アルバート・アイラー(Albert Ayler/1936年7月13日~1970年11月25日)は、アメリカ合衆国のアヴァンギャルド・ジャズ・サックス奏者、歌手、作曲家。

 

 

 

1936年7月13日、アルバート・アイラーは、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド(Cleveland, Ohio)で誕生。後に生まれる弟のドナルド・アイラーも後にプロのトランペット奏者となり、兄弟共演したこともある。

 

アルバート・アイラーが最初にアルト・サックスを習ったのは、父エドワードからだった。アルバートとエドワードは親子で、教会にて二重奏を披露していたのである。

 

クリーブランド東部にあるジョン・アダムズ・ハイスクールに入学。

アイラーは高校ではオーボエも吹いていた。
 

1952年、16歳の時、アイラーはブルーズの歌手でハーモニカも演奏するリトル・ウォルターと一緒に、時に自動車のクラクションにも似た音を出しながらR&Bのスタイルのテナーを演奏し、酒場でのライヴ活動を始めた。こうして夏休みを2年連続でウォルターのバンドで演奏するのに費やしたのである。

 

 

1954年、18歳で高校を卒業する。

その後、クリーブランドの音楽学校でベニー・ミラーに師事し音楽を学ぶ。

10代の学生としては優れた技量を身につけていたため、アイラーはクリーブランド近辺で、「バード」(Bird)のあだ名を持つチャーリー・パーカー(Charlie Parker Jr. / 1920年8月29日-1955年3月12日)に因み、「リトル・バード」として知られるようになった。

 

 

高校卒業後、アイラーは軍隊に入隊し、そこで色々なミュージシャンと即興演奏を披露しあった。そうした相手の中には、テナーのスタンリー・タレンタインもいた。アイラーは連隊のバンドでも演奏した。

 

 

1959年にはフランスに駐在し、晩年の演奏活動の根源を成す影響を与えたと思われる軍楽にますます親しむこととなった。

 

 

軍隊を除隊後、アイラーはロサンゼルスとクリーブランドで音楽で身を立てようとしたが、彼の演奏が伝統的な演奏のスタイルを打破する傾向をますます強めていたため、つまり伝統的な和声からますます遠ざかるものとなっていたため、クラシックなスタイルを身上とするミュージシャン達からは歓迎されなかった。

 

 

1962年、アイラーはスウェーデンに移住し、そこで録音を積み重ねていった。ラジオの収録にスウェーデンやデンマークのグループを率いて出演。

1962~1963年冬、セシル・テイラー(Cecil Taylor/1929年3月25日-2018年4月5日)のバンドにノーギャラながらメンバーとして参加して演奏している。このテイラーのグループに参加した時のテープは、長く噂になっていたが、2004年にレヴァナント・レコードから発売された9枚組CDに収められている。

 

 

1963年、スウェーデン録音のアルバム『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー』(My Name Is Albert Ayler/1964年発表)では、コペンハーゲンのラジオ局のために、地元のミュージシャンとセッション、スタンダード・ナンバーを演奏している。参加ミュージシャンの中には、ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンやドラマーのロニー・ガーディナーたちがいた。アイラーはテナーの他にソプラノ・サックスを“サマータイム”(Summertime)といった曲で使用している。

 

 

 

同年、アイラーは米国に戻り、ニューヨークで活動を開始。ゲイリー・ピーコック(B)、サニー・マレイ(Ds)とともに、強い影響力を持つトリオを結成。

 

 

1964年、このトリオは、アイラーの重要な転機となったアルバム『スピリチュアル・ユニティ』(Spiritual Unity/1965年発表)をESPディスク・レコードで録音、約30分間の強烈なフリーの即興演奏を収録している。本作はフリー・ジャズの著名な作品として知られ、2トラックに分けて収録された“ゴースツ”("Ghosts: First Variation" 5:12/"Ghosts: Second Variation"10:01)はアイラーの代表曲とされている。

 

 

