大久保 伸隆(おおくぼ のぶたか/1974年9月24日~)は、日本の歌手。「Something ELse」の元ヴォーカル。
1974年9月24日、大久保伸隆が東京都で生まれる。
その後転居し、千葉県流山市で育つ。
小学校5年生の頃、母親が聴いていたラジオ番組から流れてきたスティーヴィー・ワンダーの“I Just Called To Say I Love You”を耳にして初めて音楽に興味を持った。美しいヴォーカルとメロディーに惚れ込み、即座に『これ、録音して!』と頼んだ。現在ではCDを購入して聴けるようになったが、当時は途中からしか入っていない同曲を聴いては口ずさんでいた。
小学生時代から空手を始め、高校まで続ける。格闘技全般が好きで、中でもアンディ・フグを敬愛している。
最初に買った音楽作品はカセットテープで、聖飢魔IIの第二大教典「THE END OF THE CENTURY」であることをデーモン閣下本人の前で発言している。
千葉県立野田北高等学校(2006年に千葉県立野田高等学校と合併して、現:千葉県立野田中央高等学校)に進学。
部活動は空手部に所属、副主将として活躍し、県大会にも出場した。
高校二年の時、友人の兄が所有していたアコースティックギターの音色に魅了され、早速借りて持ち帰り、毎日練習を繰り返していた。
同時期、同じ高校に通い、吹奏楽部でユーフォニアムを担当していた伊藤大介(いとう だいすけ/1974年7月25日-)は、失恋をきっかけにアコースティックギターを始める。
同じ高校の同級生ながらクラスが別々でそれ程親しくなかった大久保と伊藤だが、ある時、理科準備室で黙々とギターの練習をする空手部の大久保の姿を伊藤が見かけたことがきっかけで会話を交わすようになる。互いに音楽に興味を持ち、ギターを弾いているという共通点もあり距離を縮めることになった。
「予餞会(三年生を送る会)」を機にユニットを結成、ストリートライヴを開始する。程なくして、大久保の発案でライヴハウスへの出演が決まる。当初名前は決まっていなかったが「自分達の音楽が聴いてくれる人にとって心の非常口になれば」との思いから、〈EXIT=非常口〉というフレーズは使いたい」と強くこだわった。正式なユニット名を決めかねていたところ、ライヴハウスのマネジャーが二人の名字を取って「I/O EXIT」と命名し、そのままユニット名になった。バンドのプロフィール紹介ではinput/outputという意味合いもあるとされている。
1994年5月、柏駅前のデッキ上でI/O EXITとしてストリートライヴを行っているところを、母校・明大の野球観戦を終えて帰宅途中だった今井千尋(いまい ちひろ/1974年8月28日-)が偶然通りかかる。今井は当時、別の音楽ユニットで活動していたがプロ・ミュージシャンを目指しており、自身の作る楽曲に合うヴォーカルと演奏を求めていたこともあり、オーリアンズの“Dance With Me”を演奏する2人に心打たれ、すぐ伊藤と大久保に声をかける。その時今井は泥酔状態だった為、二人は不信感を募らせたが、プロ志向を熱く語る今井に感じるものがあり、後日改めて話し合いをすることになる。
今井が用意したオリジナル曲の譜面とテープを聴いた2人が気に入り、「EXIT LINE」として活動を開始。一週間後にはストリートライヴを行う。後にシングルとして発売されることとなる“風と行きたかった”は最初のオリジナル曲として早くから披露されていた。やがて柏でのストリートライヴは200人以上を集めるようになり、地元紙に取り上げられるまでになっていた。当初は歌いたいだけ歌っていたが、ライヴハウスへの集客を目的とする為、後に隔週土曜日、時間も50分間で固定された。音楽関係者がその様子を知ることになりデビューへのきっかけとなる。
5社程のレコード会社からオファーを受け、東芝EMIと契約締結。
1996年5月頃、メジャーデビューに際し「EXIT LINEは発音しづらい」とスタッフから意見があり、バンド名を変更することになる。
7月13日、柏でのストリートライヴ最終日、「Something ELse」(サムシングエルス)としてメジャーデビューすることを発表。EXIT LINEの「E」と「L」の頭文字を取り、「もっと良いもの。転じて凄く目立つ、たいした奴」という意味が込められている。一時スタッフ側から「GROWINGはどうだ?」と提案があったが、すでにレコード会社内で「サムエル」の略称が定着していた為、結局この案は立ち消えになった。
10月7日、TOKYO FMで『里香とSomething ELseのミュージックキャンプ』がスタート、1997年9月まで担当した。
