村田 和人(むらた かずひと/1954年1月2日~2016年2月22日)は、日本のシンガーソングライター、作曲家。元専門校東京ミュージック&メディアアーツ尚美講師。

 

 

 

1954年1月2日、村田和人が生まれる。東京都品川区出身。

 

中学時代にビートルズ来日のテレビ放送を視てカルチャーショックを受け、その翌日にエレキギターを購入。

その後、ローリング・ストーンズにも大きな影響を受け、クリーム、レッド・ツェッペリン等のブリティッシュ・ハードロックを聴くようになる。同時にバンド活動も開始するが、中学3年時にはベーシストが見つからず、村田が自ら担当していた。村田曰く「二十歳くらいまではいろんなバンドでベースを弾いていた」とのこと。

1977年、獨協大学に入学後、バンド「ALMOND ROCCA」を結成し、本格的なバンド活動を行う。

 

1978年、バンドはEastWest地区大会でグランプリを獲得するなど高評価を受ける。YAMAHAの自主制作盤『エピキュラス・フレンズ・コンサートライブ』に後の代表曲となる“電話しても”、“GREYHOUND BOOGIE”を収録、そのデモテープを入手したフリーのプロデューサー(以下「P」)が作曲とヴォーカルを高く評価し村田に接触。しかし当時は洋楽指向で、邦楽は山下達郎とはっぴいえんどしか聴いていなかった村田は「あなたじゃ駄目、僕らをプロデュースできるのは山下達郎ぐらいかな」と断る。そのPが偶然山下と知り合いだったため後日、山下に直接デモテープを渡す機会を得た。

デビューへの道を模索する中、デビューは消滅。だがデモテープを聴いた山下は村田を高く評価し、「もし、このシンガーが世に出なかったら“電話しても”を自分で歌おう」と思う程惚れ込んだという。

デビュー話が立ち消えになったため、大学卒業を区切りにALMOND ROCCAを解散し、日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ)に営業マンとして入社。サラリーマンとして働く傍らALMOND ROCCAを再結成し、精力的にライヴ活動を行う。

ライヴを観に来ていたRVCのディレクターに評価され、デビューの話が再浮上。

RVCのAIRレーベルに所属の山下と再会、彼の後押しもあり、プロデビューが決定。


1981年、会社を退職しデビュー・アルバム制作に入る。山下プロデュースを期待したが、音楽性や声質から「山下が村田を手がけたら、両者が似すぎてしまうのでは」という懸念から、アレンジは村田が希望する鈴木茂と、スタッフ側が要望した井上鑑に委ねられた。だが、制作途中のテイクを聴いた山下から直接村田に連絡があり、編曲のやり直しを進言。結果、“電話しても”を含む数曲が山下の編曲で録り直された。

この間、ムーン・レーベルの設立と、第一弾アーティストとして村田と松下誠がラインナップされたため、一旦レコーディングを中断してデビューのタイミングを調整。

 

 

1982年4月21日、シングル“電話しても”(作詞・曲:村田和人/編曲:山下達郎)で念願のデビュー。

 

6月21日、1stアルバム『また明日』を発売。アルバムのプロモーション終了後、山下のツアーにコーラスとして参加。現場で多くの音楽的経験を積んでいった。

8月21日、2ndシングル“Catching The Sun”(作詞・曲:村田和人/編曲:山下達郎)を発売、シャープ「エルシーメイト」CMソング。

 


1983年3月25日、日立マクセル(現:マクセル)から「一本の音楽」というコピーの使用を条件に制作を依頼された“一本の音楽”がスマッシュヒット。CM露出も多かった。

 

6月25日、山下プロデュースによる2ndアルバム『ひとかけらの夏』を発売するとオリコン25位を記録、ライヴもコンサートホールで行う事ができるようになった。数多くのライヴ活動を行う中で、山本圭右、阿部薫、小板橋博司、小室哲哉のバンドメンバーで「村田サウンド」を確立していった。

 

 

1984年6月10日、4thシングル“WEEKEND LOVE”(作詞:安藤芳彦・村田和人/作曲:村田和人)を発売、関西テレビ『モーニングスタジオ・土曜!100%』テーマ曲。

 

7月10日、TMネットワークでデビューする小室を除くメンバーで制作した3rdアルバム『MY CREW』を発売、オリコン26位。自身初のセルフプロデュース。

 

