よく使われる言葉なのに意味がちゃんと定義できてないと感じる言葉が世界にはたくさんあると思っています。

 

『普通』『平和』『愛』『才能』

 

どれも所詮ただの言葉にすぎないのに、多くの人がこういった言葉に振り回されていると思う。

そしてそれが『普通』なんだと思う。

これらの言葉を使わないようにすると、それがなかなか難しいことに気付きます。

 

ただ、才能という言葉はなんとなく好きじゃないんです。

これ、定義しているものが本当によくわからないんですよ。

近い言葉に「素質」「適性」「得手・不得手」「得意・苦手」とかいろいろありますよね。

こっちの方は若干まだわかる気がするんですが、才能という言葉の意味があまりにも曖昧すぎてなんかモヤモヤするんですよ。

 

一般的に才能という言葉の意味するところは「なんか最初から上手くできること」だと思うんですよね。

でもこれってただ器用なだけな気がするんです。

ある意味では「器用という才能」があるんだと思いますが、不思議なことに「器用」であることはまるで才能と同じような言葉の扱いされてるんですよね。

そして子供のころなんかに「才能がある」と言われた人って、それで大成することは滅多にない気がします。

だとしたら「才能がある=大成しない」という逆にネガティブな意味としてとらえるのが正解なのでは? と思ったんです。

 

 

何か物事に取り組むとき、早熟タイプと晩成タイプにわかれるよなーと私は思っていて、私はどちらかといえば晩成タイプです。

取り組むもので最初から上手くできたものはたぶん無いです。

手先も不器用で、細かい作業は嫌いじゃないけど得意じゃない。

好きなことも大体最初は上手くできない。

ただ、なかなか飽きない性質らしく、好きだとやり続けるのでなんとなくそこそこできるようになる、というものが多いです。

凝り性とか、よく飽きないねとか親によく言われてましたが、私からすればなぜそんなにすぐ飽きるのかがわかりません。

そして世界に何かを残してる人は大抵この「凝り性の究極系」だと思うんですよね。

私はそっちも理解できません。

 

「才能がある」と言われるのは、どちらかというと「早熟」タイプだよなーと思っています。

経験からですが、才能というのは大体

・習得が早い

・最初から上手くできる

・上達が早い

これらを指していると思います。

そしてこれらは「器用で飽きっぽい人の特徴」でもあると思ってます。

なので、才能があると言われる人は大成しない、と私は考えたわけです。

 

まぁなんだかんだ器用な人は褒められやすい、評価されやすい、というのが世の常なので、手先も脳も不器用な私はいわゆる器用な人に対してあまりポジティブな感情は持っていません。

ただなぜか器用な人って周りに好かれにくい、不器用な人は周りに好かれやすい、傾向がある気がします。

これは人柄によるものなので一概には言えないのですが、少なくとも「慕われる(気に入られる)かどうかに器用さ(能力の高さ)は関係ない」というのは成立しそうな気がしています。

 

 

とか考えていたら、そもそも才能という言葉が何を意味しているのかわからなくなってきまして。

実は才能という言葉は何も意味していない、才能という言葉に意味はない、才能という要素は存在していないのでは? と思いました。

だってこの世界には「やったかやらなかったか」しかないんですよ。

だから例えば世界で活躍するミュージシャンは、音楽をやっていなかったとしてもたぶん何か別の事で活躍すると思うんですよね。

その人が「何をやったか」はおそらく関係ない。

違うモノでもきっとその人はやるんだと思います。

ただ、ものすごく自分にフィットする対象に出会えたのはラッキーだと思います。

そしてそれをやり続けられたことがスーパーラッキーだと思います。

 

が、それが絶対にハッピーかというとそうでもない気がするんですよね。

ミュージシャンも漫画家も小説家もモデルも、ありとあらゆるプロフェッショナルの苦しみと自殺の歴史は枚挙に暇がありません。

そう考えると「そこそこできてそれなりにずっと楽しめる平凡な人」が一番ハッピーなのでは、という気もします。

 

私はドラムをやってるので音楽についてはよく考えていました。

全然上手ではないですし、すごく上手になりたいとも思っていません。

やり続ければ上手くなるのでしょうが、やり続けるのは苦痛でした。

楽しくないことを続けることはできないと気づいて、楽しめるだけやることにしています。

楽しむために練習が必要なら、それは楽しいの一環と感じています。

この曲を完全にコピーしたい! このフレーズを叩けるようになりたい! リズムキープできるようになりたい! と目標を定めてそこに向かって練習するのは全然苦ではないのですが、動画をupして再生数やフォロワー数を稼ぐためにうまくなる必要がある、という目標を定めたらそれは苦でした。

他者からの評価のために何かに取り組むのは私にフィットしないやり方のようです。

それこそ、他者の評価を得るために頑張る才能が無い、ですね。

 

音楽で関わった人にもいろんなタイプがいて、すごくストイックにたくさん練習してるのに全然上達しないベーシストがいました。

音楽理論やDTMをすごく勉強しても不協和音が心地いいとのことで、作る曲が気持ち悪い音運びにしかならないボカロPがいました。

練習はただやってればいいわけじゃないんだな、ということを学びましたし、知識と技術があれば音楽づくりができるというわけでもないんだな、と知りました。

海外の有名な音楽大学を出てプロになれなかった(ならなかった?)人もいて、その人も何を目指しているのかわからないのですが、遊びではステージに立たない、と言っていて、プロでもないのにプロ意識だけあるの不思議だなと思いました。

 

そういう人達もいれば、先日ドラムで参加させてもらったセッションイベントにいた人達は、プロじゃないのにとても技術があって、そして楽しそうでした。

ドラムで参加してる方が他にもいて、このイベントの中では私が一番ヘタでした。

が、そもそもこれに参加している人たちが、上手さをまったく意識してないのが不思議で、とにかく楽しそうだったのが印象的でした。

自分がどんな音楽を好きか、どんなルーツで音楽をやってきたか、そういう話はたくさんしてもらいましたが、上手いとか下手とか評価がどうとかそういう話題は驚くほど出てこなかったんですよ。

 

 

これは、才能と関係があるのだろうか?

やり続ければ誰でも上手くなるものではなく、上手くなる人は上手い下手に興味があまりなく、評価を得ることを目的地にすると評価は得られず、音楽を楽しむ人達は何故か皆技術がある。

上手くならない、評価を得られないと悩んでいた人は「才能・センス」という言葉に苦しんでいた。

それを聞いて私は「自分が良いと思うことだけをして評価を得られないのを、才能が無いということにして自分のやり方を修正しない言い訳にしてるんだな」と思いました。

 

才能なんて、誰ももってないと思います。

上達したのは才能のおかげじゃないし、上達しないのは才能が無いせいじゃないし、評価を得られないのは才能が無いからじゃないし、評価を得ている人は才能を評価されてるわけじゃない。

才能という言葉の中身は、実は空っぽなんだと思いました。

 

大成するかどうか、評価を得られるかどうか、プロになれるかどうか、他者を超えられるかどうか、これらに関しては環境や素質なんかが影響すると思うので、誰でもできるとは言えません。
でも「楽しめるかどうか」に関しては、誰でもできると思います。
まず「やって」、「やり続けて」、「楽しいと感じられるものを探して」いけば、音楽は文字通り音を楽しむものとして存在してくれるんだなと思いました。