10月23日、シングル“悲しきノンフィクション”でメジャーデビュー。TBS系『Popfile』エンディングテーマ&J-WAVEサッポロビール企業CMソング。このシングルのレコーディングを機に、主にキーボード担当だった今井は初めてベースを購入した。初回版には大久保の名前がミスプリントされたものが存在する。オリコン最高位137位。地元柏の新星堂のランキングでは3位を記録。
1997年3月12日、2ndシングル“days go by”リリース。テレビ東京系『TVチャンピオン』EDテーマ。サムエルで最も売れなかったシングルとなった。
4月18日、初のワンマン・ライヴを渋谷のライヴハウスEgg-manで行う。
10月8日、3rdシングル“風と行きたかった”リリース。JR東日本「VIEW CARD」CMソングに採用される。カップリングはゴダイゴのカヴァー“MONKEY MAGIC”(作詞:奈良橋陽子/作曲:タケカワユキヒデ)。セールスこそ芳しくなかったが、地方ラジオ局のリクエストランキングでは1位を記録。
1998年2月6日、4thシングル“反省のうた”リリース。NHK『みんなのうた』で同年2・3月にオンエアされる。
3月6日、1stアルバム『TRIPLE PLAY』リリース。当時のレコード会社所属アーティストの地方移動費No.1も報われず、なかなか結果に結びつかなかった。
6月17日、5thシングル“レコード”リリース。テレビ東京系ドラマ『太陽娘と海』主題歌に起用、メンバー全員が本人名義でカメオ出演している。しかしここまで、デビュー・シングルを超えるセールスを記録できず低迷。レコード会社との契約切れの危機に立たされていた。
9月13日、日本テレビの人気番組『雷波少年』から起死回生のチャンスともいえる白羽の矢が立つ。「三人で一つの部屋にこもり運命の一曲を制作。その一曲を次のシングルとしてリリースし、そのシングルがオリコン初登場20位以内に入らなければバンド解散、音楽業界以外の職種に転職」という条件だった。企画内容には一時メンバー、スタッフも難色を示したが、三人の意見は一致し合宿生活を開始。首都圏以外では深夜のオンエアや放送が数週間遅れとなるなど不利な点もいくつか重なったが、全国各地でのファンやラジオDJによる応援活動やネットでの呼びかけ、バンドがデビュー以後出演してきたラジオ局のDJが一丸となり、「僕達だってサムシングエルスを失いたくない!!」というチラシを署名入りで全国的に配布しバンドの存続を訴えた。
12月3日、3曲の候補曲から“ラストチャンス”が正式に決定、翌12月4日にジャケット撮影、12月5日に千葉マリンスタジアムでミュージックビデオの撮影を実施。
12月23日、こうして完成した運命の6thシングル“ラストチャンス”(作詞・曲:Something ELse/編曲:森俊之・Something ELse)をリリース。
1999年1月1日、初登場20位以内を目指して合宿所から見えた富士山へ願掛け。
同日、すでに担当を外れていたスタッフが熊本へ飛び、ファンも街頭で呼びかけを行った。さらにFMK(エフエム中九州/現:エフエム熊本)のラジオDJもCDショップにて“ラストチャンス”を手売りする。
1月6日、オリコン結果発表で20万5340枚を売り上げ、シングル週間ランキング初登場2位を記録、これにより20位以内という目標を達成し、118日間の合宿生活を終了する。なお、オリコンにて、翌週には1位を獲得、最終的に1999年1月度月間1位、1999年度年間12位を獲得、ミリオンセラーに迫るヒットを記録した。また同年、日本ゴールドディスク大賞において「ソング・オブ・ザ・イヤー」も受賞した。
3月10日、合宿生活中に記録していた日記をまとめた書籍『サムエル日記』出版。
3月17日、“ラストチャンス”を含む6枚のシングル等を収録したヒストリー・アルバム『502』をリリース。オリコン7位をマーク。
4月、オフィシャルファンクラブ「サムエル主義共和国」設立。
4月、bay fm『サムシングエルスのなのはなレディオ』スタート(2000年9月まで)。
4月9日、7thシングル“さよならじゃない”(作詞・曲:Something ELse/編曲:森俊之)を発売。合宿生活中に制作した楽曲をリメークした楽曲で、日本テレビ『劇空間プロ野球』イメージソングに起用、シーズン終了まで流れる。オリコン7位。
6月7日~7月6日、初の全国ツアー「トリプルプレイ〜なんとか三人でやってみます〜」敢行。9ヶ所11公演。
7月28日、8thシングル“あいのうた”(作詞・曲:今井千尋/編曲:森俊之)リリース。日本テレビ系「ルナパーク'99雷波少年系遊園地『後ろ楽しいガーデン』」テーマソング。オリコン10位。
10月、文化放送をキー局に全国ネットのラジオ番組『LIPS PARTY 21.jp』スタート(2001年9月まで)。
10月6日~11月30日、二度目の全国ツアー。15ヶ所15公演。
12月30日、『輝く!日本レコード大賞』に出演。“ラストチャンス”が優秀作品賞を受賞。
