、それに塩の過不足等々、一口に食事をすると云ってもそれによって健康を保ち、病気を予防するためには、本当に難しい問題を一つ一つ体験的に解決してゆかねばならない。然し多少の誤りは誰にも必ずつきもので完全な食養の出来るものは殆んどないと極言してもよかろう。

 

或る程度の不養生や、無知で、不完全な食事をしていても、それらの害を蒙むらない最も大切な極め手はなにか、それはまず過食をしないという一語につきると思う。過食こそ注意せよ。特に食欲の秋を迎えるにあたって。

 

十月三日

昨日も今日も、午前二時半頃に早や目が覚めてしまう。小食にして腹ペコの状態で寝るとなんと睡眠時間の短くてすむことよ。そして起き抜けに生水をグッと一杯飲むと忽ち便意を催して便所へ飛び込む。胃大腸反射が正常に働いている証拠だ。しかも排便後の気持のよいことはどうだ。腹がすっかり空になったような爽やかな気分になる。今のこの小食は、断食後の恢復食であると決して思ってはならぬ。

 

この食事が生涯の平常食だと思い込み、身体の方で充分納得し、満足するまでずっと続けてゆくのだ。ここ一週間余りは完全菜食を続けているが身体の調子は益々良い。

即ち、昼はニンジンの汁七勺か八勺位(120~150㏄程度)と生野菜(コンフリー、大根葉、チシャ、パセリ、ホーレンソーなど五種類以上)を庭から引き抜いて青汁にしたのを五勺余り(90㏄程度)、水で薄めて食前一時間に飲む。農薬、化学肥料を全くやっておらないから安心して食べられるし新鮮そのものだからこれ程有難いことはない。

 

昼食には玄米クリーム玄米粉70グラムとトーフ四分の一丁、で辛抱しておく。前の晩寝る時から腹ペコであるから昼食のおいしいことはまた格別である。これだけの量で押えておくことは中々難しいが習慣というものは恐ろしいもので、段々とこれでよいのだと身体の方で納得してくれるようになってきた。

 

夕食は玄米飯200グラムから250グラム位、それにトーフ、ヒジキ、カボチャ、コンフリーのてんぷら、グルテンミートなどを副食として全部で三皿つけてもらう。一日一回の食事らしい食事である。もう何が出されようと世界一うまいのである。食べる直前にはオヒツの飯一杯ぐらい食べてみたいと思う程腹が減っているが、玄米飯やヒジキなどをドロドロになるまで噛んでいるうちに結構これだけの食量で満腹してしまう。

 

一日のカロリーを計算してみると、現代医学では完全に落第で、こんな食事をしていたら栄養失調になってしまうぞと嚇かされるであろうが、それでも少しずつ筋肉が出来てきて、しっかりと力づいてきたのは不思議である。今しばらくこの食事でどんな身体になってゆくか実験してみよう。前途に大きな光が見えているようで心が躍る。

 

十月十一日

この八月、皮膚アレルギー疾患で困り果て、当院へ入院して十日間の断食をされたS先生がひょっこり来られた。十日間の断食療法でアレルギー症状は相当良くなったが、もう少しまだ完全根治とまではゆかなかったので再度の断食療法をおすすめしたところ、学校の勤めもあるのでそれは出来ない。後の養生をしっかりやるから養生法を教えてほしいと云われた。

 

そこで玄米と完全菜食の食箋(養生法)を書いて、これを厳守するようにと注意しておいた。その後どうなっているか気にかかっていたのであるが、本日その顔を見て大変きれいになっておられたので安心した。アレルギー症状も全く出なくなってしまったとのことである。その上、今まで疲れやすかったのに、最近は身体が本当に軽く、睡眠時間も短くなり、疲れを知らなくなったと大変喜んで下さった。

 

食事の方は私に云われた通り、玄米、完全菜食を厳守しているとのことである。昼食は今迄なら学校の給食で、生徒達と一緒のものを食べていたが、今は家から玄米飯を持って行く。おかずには高野豆腐や野菜の煮付けたもの、それに海藻類で、動物性のものは一切食べておらない。夕食も、また同じようなものを食べておられる。量は玄米を一日一合にきっちり定めてある。

 