 

アルバム発売に伴い、全国主要5都市を含む全国ツアーも行った。


1985年、再登板の予定だった山下が自身の音楽制作へのコンピュータ導入による試行錯誤などにより時間が空かず、村田も収録予定だった楽曲を他のアーティストに提供する等、ちぐはぐな活動に終始、結局アルバム制作は流れてしまった。


1986年6月25日、渡米しロニー・フォスターの元制作したアルバム『showdown』を発売。フォスターはじめLAのスタジオミュージシャンを起用した本作は、従来作品にはないアーバンなテイストを盛り込んだ意欲作となった。オリコン41位。

 

 


1987年5月10日、シングル“湾岸ウィング”(作詞:安藤芳彦/作曲:村田和人)を発売、NHK教育『趣味講座 ベストサウンド』主題歌。

 

6月25日、再渡米してLAでベーシックトラックを制作、日本でダビングとヴォーカルを録音した5thアルバム『Boy's Life』を発売、村田の集大成となる。オリコン36位。

 

同時発売で、シングル“Stay The Young”(作詞:安藤芳彦/作曲:村田和人)を発売、PIONNER「carrozzeria」CMソング。

 

9月10日、シングル“JUST A LOVE SONG”(作詞:安井かずみ/作曲:加藤和彦)を発売、映画『ハワイアン・ドリーム』エンディングテーマ曲。

 

 

1988年、環境のリセットのため東芝EMIへ移籍。これを機に他のミュージシャンに制作を委ねてみようと考え、アレンジを幾見雅博に依頼。

9月10日、シングル“SKY LOVE”(作詞:田口俊/作曲:村田和人)、オリコン87位。

 

10月5日発売の『GO POP』は打ち込みによる音作りを大胆に採り入れたアルバムとなった。作詞家も新たに石川あゆ子、サエキけんぞうや直枝政広を迎え、ビジュアルイメージも一新するなど、新しいスタイルを模索した作品となったが、一方でデジタルサウンドと村田のヴォーカルとの相性などの課題も露呈。オリコン36位を記録。

 

 

同年、斎藤誠、山根栄子、山根麻衣(後に重実徹が加入)と「21」(トゥエンティ・ワン)結成、同年にアルバム『Blue Coast Inn』を発表。

 


1989年6月14日、バンドの一発録りをコンセプトに制作した『太陽の季節』を発売。前作の打ち込み主体のクールな音作りに対し、バンドサウンドによる熱い音作りを狙った作品だったが、やや荒い音作りになってしまい、村田は「バンドの力を借りすぎてしまって、ヴォーカルが荒すぎた」とコメントしている。オリコン55位。

 

 

 

1990年6月6日、アルバムから表題曲を先行シングルとしてリリース。

 

7月25日、8thアルバム『空を泳ぐ日』は音作りのすべてを中村哲に委ねた作品で、打ち込み中心の音作りではあるものの、デジタル技術の進化と安藤芳彦がすべての作詞を担ったことにより、ムーン時代の手触りに近い作品となった。オリコン91位。これが東芝からの最後のリリースとなった。
この後、村田本人もルーチン的になってしまった音楽活動に新鮮さを失い、コーラスやアレンジの仕事をこなしつつ、湯川トーベンのフォークロックスや、様々なユニットに参加する。

 

 

1991年6月、J-WAVEの企画で杉真理とのユニット「アロハ・ブラザース」を結成。J-WAVEで6月から翌年4月にかけて隔月で新譜を発表(1992年に非売品CD化)。

このような活動により表舞台から村田は徐々に姿を消していくこととなった。
一方、こうしたアマチュア的に純粋な音楽活動に携わるうちに、村田は音楽制作に対する意欲を取り戻していった。

同年、21の2ndアルバム『GREETING』をリリース。

 

 

1993年3月24日、東芝時代の反省も生かし、「やりたいことを、やりたいメンバーで、自分のプロデュース・アレンジで制作する」という決意の元、9thアルバム『HELLO AGAIN』を発表、オリコン75位。ドラムは打ち込みになったものの、当時のメンバーによる演奏や山下の参加により、復活を感じさせる佳作となった。シングル“君の自由”(作詞:庄司明弘/作曲:村田和人)を同時発売、UCカードCMソング。

 

8月14日、日比谷野外音楽堂にて杉山清貴とのユニット「In 'n Out」でライヴ開催。
 

 