12月31日、『第50回NHK紅白歌合戦』に初出場、“ラストチャンス”を披露した。この他、年末年始にかけて多数の音楽番組に出演する。
2000年1月1日、千葉県柏駅でのストリートライヴにて、新年をスタートさせる。
2月16日、9thシングル“ウソツキ”(作詞:Something ELse/作曲:伊藤大介/編曲:中村哲)リリース。初のマキシシングルで、ダブルタイアップ。オリコン24位。
3月8日、2ndアルバム『ギターマン』リリース。オリコン15位。
4月10日、WOWOWにて、プロモーション活動を追ったドキュメンタリー『我らサムエル共和国・前編〜be there〜』放送。
4月26日、ファーストビデオ『Musician Life』リリース。
4月28日~7月19日、全国ツアー『ギターマン○2000 〜三者面談ツアー〜』追加公演含む20ヶ所20公演。
7月1日、有線大賞上半期中間発表で“ウソツキ”が第7位を記録する。
7月22日、WOWOW『我らサムエル共和国・後編〜ギターマン○2000 〜三者面談ツアー〜』放送。
11月8日、10thシングル“磁石”リリース。テレビ東京系『少女日記』主題歌。
12月1~7日、四大都市ツアー『トリプルプレイ〜大反省会〜』4ヶ所4公演。
2001年2月9日、11thシングル“びいだま”リリース。テレビ東京系『少女日記』主題歌。
3月7日、3rdアルバム『光の糸』リリース。オリコン31位。
6月29日、著書『本音』を出版。
5月12日~7月14日、全国ツアー「光の糸〜怒りの人〜」19ヶ所19公演、会場ごとに3パターンで構成。
10月24日、デビュー5周年記念ライヴ「祝5周年☆縮我疲労パーティー」を柏市民文化会館で敢行。
2002年2月6日、12thシングル“夏のラジオ”を発売。全薬工業「ジキニン」CMソング。
2月27日、4thアルバム『Y』リリース。オリコン42位。
3月23日~5月18日、全国ツアー『“Y”〜技Y転じて服とナス〜』19ヶ所26公演。原点回帰をテーマに、小規模のライブハウスに絞ったツアーを敢行。
4月以降、FM YOKOHAMAにてレギュラーラジオ番組『Step On Something』スタート(2003年9月まで)。
6月12~15日、東名阪ホールツアー『“Y”〜ボクラYク〜』3大都市3公演。
9月26日、13thシングル“国道16”を発売。日本テレビ系『モグモグGOMBO』EDテーマ。本作のリリースを機に、「都市部だけでない、郊外でのライブ」に焦点を当てた独自の活動スタイルとして「サブ・アーバンミュージック」を提唱。
11月4日以降、サブ・アーバンライヴ・ツアー『裸足のGUITARMAN』スタート。
12月31日、初のカウントダウンイベントを大阪WTCで敢行。3500人を動員。
2003年2月5日、14thシングル“少年”を発売。日本テレビ系『カップリングLOVE』EDテーマ。シークレットトラックとして、サブ・アーバンライブ会場の楽屋で収録された“少年”を収録。
3月12日、バンド初のベスト・アルバム『TICKET』をリリース。オリコン55位。5ヶ所でフリー・ライヴ「青春往復切符」を開催。
5月14日、5thアルバム『風見鶏』リリース。オリコン40位。
5月17日、毎年恒例の渋谷公会堂公演『帰ってきたGUITARMAN』を敢行。
5月21日、サッカーキリンチャレンジカップ「ニュージーランド vs 日本代表戦」にて国歌斉唱。
8月27日、ベストDVD『TICKET THE MOVIE』リリース。これまでに発表したシングル14曲のミュージックビデオを収録。
10月以降、NRNにてラジオ番組『Something ELseのラジオアミューズメントパーク』スタート(2004年3月まで)。
10月2日、「Dream Power ジョン・レノン スーパーライブ」に出演。
10月16日、15thシングル“1M”リリース。
12月8日、大久保のソロ・プロジェクトが発表。ストリートライヴ「夜宴楽」スタート。
12月23日、AIR-Gの企画で、札幌ドームで単独イベントを行う。
12月31日、カウントダウンライヴ「2003→2004未が申」を横浜ランドマークホールにて催行。
2004年1月28日、大久保のソロ・シングル“想”(SOU)をリリース。カップリングは村下孝蔵のカヴァー“初恋”(作詞・曲:村下孝蔵)。
3月24日、ソロ・アルバム『響』(HIBIKI)を東芝EMIからリリース。
4月24日、女子サッカー、オリンピックアジア予選「北朝鮮代表 vs 日本代表戦」にて国歌斉唱。
7月28日、初のカヴァー・シングル“あの頃のまま”を発売。これがバンドとしては最後のシングル・リリースとなった。
8月25日、オリジナル2曲を含むカヴァー曲を中心とした6thアルバム『夏唄』をリリース。オリコン90位。