体重は退院の時五十キログラム前後であったものが、現在は五十一・五キログラム、最初学校の先生達がS先生の弁当を見て「こんなものを毎日食べていては栄養失調になってしまうぞ」と不安顔に忠告してくれたが、日毎に元気にきれいになってゆくS先生の顔色に圧倒され、今では『私も玄米菜食に切り変えてみようかしら』と云う程になってしまったと云う。

 

こうして玄米菜食による治験例が一つ一つ増えてゆくのが何よりも愉快で、医師としての生き甲斐がしみじみと感じられる。

 

十月十七日

このところ四、五日食事の量が多くなった。特に夕食の副食が多いし、玄米飯の他に黒パンを余計に食べたのが悪かった。身体が何となく怠るいし、睡眠時間が長くなった。そして一番敏感に反応するのは便通が悪くなったことだ。

 

朝起きて生水を飲めば必ず便意を催して快便があったのに、胃大腸反射が鈍くなったのか、生水を飲んで直ぐに便を催さないし、便の量が食べている割に少ないのが気にかかる。

やはり腹のどこかに停滞しているのであろうか。前頭部に何となく重だるい感じがする。これは以前大食していた当時の症状である。やはり食生活が昔に戻ると、腹具合も、頭脳の冴え具合もまた元に戻ることを示している。従って心身の改造には食生活の根本的な改革が絶対に必要な条件である。

 

断食をたとえ何回繰り返しても後の食生活の改革がそれに伴わなければ何の効果もないのだ。従って単なる断食療法だけでは何等の意味もなさない。結局また数日前の食事量に還って、心身が改造されるまで、否、改造されてからも終生この正しい食習慣を続けること、これが食養の極意であり、真の健康への道である。

 

十月十九日

一昨日からあれだけ過食を反省し、元の小食に戻ることを決意しながら昨日も今日も、尚ずるずると過食してしまった。やはり一度気を許すと、すぐに以前やっていた食生活に戻ろうとする。実に執ような習性を人間は持っている。

 

これが各人夫々の業というものだ。今朝から右足が左足より少し冷たく感じるようになった。この症状は実に十幾年もの長きにわたって続いておったもので、結局左下腹部の宿便に由来すると思われる。断食によってその宿便が排除され、左右の足が完全に平等に揃い、右足の冷える感じをすっかり忘れてしまっていたのに、また今朝からひょっこり感じ出したではないか。

 

そういえば左足首も少し痛み出して左アキレス腱も軽い痛みとつっぱりを感じる。昨夜盗汗をかいたのも過食の仕業に違いない。よし、本日から断然減食だ。昼は玄米の重湯だけ。夜も薄い玄米粥だ。夜になってやっと空腹になってきた。やはり空腹、それも本当の空腹の状態に入った時に実に爽快な気分が味わえる。

 

十月二十一日

二日間の極度の減食で今迄の過食が清算され胃腸の機能が恢復したのか、今日は停滞していた便がドッと出て来た。宿便といってもまだ新しいから出るのも早い。腹が急に空っぽになったような気分になる。何とも云えないこの爽快な気分、もう二度と過食はするまいぞ。空腹の状態で寝床に入るのだ。

 

+月二十二日

今朝は頭脳がすっきりして寝覚めが気持よかった。安眠出来たからだ。昨日の大量の排便で右足の冷える感じが消えてしまっている。左足首の痛みも無い。やはり宿便の仕業は恐ろしいものだ。こうして人体実験をやってみると実によく解る。本を読んでも、こうした微妙な心身の変化は到底学び取ることは出来ない。身体を張っての実践からのみ、目に見えぬ、微妙な真理を感得出来るのだ。実践せぬ者は何年、いや何十年経っても真実の人間を理解出来るわけがない。

このたびの断食を機会に、こうして色々と有意義な教訓を得られる自分を有難い、幸せな奴だと、心から喜べる昨今である。

 

十月二十五日

夕方、親しい観相家が診察を受けにやってこられたが、小生を一目見て「先生、随分と痩せなさったですね。それに顔の色が悪い。断食をなさったとか聞いておりますがあんまり無理をされてはいけませんよ」との注意を受けた。

 

ところがその一週間程前に、或る食養大家から、また九月下旬にも別の食養の大家(食養新生会会長 岡田周三先生)から「先生の顔は大変溌刺(はつらつ)として元気になられましたね。断食前とはすっかり変っておられますね。」と誉めていただいているのである。

