ひとつ前の当ブログで、『太陽がいっぱい』(1960 ルネ・クレマン監督)でアラン・ドロンさんが演じたトム・リプリーはラストで犯罪が発覚しますが、パトリシア・ハイスミスさんによる原作の方はバレることなく、まんまと逃げおおせるのです。

1作目の『太陽がいっぱい』(河出文庫。現在は『リプリー』のタイトル)が書かれたのは1955年。第2作の『贋作』(河出文庫)は1970年に書かれましたから、15年も経っています。ですから、当初はシリーズものにする意図はなかったのかもしれません。

文庫の解説に書いてありましたが、ハイスミスさんは「これは!と思うアイデアが生まれたときにリプリーもので書こう」と思ったそうですから、リプリーというキャラクターに愛着もあり、うまく書ける自信があったのだと思います。

第3作の『アメリカの友人』(河出文庫)は1974年に書かれましたから、ここは中4年と短いインタバルです。この『アメリカの友人』は1977年にヴィム・ヴェンダース監督(最近話題の『PERFECT DAYS』の監督でもあります)によって映画化されています。この映画版はリプリーをデニス・ホッパーさんが演じていることもあり、かなり雰囲気が違っていました。

第4作の『リプリーをまねた少年』(河出文庫)は1980年に書かれたので前作から6年です。タイトルから分かるように、リプリーと同じように殺人を犯したハイ・ティーンの少年をリプリーが匿うストーリーですが、そこにかなり「同性愛」の匂いが漂います。デビュー2作目でレズビアンの愛を描いた『キャロル』を別の筆名で書かざるをえなかったハイスミスさんは、『太陽がいっぱい』の頃は「同性愛」要素はかすかに匂わせる程度でしたが、時代が進んだということでしょう。この第4作は『太陽がいっぱい』から25年経っていますから、ある意味「大河ピカレスク」といえるでしょう。

そして、第5作『死者と踊るリプリー』(河出文庫)はストーリー的には第2作の『贋作』につながっていますが、1991年に書かれた作品です。この作品のラスト、リプリーが証拠を捨てようとしているところに警官が近づいてきます。ここがまるで映画『太陽がいっぱい』のラストシーンに似ているのです。結末は違うのですが、たぶんハイスミスさんの遊び心でわざと「有名な」映画のラストを意識して書いたのでしょう。ハイスミスさんは1995年に亡くなってしまい、結果的にシリーズ最終作になってしまったので、リプリーは永遠に捕まらず自由に生きているのです。

第4作、第5作あたりには、「ディスコ」やラモーンズといった時代に合わせた風俗や音楽も登場しますが、不思議と初期の作品と断層がないんですよね。筆力に衰えがないところがスゴイと思います。 (ジャッピー!編集長)