8月23・28日、大阪・東京にて「日本の夏、ギターマンの夏」を催行。
9月29日、ドキュメントDVD『夏華』リリース。ただしメンバーが望む形での発表ではなかった為、ディスコグラフィーには掲載しない。
10月には所属事務所、レコード会社からの独立を発表。
12月31日、カウントダウン・ライヴ「2004→2005申酉合戦」千葉京成ホテルミラマーレで最高。
2005年1月1日、新体制スタート。新事務所「パラレルワールド」を設立し独立(後に法人化、「有限会社アクアヴィット」所属となる)。
6月1日、ファンクラブ・ライヴ会場限定ミニ・アルバム『バンドワゴン』リリース。未発表曲であった“続・風と行きたかった”を収録。
7月11~15日、東名阪ツアー「1996年にデビューしたSomething ELse大久保伸隆・伊藤大介・今井千尋の三人がお送りする2005夏の音楽祭』3ヶ所3公演。
11月28日、初のレコ発ワンマン・ライヴを新宿ロフトで開催。
11月30日、オリジナルとしては2年半振りとなる7thアルバム『COLOR』をリリース。オリコン84位。
12月31日、カウントダウン・ライヴ「2005→2006酉が戌」ラフォーレミュージアム六本木で敢行。
2006年3月4日、shibuya eggmanの25周年を記念したワンマン・ライヴに参加。
8月1日、オフィシャルサイト上でバンド解散を発表。解散についてはファンクラブ会報では自筆によるメッセージが掲載されたものの、詳細な経緯は明らかにされないまま、最後のツアー日程が発表された。
10月5~22日、「FINAL TOUR『LAST LIVE』を敢行。
10月22日、デビュー10周年を翌日に控えた最終日、長年彼らを支えてくれたファンや関係者が多数集い、全25曲、3時間半に及ぶステージをもってSomething Elseは約12年間の活動に幕を降ろした。
2007年3月20日、大久保は自身の公式ホームページ上において、ソロ・ユニット「Sunnyglider#」(サニーグライダー)として新たに音楽活動を行うことを発表。
2008年2月9日、Sunnyglider#として初となるシングル“あの日にずっと/グライダー”をライヴ会場で先行発売。一時は歌をやめることを考えるまでに思い悩んでいたが、身近な仲間からの応援の声が音楽活動を続ける後押しになったと付属のDVDにて発言。
2月16日、ソロ・シングルの通信販売が開始された。なお、現在は購入不可。
5月、ソロ・ユニット名を「Sunny-G」に改称することを発表、読みは以前と同様「サニーグライダー」。
2009年1月1日、所属事務所をDIGITAL STREETに移籍し、本名の「大久保伸隆」名義で再始動することを発表。
2月20日、ソロ活動を開始して以降継続していたワンマン・ライヴと同名のタイトルを付けたフル・アルバム『Flight Night Party』をリリース。
11月11日、自身のブログで結婚したことを報告した。相手は一般女性で、非公表。
2011年12月9日、2ndソロ・アルバム『Flight Night Party 2』をリリース。
2013年7月27日、流通が限られていた1stと2ndに加え、新曲のみで構成した3rdアルバムをまとめたボックス・セット『progress』をオフィシャルサイトにて先行発売。15年ぶりにリアレンジ、大久保歌唱によるセルフ・カヴァーの“ラストチャンス”を収録した。
9月18日、全国のHMV店舗で『progress』を一般販売開始。その後、ネットショッピングなどでも全国展開された。
2014年10・11月、視聴者からの後押しで『みんなのうた』の再放送を行う NHKの番組『みんなのうたリクエスト』で、1998年2・3月に放送されたサムエルの“反省のうた”が再放送された。2017年5月時点においても不定期で放送されている。
2016年9月24日、サムエル解散後、ソロ活動を続ける大久保伸隆の50回目のワンマン・ライヴ、さらには自らのバースデー・ライヴとキャリア20周年(Something Elseでデビュー後10年、ソロで10年)を兼ねたアニバーサリーイベント「Flight Night Party vol.50 & Birthday! & 20th Anniversary!」を都内で開催。サムエル時代のバンドメイトでベーシストの今井千尋がゲスト出演。 “ラストチャンス”等を披露した。
2021年5月16日、4thソロ・アルバム『Time』リリース。“未来”、“光景”、斉藤和義のカヴァー“歌うたいのバラッド”等を収録。一部楽曲で今井千尋が参加した。
(参照)
Wikipedia「大久保伸隆」「Something ELse」
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