ひとつ前の当ブログで書いたように、「国立映画アーカイブ展示室」で行われた『没後10年 映画監督大島渚展』に、鰐淵晴子さんが大島渚監督に出した手紙の展示をかすかに期待しながら見に行きましたが、ありませんでした。

そもそも『愛と希望の街』(1959 大島渚監督)に関する資料の展示はほとんど無く、セットの図面とロケハン写真やちょっとしたコピーがあるだけでした。これは、年代が古いため残っていないということもあるでしょうが、この大島渚監督のデビュー作が不幸な扱いをされていたこともあると思います。

ひとつ前の当ブログでも触れましたが、大島渚さんが助監督仲間と出していたシナリオ集に載せていた脚本の元々のタイトルは『鳩を売る少年』でした。大島渚監督)です。当初、大島監督が脚本で書いた『鳩を売る少年』というタイトルに撮影所長が「映画は小品でも題は大きくつけるもんだ」と変更を命じます。そこで大島監督が、『怒りの街』というタイトルを出したのに、所長は「明るく楽しい松竹映画に“怒り”なんてもってのほかだ!」と言ったそうです。大島監督は最大限の妥協をして『悲しみの街』ではどうか」と提案すると、所長は「暗いなあ、上に‟愛と”をつけよう」と言い、『愛と悲しみの街』となって、納得はしないまま監督は帰宅しました。そして、翌日、撮影所に来ると、何と印刷台本は『愛と希望の街』になっていて愕然としたといいます。

結局は階級の断絶は埋められないまま終わります。ご覧になった方はお分かりだと思いますが、どこにも「希望」なんかない物語なのです。どこをどうとったら、こんなタイトルが浮かぶのか理解に苦しみます。ひとつ前の当ブログで書いたように、14歳の純真な鰐淵晴子さんが「善意によって救われるはず」と言うならまだしも、レッキとした大人である撮影所の上層部の人たちの頭の中はお花畑だったのでしょうか。

さらに、撮影所長が試写を観て「これじゃまるで傾向映画だ。これを観たら、金持ちと貧乏人は永久に和解できないごとく見えるじゃないか!」と批判します。それに対して、編集の杉原よ志さんが「だって所長、実際現実はその通りじゃないですか」と言ってくれて、それを聞いた大島さんが「胸があつくなった」というエピソードは有名ですね。 

ともかく、上層部から不評を受け、『愛と希望の街』は一番館での封切を外し、最初から下町の二番館でひっそり公開という憂き目にあいます。マスコミ向け試写のときも2人しか来なかったといいますし、大した宣伝もしていなかったのでしょう。あまり資料が残っていないことに、このデビュー作の「不遇」が表れているような気がします。(ジャッピー!編集長)