続き・・・
東洋医学を学ぶ際においても、最初は古典や原典と呼ばれるものから学び始め、知識として「漢方」を頭の中に叩き込む。
現代の薬系漢方では、各メーカー主催の勉強会や研究会でノウハウ漢方、テクニック漢方の講座もあるし、中医学関連の講義も豊富に用意されているので、学びやすい環境にあるだろう。(それが臨床に使えるものかどうかは別にして・・・)
ある程度、たたき台ができたら、次は実践に移ることになるが、ここからが本当にしんどい。
とにかく東洋医学は曖昧なのだ。
西洋医学的観点とは全く違う観点から「人」を見つめ、自然界に存在している草木類を使って治療している点については大変魅力的なのだが、実際に病に悩む人間を目の前にしたときに、正確無比の病因病機を構築し、弁証論治を行っていくのは至難の業になる。
正確性に欠けるのだ。(自分が未熟ということもある)
そのため、ありとあらゆる分野に手を出し、寝食を忘れて勉強に没頭し、日々ひたすら反省と考察を繰り返し、修行するしかない。
膨大な書物を読み込んで知識を詰め込み、ゴリ押ししながら「人間の機能と構造の理解」を深めるしか手段はないように思う。
たとえ薬系漢方の先人に教えを乞うたとしても、その先生の経験と知識とモノの見方からのアドバイスとなること、さらに実際に自信が悩んでいる状況や相談者の状態は文面や紙面など言葉でしか伝えることができない。
故に実態把握がなされないまま、想像だけでのアドバイスになるので、それを真に受けるととんでもないことになりうるのである。
漢方を志してから、少なくとも10年は、自分の形がおぼろげに見えるようになるまで時間はかかるだろう。
その間に膨大な量の知識と経験が積み重なっていくことになる。
そしてそれを使って、理論武装してゴリ押しで漢方相談をするのだが、年を重ね、経験が増えてくると、徐々に形が洗練され、余計なものが削ぎ落されていく。
それが空手と同様に「円または球」のようにキレイに洗練されたものとなるのである。
同じ医学系でも西洋医学になく、東洋医学にあるのは「道」だと思う。
空手道があるように、漢方には、「漢方道」という言葉がある。
自分自身は、身体操作に空手道を、心身の内部調整に漢方道に魅力を感じ、それぞれを学んでいる。
45歳を迎えるにあたって、若いころのような勢いや若さ、未熟さに頼った身体の使い方、漢方の使い方とは異なり、徐々にそれらが色々なものにぶつかりながら転がっていくことで、欠けてひび割れて、無理な修復を加えながらも、徐々に丸くなって球状を呈するようになり、円熟味が出てきているような気がしてならない。
無駄なものが削ぎ落され、より実践的になり、余計な力み、滑稽な空理空論に惑わされることなく、うまく思考出来てきているような気がする。
無論、すべてがうまくいくわけではないが、ようやく「自分らしさ」というものがおぼろげながら見えてきたと実感している。
本当の意味での「道」を極めんとして、その道を真摯に歩いていれば、不思議なもので自分から広告宣伝しなくても、自然と人が集まってくる。
もし仮に道を知らず、ただただ漢方を1つの手段としてしか捉えず、いつまでも同じところに留まっているような場合には、延々と自分の存在を喧伝し続けなければ、人が集まらず、続かず、堂々巡りの薬局経営になってしまうのかと思う次第である。