神の是認に「キリストの業」は必要か?

    パウロ神学の要となる思想に「信仰義認」説がある。パウロ書簡の数か所で論じられているが、その中のガラテア2:16‐17から、田川訳とNWTを比較して、原文ではどのように述べているのかを比較してみる。

 

16だが人間はイエス・キリストの信によるのでなければ、律法の業績からでは義とされない、ということを知って、我々もまたキリスト・イエスを信じたのである。キリストの信から義とされるためである。律法の業績からではない。律法の業績からでは、いかなる肉も義とされない17キリストにあって義とされることを求めている我々自身もまた罪人であるのなら、キリストの仕え手なのか。まさか。」(田川訳)

 

16人が義と宣せられるのは律法の業によるのではなく、ただキリスト・イエスに対する信仰を通してであることを知っているので、この私たちでさえキリスト・イエスに信仰を置き、こうして、律法の業によってではなく、キリスト・イエスに対する信仰によって義と宣していただけるようにしたのです。律法の業によっては、肉なる者は誰も義と宣せられないからです。17ではもし私たちが、キリストによって義と宣せられようと努めながら、その私たち自身がなお罪人となっているとすれば、キリストは実際には罪の奉仕者なのでしょうか。断じてそのようなことはないように!」(NWT)

 

    内容的には、どちらも同じように思われかもしれないが、いろいろと問題がある。

 

   まず、NWTが「義と宣せられる」と訳している原文のギリシャ語について。この語は、「義」の与格に「宣する」という動詞でなっているのではなく、一語でdikaiooという動詞が受身で使われている。「義とする」(make righteous)という意味であり、「宣する」「宣言する」という意味はない。

   次にあげたいのが、原文の前置詞の意味を異なる意味でNWTが訳していることである。17節の「キリストにあって」を「キリストによって」と訳しているが、ここの前置詞は、enであり、直前の16節で「律法の業による」(ex)、「キリストに対する信仰によって」(ex)などとは、異なる意味で使っているにもかかわらず、同じに訳している。

   NWTの英訳に至っては、底本であるKIが正確にen=inと訳しているにもかかわらず、by means ofと訳している。

 

   また「求めている」を「努めている」と訳している。原文は、zeteoの男性複数形分詞でKIも英訳もseekingと訳している。和訳が「努めている」としているのだが、日本語で「努めている」とすると「努力している」というイメージが先行してしまう。seekの原義である「熱心に見つめる」という意味よりも、自分の力で、努力で獲得しようとしているという趣旨になる。

   しかし、パウロは繰り返し、「律法の業績」(業)によっては、「義」とされない(宣せられない)と言っているのだから、努力によって「義」が得られるかのように訳すのは、問題である。

 

   「キリストの信」を「キリストに対する信仰」と訳していることにも、大きな問題があるのだが、文法的に複雑な問題が関係しており、ここでは取り上げない。

 

   しかし、NWTは「キリストに対する信仰」を「律法の業」(works of law)と対比して用いているのであるから、「キリストに対する信仰」には「キリストの業」(works of Christ)が必要だと考えているのだろう。JWの多くは「キリストの業」と言われて何を想像するだろうか。まず第一に上げるのが「野外宣教」であろう。イエスは宣教のために神から遣わされた、と多くのJWは信じている。

 

   NWTが「律法に業によっては、肉なる者は誰も義と宣せられないからです。」と訳しながら、17節ですぐに「わたしたちが、キリストによって(原文en=in、英訳by means of)義と宣せられようと努めながら……」と訳したのは、「キリストに対する信仰」と「キリストの業」を同一視させようとの意図があるのだろう。

 

  また「義とされる」を「義と宣せられる」としているのは、誰か他に「宣する」人、組織の必要を想定しているからであろう。「キリストにあって義とされる」であると、自分とキリストとの関係だけで「義」の関係が成立する。個人個人がキリストに受け入れられるような行動を求め続けるなら、キリストにあって義とされることとなる。

 

  しかし、「キリストによって」とすると「義」と宣せられる為には、自分とキリストだけの関係だけでは、「義」は成立せず、「宣する」第三者が必要になる。繰り返すが「よって」(NWT)「あって」(田川訳)と訳している原文の前置詞は、en=inでありbyという意味はない。

  KI=inとしているのに、英訳=by means ofとし、和訳で「よって」と訳している。「律法の業(works of law)によって誰も義と宣せられない」と「キリストによって義と宣せられる」とを対比しているのだから、律法の「業」と対比されているのは、キリストの「業」ということになる。

  つまり、「律法の業」によっては、「義と宣せられる」ことはないが、「キリストの業」(works of Christ)に努めるなら、罪人であっても「義と宣せられる」可能性が示唆されていることになる。実際には、残念ながら「義」と「罪」は相反する概念であるから、「罪」ある者が「義」と宣せられることは永久にありえないのだが……。

 

  NWTが原文のenを底本であるKIがinとしているにもかかわらず、by means of(手段によって)と訳したのは、「律法の業」(works of law)に対応する「キリストの業」(works of Christ)を前提としているからであろう。単に「キリストによって」であるなら「手段によって」(by means of)とは結びつかない。そのままin Christで十分意味が通じる。

  この原文の前置詞enを「よって」(by means of)と英訳したのは、WTの野外奉仕偏重の教理を正当化するためのものだろう。

 

   WTは信仰には業が必要であり、野外奉仕に携わっていなければ、救いも「義認」(是認)もない、と教える。しかし、パウロは律法の業による救いも「義認」もない、とはっきり述べている。救いはただ「キリストの信」(キリストに対する信仰)のみによる、と言っている。

 

   「律法の業」(works of law)によって、救いも是認も生じないのであれば、「キリストの業」(works of Christ)によっても、救いも是認も生じないのではないだろうか。

   救いや是認が「キリストの信」(キリストに対する信仰)によるのであれば、「業」と「信」(信仰)を同一視することは、パウロの「信仰義認」を否定することになるのではないだろうか。

 

   いずれにしても、パウロは、救いと是認に必要なのは「キリストの信」(キリストに対する信仰)だけであり、「キリストの業」なるものが必要であるかのように、by means of Chirist という手段が「救い」や「是認」に必要である、とは一言も述べていない。