出会いⅠ

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東京高田馬場に、アリババ企画というのがあった。山手線の高田馬場駅近くで、線路沿いの2階建ての小さなビルに事務所があった。

自費出版を主に扱う編集社で、私と「印刷」とのはじめての出会いだったと思う。それまで、本や雑誌という姿でしか知らなかった「印刷」の世界を、創る側から接することになったのである。

当時私は、いくつかの私立大学の仲間とともに、同人雑誌を創ろうとしていた。そのころの学生は生意気で、議論好き。特にこの駅ちかくの学生たちはその気質が強いので有名だった。

その議論好きの学生のほか数名で、同人雑誌を立ち上げた。しかし、いざ出版となると先立つものがある。金である。金の算段、特に社会的な行為として、金銭を使用する。つまり、出版という経済活動の上で、金銭の出し入れを考えることは全くはじめてであった。

いったい、何冊つくればいいものか。かたちはどういうものがいいのか。それにつくるのにどれぐらいの期間がかかるのか。そして、費用はいったいいくらぐらいかかるのか、まったく見当がつかなかった。

「広告とったら、いいと思うよ」

「広告って、自分たちでとれるの?」

「学園祭とかで広告とってるじゃん」

「あれって、お金もらえるの」

「当たり前だよ。ただってことはないよ」 

「いくらぐらい?」

・・・・・・

誰も答えられるやつはいない。

 

無謀である。でもやれるのである。

結局、当時で27万円。原稿をアリババ企画に渡してから、2か月程度でできるとのこと。その間に1回だけ、ゲラ刷りをみせてもらえるという。

「ゲラ刷り?」何のことかまったくわからなかった。一人だけ知っているやつがいて。みんな尊敬のまなざしである。

 

おもしろいものである。本の判型、紙質、刷色、ページ数・・・それら仕様がなにも決められていなくとも、自分たちが400字詰なる「原稿用紙」の束を渡すとできあがってくるのである。

そう、原稿を渡してから、約1か月後、アリババ企画から例の「ゲラ刷り」が上がったから取きてくれとの電話があった。

早速、アリババ企画から「ゲラ刷り」を受取り、みんなを集めた。集まったのはなぜかフランス印象派の画家の名前の喫茶店。どちらかといえば、大人(学生ではない人)が集うイメージのやや高級感のある店で、高田馬場だけで、確か7店舗あったと思う。コーヒー一杯270円かな。贅沢な金額である。ただし長居が可能なので、いささか気取ったつもりでここにしたのである。

 

店に集まったみんなはいつもと違い緊張していた。

「オレさ、書き出しまちがったんだよな。もう少しわかりやすく、読者目線で書くべきだったんだ・・」

ゲラ刷りを見る前から言い訳じみた言葉を吐き出す弱気なやつがいた。

1セットだけコピーしてみんなで回し読みした。ただし、だれも自分以外のところは読んでいない。みな、自分のところを必死に何度も読み返しているのである。

「失敗した」「題名変えた方がいいな」「なんだ漢字間違ってるじゃん」・・・すべて後悔のことばばかりである。「終わった!」などと、悲観的な言葉まで出る始末である。

 

みんなで回し読みして、来週の月曜までにアリババに戻します。どうしても直してほしいところは、赤ペンでなおしてください。

アリババから言われたとおりに告げた。

「赤じゃなきゃだめなの?」

「アリババからはダメだって言われた」

「文章もなおしていいの?」

「間違いだけにしてほしい。直せないわけではないとは言ってたけど・・・」

 みんな雲をつかむ状態である。とにかくあまり直しちゃだめらしい。そんな雰囲気だった。

 

 一週間後、池袋の喫茶店にみんなで集まった。私は自分のものは一度読み返しただけだった。もう一度きちんと読み返す気にはなれなかった。

 ほとんどの学生はそうだった。漢字だけ直しました。ここのたとえが明らかに矛盾しているので、カットしました。そんな感じで、赤字は数か所だった。

 一人遅れてきた女性がいた。私たちより年上で、長編を今回出してきた人である。みんなへの挨拶代わりに

「どうしても、直してほしいところがあったの。」

 そう言って見せられたゲラ刷りは、各ページにわたり赤文字が散在している。文章をすっかり書きかえている個所もかなりある。

「いやあ、これはさすがに多いと思いますが・・」

思わずそうつぶやいたのは、私とともに編集の中心となっていた江川くんだった。

「でも、どうしてもここは、主人公の意図が伝わらないと思うの。誤解されたら作品全体がちがうものになるわ」

 そう言われてもピンとこない。なぜなら、みんな自分の作品しか読んでいないのである。

「江川君。あなた、自分の作品だったらどうするの。たった一文字でさえ、ちがったものになること、作品自体が壊れてしまうことだってあること。あなたならわかるでしょ」

 大きな声ではないが、強い口調に思われた。江川くんは外木場さんにさからうことはできない。みんなも同じである。年上で、知識も経験もある外木場さんの言うことは確かなのである。そう思うしかないのである。

 結局、外木場さん自身がアリババにかけあい、自分で説明してくることになった。江川君がついていきますと言ったが、「いいわ」と一蹴された。

 日頃さほど厳しくない外木場さんが、こと作品となると後へ引かない。みんなそのことが良いとも悪いとも思ってはいなかった。

 

 それから1か月後。ゲラを返してからひと月が過ぎたのである。みんな忘れかけていたころだった。

 

 アリババから電話があり、出来上がったので取りに来てほしいとのことだった。

私たちの心は浮き立った。約束の日の3時にみんな間違いなく集まってきた。300部。自分たちの冊子だった。アリババの2階にあがり、引き換えに27万円入りの茶封筒を渡し、早々に冊子を受取って階段を下りた。

 降りてすぐ、山手線の線路わきで、誰が言うともなく、包みを開けて自分たちの冊子に出会った。包みを開けた私の周りをみんなが覗き込み、しばらくして、次々と手が伸びて、一冊ずつ、みなが手に取った。

真新しい印刷のにおい。それははじめて経験する、本当にできたての新鮮なかおりだった。

 いつもあまり動きのすくない永井さんが、本に頬ずりをしていた。大原は声を出して自分の一節を朗読した。野村などは、一心不乱に自分の作品に読みふけっている。

 

 わっと泣き声が聞こえた。外木場さんが開いた本に顔を伏せて泣き出していた。私もその気持ちがわかった。感動した気がした。

 と、その後

 「ちがう。ちがっている。」

 「直ってないわ・・・」

 外木場さんの声は悲鳴とも何とも言えない声だった。私たちの興奮は一瞬にして外木場さんの涙に吸い取られた。

 私は正直、あんなにたくさん直したからしかたがない、と思っていた。

 その耳元で、

 「私には、外木場さんの気持ちがわかるわよ。」

 永井さんだった。

小さくても、はっきりと言ったその言葉が、私の体をゆっくり、冷たく流れてゆくのがわかった。そして、その言葉がずっと消えずに残り続けることを、その時の私はまだ知らなかった。

 

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