エリック・ドルフィーがアイラーのことを「これまでに出会った中で最も優れた演奏家だ」と言ったという話があるが、こうしたニューヨークのジャズのリーダーの一部から評価され、アイラーはフリー・ジャズの聴衆を増やしていった。彼はジョン・コルトレーンのような経験豊かなベテランだけでなく、今まさに生まれ出ようとしていた新しい世代のジャズ演奏家達にも影響を与えた。

 

 

1964年にはアイラーは、先のトリオのメンバーにトランペットのドン・チェリーを加えたバンドでヨーロッパをツアーして回っている。このツアーは録音され『ヒルヴェルスム・セッション』(The Hilversum Session)として1980年に発表された。アイラーのトリオは、オーネット・コールマンらのフリー・ジャズの後継者だった。マレイは安定した周期的なリズムを刻むことはまずなく、またアイラーのソロはスピリチュアルなものであった。しかしトリオでの演奏は依然としてジャズの伝統を感じさせるものだった。

 

 

 

1965年、このグループによる次の演奏は、トランペッターの弟ドナルドが加わったもので、これまでの演奏のあり方を根底から覆すものだった。アルバム『ベルズ』(Bells/1965年録音)から始まる、ニューヨーク・タウンホールでのコンサートの録音には、ドナルド・アイラー、チャールズ・タイラー、ルイス・ウォレル、サニー・マレイらが参加している。アイラーは連続して行進曲、-あるいはメキシコの伝統的な音楽のスタイルと言うべきか-、を演奏する方法を採り入れ始めていた。彼らはテーマと、複数のサクソフォーンが同時にフリーな即興演奏を倍音を出しながら吹くパートとを交互に演奏した。野性的かつ唯一無二なその音は、アフリカがルーツと思われる集団即興に立ち帰らせるものであった。

 

 

この新しい音は、スタジオ・アルバム『スピリッツ・リジョイス』(Spirits Rejoice/1965年録音)で確固たるものとなり、さらに同じ顔ぶれによるニューヨークのジャドソン・ホールでの演奏が録音された。

 

 

アイラーは、1970年にインタビューで、自らの後期の演奏のスタイルを「エナジー・ミュージック」と呼んでいる。これは、そもそもアイラーと、ジョン・コルトレーン(John Coltrane/1926年9月23日-1967年7月17日)やサン・ラらが演奏していた「インターステラー・スペース」と対比してのことである。 この方法は『ヴィレッジ・コンサーツ』まで続き、アイラーが本で述べたように、ESPレコードはフリー・ジャズの主要なレーベルとしての地位を確立した。

 

 

1966年、アイラーはコルトレーンの強い勧めもあってインパルス!レコード(Impulse! Records)と契約。コルトレーンは当時インパルスの中心的な存在だった。しかし、インパルスから録音を発表するようになったにも関わらず、アイラーの根底から従来の音楽とは異なった演奏が多数の聴衆を獲得することは、決してなかった。

 

 

1967年、コルトレーンが亡くなったが、アイラーは彼の葬儀で演奏した数人の演奏家の一人であった。

度王年後半、弟のドナルド・アイラーがいわゆる神経衰弱となった。ニュージャージー州ニューアークで発行されていた音楽雑誌『クリケット』の編集者アミリ・バラカとラリー・ニールへ宛てた手紙の中で、アイラーは「空中に不思議な物体が浮かんでいるのを目撃した」と語り、彼と弟は「額に全能の神のしるし」をつけられていると信じるようになった、と語っている。

10月、ライヴ・アルバム『グリニッチ・ヴィレッジのアルバート・アイラー』(In Greenwich Village)をリリース。

 

 

その後の2年半、アイラーは空想的でヒッピー的な歌詞を、同棲していた恋人メアリー・マリア・パークスにたびたび書いてもらっていた。アイラーは自分が音楽を始めた時のルーツに立ち帰り、R&Bの要素やファンキーなもの、エレクトリックのリズムなどを採り入れ、さらにはホーン・セクションに新たな楽器を追加したりして(例えばスコットランド高地のバグパイプなど)数曲、仕上げている。