 

一方は単なる表面に現われた現象面だけしか観えぬ人であり、その内面に躍動する生命力を読みとれないのである。他方は心眼をもって、その人の生命力を見抜く能力を具えているのである。単なる表面的なものに惑わされないのだ。さすがはその道一筋に精進している人だわい、と感嘆した次第である。

 

世の観相家達よ、もっと真剣に自らの実践によって心眼を養い、正しい観相術を感得されることを望む。

 

十月三十日

昨今、気力も体力も随分と充実して来たが、それに応じて手の爪の三日月が見事に出揃って来た。これは体内の活力が旺盛になった証拠である。そして胃腸の吸収能力が良くなって来たことを示している。これで愈々小食でもやってゆける身体になってきたのだ。

 

五本の爪に小爪(三日月)の出ておらない人は日頃から大食の癖があって、大量の宿便を溜め、胃腸の消化吸収の能率が低下しているのである。このような人は従って将来脳出血にはならず脳血栓(脳軟化症)で中風になるのだ。

 

今から五年前、長期の断食や純生野菜食を続けた後にも、キレイな爪の三日月が出てきて大変嬉しかったことを覚えている。それが、また過食の悪習が頭をもたげて来て、ずるずるとそれに染まり折角出ていた爪の三日月が再び消失してしまったのだ。

 

今度の断食で、今やっと、三日月が勢いよく出て来だのは何とも嬉しい限りだ。左側の爪は四本、右側が三本きれいな小爪が出て来た。左側の小爪の方が大きく本数も多いのは、まだ、右手の血流が左手よりも弱いことを示している。これは左下腹部の宿便がまだ完全に排除されておらないで、頚椎が右上腕神経を圧迫しているからであると推測される。

 

やはり長年の過食が、足から首、脊椎にまで変形を及ぼしてしまっているのだ。これを単なるカイロプラグディックや指圧整体術で簡単に治そうとするのは無理な話で、一時的には症状は消えても、食生活や精神面の改革なしには、すぐにまた元通りになってしまうことをよく知っておく必要がある。

 

漢方一辺倒、整体指圧カイロ一辺倒、食養一辺倒或いは精神修養一辺倒、これらは皆一面の真理を握ってはいるか、これが総てではない。

 

やはり、心身を一者とみなした、即ち色心不二の大原則の立場から綜合された健康法を実践するのでなければ片手落ちとなり、全き(完全な)心身を創造することは不可能である。

残された左下腹部の宿便、これはまた体力が充実してから再度の断食でもやって、完全に取り除くことを夢に描いて、毎日の修養を怠りなく続けるのだ。未来は明るい。希望は躍る。

 

(後記)

私のところへ入院して断食なさる人々に対しては、体重測定や脈博、体温、握力の測定は勿論のこと、レントゲン検査や心電図、血液検査などを出来るだけ精密に行なって、それらの他覚的所見を総合し、正しく症状を把握して断食の指導に誤りのないよう注意しているにかかわらず、自分が病気になって断食するとなると、体温も計らず、体重も測定せず、その他諸々の検査もせず、日頃の主張とは全く反対の、誠に非科学的断食に終始したことは医師として本当に恥ずかしい限りである。

 

しかし、自分が断食をやる時は、特に痛みなどがあって動くのも億劫なときは、つい面倒くさくてずるずると怠けてしまう。それと、心の中に「こんな病気は断食で必ず治るよ」という確信があって、これが余計に非科学的な断食にさせたものと思われる。

 

考えようによっては、毎日体温を計って、ちょっとした熱の昇り降りにも一喜一憂したり、腹痛の差し引きに心を悩ましたりすることなく、大自然の計らいにまかせきりの断食行は、大局観さえ見誤ることなければ反って断食の効果を大ならしめることになり得る。

 

けれども、このような断食のやり方には「万が一」という思わぬ落とし穴があるだろうから決して人にすすめるわけにはゆかない。来夏には、もう一度三週間断食をやる予定で、この時には血液検査をはじめ、他の諸検査も確実に行なって、科学的断食のデーターにしたいと思っていることを附記しておこう。

 

昭和四四年十一月十日 甲田光雄

 

以上です。

 

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