1994年2月9日、荻野目洋子とのデュエット・シングル“今日から始めよう”(作詞:秋元康/作曲:後藤次利)を発売、ブルボン「バレンタイン&ホワイトデー」CMソング。

 

6月22日、10thアルバム『evergreen』はバンドサウンドの完全復活による原点回帰となる作品となった。オリコン88位。

 

 

1995年6月21日、シングル“Do You Wanna Dance?”(作詞:安藤芳彦/作曲:村田和人)を発売、日産自動車「ラルゴ」CMソング。

 

9月21日、11thアルバム『sweet vibration』はサウンドスタイルはそのままに楽曲の多様化を目指した作品で、異なるアプローチながら前作ともども村田らしさに満ちた、充実したアルバムとなった。村田自身、リイシューしたアルバムの解説で「3枚とも迷いのないアレンジ、妥協のないメロディ、アイデアやメリハリなど、自分の音楽活動のひとつの区切りをつけたもの」と発言した。ただし、セールス的には厳しい状況だった。以降、オリジナル・アルバムのリリースは暫く途絶えることとなる。

 

再びアマチュア的音楽活動に戻っていた村田に、尚美学園が運営する「専門学校東京ミュージックアンドメディアアーツ尚美」(現:尚美ミュージックカレッジ専門学校)が新しく創設する「プロミュージシャン学科」から、講師のオファーが入った。最初は気乗りしなかったが次第にやりがいを感じ、講師活動に精力的に取り組むこととなる。村田が講師をしているという話を聞きつけた他校からも依頼があったり、卒業生から個人レッスンを依頼されたりするうち、いつしか活動はレッスン一色になっていった。そのまま講師を続けようと思っていた村田であったが、講師活動が6年間経った時に自身が肺炎で入院したことと、ALMOND ROCCAのベーシスト・新井正春が急逝したことを契機に、自分の音楽活動に戻ることを決意する。


2008年4月1日、13年ぶりの新作『Now recording』をインディーズからリリース、村田が二十歳前後に作った楽曲をリメイクした作品で、ライヴツアー活動のプロモーション用という側面が大きかったが、音楽関係者からの反響が寄せられた。

8月27日、メジャー・レーベルのユニバーサルミュージックから『Now recording』がボーナス・トラック5曲入り、24bitリマスターでの再リリースとなった。


2009年7月15日、13thアルバム『ずーーっと、夏。』をリリース。オリコン223位。

 

 

2010年9月15日、続編的作品『ずーーっとずっと、夏。』を発表。オリコン261位。

 

 

2012年5月23日、「夏モノ3部作」3作目『ずーーっとずっと、ずっと夏。』を発売。オリコン154位。収録曲“太陽のPrecious”(作詞:安藤芳彦/作・編曲:村田和人)が東芝「住宅用太陽光発電システム」の「次の暮らし篇」CMソングとして起用された。

 

 


2013年6月、他アーティストへの提供曲をセルフ・カヴァーした『Treasures in the BOX』を発売。オリコン249位。

7月、夏モノ3部作から選出した楽曲にマイケル富岡のDJによるラジオ風のノンストップ・ミックスに仕上げたベスト盤『夏!夏!夏!』をリリースした。
 

 

2014年7月25日、17thアルバム『P-CAN』をリリース。

その後も日本各地を訪れライヴ活動を精力的に行っていた。

 

 

2015年頃から村田は体調不良を訴えるようになる。しかし、その後も闘病しながら音楽活動を続けていた。

 

 

2016年2月初旬に春から行われるライヴツアーの中止を発表。間もなく容態が急変。

 

 

 

 

2016年2月22日午後4時20分、村田和人が大腸がんからの転移性肝臓がんにより死去。享年62。




2017年12月15日、ライヴ・アルバム『雨の日には』をIsland Moon Musicからリリース。


2018年7月2日、村田が亡くなる直前まで制作していたアルバムを、村田バンドのメンバーや親交の深かった杉真理、息子の村田彼方の手により完成、「村田和人 & His Friends」名義で『De P-CAN』(ド・ピーカン)として発売された。全曲の詞が完成する直前に逝去したため、村田自身のヴォーカルは2曲のみで、他の曲は村田バンドのメンバーやGOMES THE HITMANのヴォーカルである山田稔明が担っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「村田和人」

 

 

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