 

 

1967年の『ラヴ・クライ』(Love Cry)は、この方向に踏み出したことの具体的な成果だった。アイラーはスタジオ・ライブ録音、例えば“ゴースト”や“ベルズ”でフリーな即興演奏を抑え気味にしている。

 

 

1968年、その次に発表されたアルバム『ニュー・グラス』(New Grass)は、パークスおよびR&B系のミュージシャンであるローズ・マリー・マッコイ(Rose Marie McCoy)のヴォーカルが導入され、音楽的にもソウル、ファンク、ロックのリズムを取り入れた異色作で、多くのファンから彼の作品で最低のアルバムだと酷評された。このアルバムの商業的失敗の後、アイラーは、彼がかつて演奏していた「宇宙ビ・バップ」の録音と『ニュー・グラス』でのサウンドを結びつけることを、彼の最後の2枚のアルバムで試みる。

 

 

1969年、アルバム『ミュージック・イズ・ザ・ヒーリング・フォース・オブ・ザ・ユニヴァース』(Music Is the Healing Force of the Universe)は、ブルーズロック・バンドのキャンド・ヒートのメンバーヘンリー・ヴェスタインを、ジャズ・ピアニストのボビー・フューなどと一緒に大きく前面に出したサウンドとなっている。

 

 

 

1970年7月、アイラーはフリー・ジャズの演奏法に立ち帰った。フランスでショーを行うグループのためである(マーグ財団美術館での演奏を含む)。しかし、彼が集めることができたバンド(コール・コブ、ベースのスティーヴ・ティントワイス、そしてドラムスのアレン・ブレアマン)は、彼が初期の頃に組んでいたバンド程にはその素晴らしさを理解されることはなかった。

 

 

 

1970年11月5日、アルバート・アイラーは突如姿を消し、11月25日にニューヨークのイースト川で死体が見つかった。自殺と推定されている。その後、アイラーは殺されたという噂が広まった。後に、パークスは「アイラーは落胆して自らの失敗を悔い、弟の問題について自身を責めていた」と述べている。パークスは「彼は死体が見つかる直前にも、実際に何度か自殺しようとした。そして、自殺をやめるよう説得しようとすると、テレビの上に置いてあったサクソフォーンを1本取り上げて、粉々に打ち砕いたことがあった。それから、自由の女神像のフェリーに乗って、船がリバティ島に近づいたところで川に飛び込んだのだ」とはっきりと述べている。

アイラーの亡骸は、オハイオ州クリーブランドに埋葬された。

 

 

1996年9月20日は、最初の「アルバート・アイラー・フェスティヴァル」が、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるワシントン・スクエア・チャーチで開催された。演奏したのはアミリ・バラカ、ジム・ノレット、ゲイリー・ルーカス、ジョー・マクフィー・カルテット、ペーター・ブロッツマン&トマス・ボルグマン・カルテット、ジョー・ジアデュロ・カルテット、サニー・マレイ、デイドレ・マレイ、ジョセフ・ジャーマン、サーストン・ムーア、マイケル・ビシオらだった。

 

 

2004年、CD9枚組BOXセット『Holy Ghost: Rare & Unissued Recordings (1962–70)』がレヴァナント・レコードからリリース。幻のセシル・テイラーとのレコーディングをはじめ、コルトレーンの葬儀での演奏、「ファースト・レコーディング」以前や「ラスト・レコーディング」以後の録音等を収録。箱の表には、「コルトレーンが父、ファラオが母、私は聖霊だった」というアイラーの言葉が飾られている。

 

 

 

2005年、スウェーデンの映画制作者カスペル・コリンはのアイラーの生涯に関するドキュメンタリー映画『My Name Is Albert Ayler』を発表した。映画の中では、スウェーデンとフランスでのコンサートを収録した唯一の映像を見ることができる上に、アイラーの父親であるエドワードと弟のドナルドがインタヴューで細かく具体的に語る様子を見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「アルバート・アイラー」「Albert Ayler」

 

 

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