「優しさ」とはなんなのか、「愛情」とはどういうものなのか。
この二つの言葉はよく見聞きしますが、それがなんなのかを調べると、情報があまり一貫していないことに気づきました。
話しかけるのを優しさと思う人もいれば、話しかけられるのが嫌いな人もいて、
なんでも聞いて知ることが愛情だと思う人もいれば、知らないでいることを愛情だと思う人もいます。
 
優しさや愛情とは、個人によって解釈が違う概念ということかもしれません。
つまり、優しさや愛情は「常に一方通行」ということです。
投げ銭のような、寄付のようなものです。
相手に優しくする、誰かや何かに愛情を注ぐというのは、実行した時点で自分とつながってはいないということです。
それはつまり、優しさや愛情を向けられた側が受け取るかどうか、喜ぶかどうか、感謝するかどうか、礼をするかどうかを、こちらがコントロールできないということです。
そして、寄付は強制するものではないので、優しくすることや愛情を注ぐことは、誰かに強要することでもなく、誰かが当たり前にしてくれることでもないということです。
 
優しさや愛情は、その人が持っているリソースです
誰かに優しくされたと感じたら、それはその人が自分のリソースを分けてくれたということです。
誰かに優しくしても喜ばれなかったら、それは自分の優しさの形状が相手の優しさ受容体の型に合ってなかったということです。
こういうとき、齟齬が生まれます。
 
優しくした側は「自分の感覚で優しいと思う事」を相手に分け与えたわけなので、主観的には「優しくしてる」ということになります。
しかし、優しくされた側は自分が優しさを感じる形のものをもらってないので、それを受け取ることができず、優しくされたとは感じません。
このとき、与えた側は「あの人は自分の善意を受け取らない、優しくない人だ」と感じるでしょう。
一方与えられた側は「あの人は自分の望むことをしてくれない、優しくない人だ」と感じるでしょう。
この両者の間にあるテーマは「優しさ」なのに、実態がまったく優しくありません。
 
 
与える側は「自分のリソースを割くのだから喜んで受け取って何かしらの見返りがほしい」と考えるでしょう。
与えられる側は「無償でなおかつ相手の意思で、自分の型に合ったリソースを提供してほしい」と考えるでしょう。
これが、私が認識している「一般的な優しさというモノ」です。
こうしてみると、まるで押し売りと搾取ですね。
 
でもこういう感覚になるのは当然だと思います。
我々はよく「自分を犠牲にしてでも他者に貢献するのが善」「自分を後回しにするのが優しさ」「優しい人であることが他者に求められる重要な要素」と教育及び洗脳されます。
そのうえで、優しい人であれ、といろいろな人たちから圧を受けます。
世間が主張している優しさに則った優しい人というのはつまり、奴隷です
他人に必要とされたかったら奴隷になれ、それこそが正しいのだ、と教わるのです。
しかし、優しさも愛情もそもそも自分に必要なものなので、それを他者に与えるとしたら、余ってでもいないかぎり「こっちは減るんだから対価をくれ」という気持ちになるのは自然です。
 
優しい人になるという概念がそもそも優しさを欠いています。
 
なので、もしこの価値観を持っている人が優しくして欲しいと要望した場合は「相手の意思で自分に搾取されてほしい」です。
優しい人が好きというのは「自分に都合の良い奴隷が好き」ということです。
優しくされたいという字面はいかにも憐憫を誘うものになっているのが、とても巧妙ですね。
 
 
幸せは与えるではなく「分け与える」と言うように、優しさも本来は分け与えるものなのだと思います。
例えば、3日食事をしていない人がようやくパンを手に入れたとして、それを他の飢えている人に丸ごと譲ったとしたら、それは優しい行為に見えますか?
私には見えません。
 
では、自分が飢えをしのげる分確保して、余りを他の飢えている人に分け与えたらどうでしょうか。
私はそれは優しい行為に見えます。
もしこれが「自分を優先した卑しい行為」に見えた人は、優しさというものの解釈を「自己犠牲による奉仕」とはき違えています。
 
 
思うに、優しい人というのは「必要最低限満たされていて、多くを望んでいない人」ではないでしょうか。
先ほどは食べ物を例にしましたが、情やコミュニケーションも生きるために必要なリソースです。
愛情で満たされていない人から愛情を得ようとする行為は、搾取です
本来その人に必要なリソースを奪うわけですから。
 
とはいえ最低限満たされている人すら現代ではSSRな存在だと思うので、みんな本当は自分が必要なものを相手に与えて生きてます。
問題は、それが優しさという言葉で無償のように解釈されてることだと思います。
 
優しくするという行為は、優しくする側が何も減らないというわけではありません
優しくされたい側は「何かが欲しい」わけですから、その「何か」を相手は与えているわけです。
与えれば減ります。
それが与える側の人にとって「本当は自分が渇望するほど欲しいもの」なのか「十分あるから譲っても構わないもの」なのかによって、与える側の失うリソースのレベルが変わるわけです。
 
しかし世の中は「他者に優しくするのは当然」という価値観が蔓延しています。
誰もが無限の無償の愛を持っていて、関係性に「家族」「恋人」「パートナー」という肩書がつけば、相手にそれを与えるのが当然、と思っているような感じがします。
 
無限のものなど私が知覚する世界には存在しませんし、無償の愛も私が知る限りでは存在しません。
 
満たされている人同士であれば与え合いになるものが、満たされていない人同士であれば奪い合いになります。
相手に求めて得られないものは、相手も持っていないことが多いのです。
私はずっと「母親は子供を愛しているのだから私を愛してくれないのはおかしい」と思っていましたが、母親は「私が愛情だと思うもの」をもっていませんでした。
母なりの愛し方はあったのだと思うのですが、私は「親が子を愛するとはこうである!」という型を頑なに変えなかったので、ずっと「自分は愛されてない、愛してくれない親が悪い、私は悪くない」というところで地団太を踏んでいました。
 
相手がもっていないのに、相手は持っているハズだと決めつけて、関係性を理由に無償で無限に寄越せと要求してわけです。
それでいて相手が自分にくれていたものを「形が違う、こんなのは愛情とは言わない」として、受け取っていながらゴミ扱いしてました。
 
ここ最近になって、自分が「これまで他者から受け取ったことしか、他者に与えられない」ことに気づきました。
自分が優しさとして与えているものが、相手にとって優しさではないのに、自分は自分が優しいと認識できるものしか与えられない、ということに気づいたのです。
相手が望む形のものを私はもっていないのだ、と。
そのとき私は「あぁ、親も私が望む形のものはもってなかったのか、親ももらってなかったんだ」と理解しました。
納得できたかというと微妙ですが、理解はできました。
 
 
優しくするには優しくされる必要があります。
優しくされるには、優しさを受け取る器が必要です。
優しさを受け取る器は、形を決めていたらほぼ受け取れません。
 
優しさとは、主観でしかないのです
 
何を優しさとして与えるかも主観ですし、何を優しさとして受け取るかも主観です。
優しさの定義は、自分が決めているんです。
自分が決めているということは、好きなように変えれるということです。
優しさの形を限定すると受け取る優しさも限定され、自分が優しさを持っていないので他者に分け与えられるほどの優しさがありません。
 
であれば、優しくされたい人は「優しさの定義を広げること」が重要なのではないかと思いました。
これはつまり、他者へ期待しているハードルを下げる、ということです。
ちょっとのことでも喜べるようになるということです。
それは、ある意味では志を低くする、意識を低くする、といったことでもあるでしょう。
こういったことは昨今ではネガティブな印象を与えますが、小さなことでも喜べる人の方がたくさんの嬉しいことと出会えるのは事実です。
自分の求めるものが頂上にしかない、という場合でなければ、高みを目指すことにあまりメリットはありません。
全ての人にそれが当てはまるわけではないでしょうが、少なくとも私には、高みを目指す意識は必要ありませんでした。
 
 
優しさは、その定義が低ければ低いほど、広ければ広いほど、限定しないほど、得られやすいでしょう。
誰かに優しくしたいのであれば、まずは自分が誰かに優しくされるのが近道です。
自分が十分満たされれば、持ちきれない優しさは近くの人にこぼれていくでしょう。
そして優しさは誰からもらっても、何から得ても優しさです
近しい人、近しくない人、名前も知らない人、動物、物語、音、景色。
得ようと思えば優しさはあちこちにあります。
 
優しい世界というのは自分の解釈が作るものです。
何に癒されるかは自分が決めているのです。
愛情の形を決めているのは自分です
自分の思う優しい人に自分はなれますが、他人の思う優しい人にはなれません。
ですので、他人が自分の思う優しい人になることはありません。
 
優しさは分け与えるものだとして、まずは自分が優しさで満たされるように、自分に優しい選択をしていくのが、他者へ優しくすることにつながると今の私は考えています。