1/9(土)の朝は、2021年最初の憧れ本読書会でした。
 
今回の“憧れ本”は夏目漱石の『門』。
 
一般に、“前期三部作”と称されている中の三作目に当たります。どんな小説なのか、新潮文庫の紹介サイトから引用しますね。
 
親友の安井を裏切り、その妻であった御米と結ばれた宗助は、その負い目から、父の遺産相続を叔父の意にまかせ、今また、叔父の死により、弟・小六の学費を打ち切られても積極的解決に乗り出すこともなく、社会の罪人として諦めのなかに暮らしている。そんな彼が、思いがけず耳にした安井の消息に心を乱し、救いを求めて禅寺の門をくぐるのだが。『三四郎』『それから』に続く三部作。
 
友人を裏切って、その妻を自分のものにする――この設定は前作『それから』と重なるところがあり、この『門』を『それから』の“それから”の物語として見る向きもあります。
 
私自身は、後年の『こころ』の原型となる要素を感じました。
 
 
"憧れ本読書会"は講座ではなく読書会なので、私はあくまでファシリテーターのポジション。私も一参加者として感想を語りつつ、皆さんのご感想を引き出していけたら、と考えております。
 
今回、話のキッカケとして、谷崎潤一郎の『門』に対する評から始めました。
 
我々もならう事なら宗助のやうな恋によつて、落ち着きのある一生を送りたいと思ふ。
 
……ということは、谷崎は、宗助(そうすけ)と御米(およね)の関係を理想として語っているわけです。
 
私はこの受け取り方がちょっと意外でしたので、「皆さんはこの一言に対し、どう思いますか~?」というところから、会をスタートしてみたわけです。
 
会の参加者さんにも、二人の夫婦関係に穏やかな幸福感を見出している方もいれば、”肝心なところを語り合えていないすれ違いカップルである”と受け止める人もいましたね。そうした解釈には、読む人それぞれの経験や価値観が色濃く反映されているように思いました。
 
ちょうど最近読んでいた文章に、このようなことが書いてありました。
 
詩は行間を読むのだと昔から言われている。詩に書かれている言葉は、誰が読んでも同じ言葉、ひとつの情報でしかない。しかし、韻を踏んで連なる行と行の間に横たわるものは、誰にとっても同じということはけっしてない。
百人が読めば百通りの行間がある。詩を読む楽しみ、幸福はまさにそれ。自分だけの解釈があるから、誰が読んでも同じはずの言葉に固有の感動を持ち、終生忘れられないような自分だけの一編を見つけられるのである。
 
(大林宣彦「父の失恋 娘の結婚 べそっかきの幸福そうな顔」)
 
一方で、自分の経験や感性により、作品の読みを狭めている可能性もあるわけで、そういう意味では、読書会でいろいろな方のご意見をうかがえると、作品の味わいが広がって楽しいですね。
 
では、私の感想はどうだったか、読書メーターに記録したものを貼り付けておきますね。
 
“親友を裏切って結ばれた”という劇的な事件を過去に持っているとは思われない、穏やかで静かな、噛み合っているのかいないのかも定かでない夫婦の日々が、やや淡々と描かれる。時間と暮らしを積み重ね、痛切な恋愛の最中に“この人しかいない”と思うのとは別の形で、二人が溶け合った一つのものとなって“この人しかいない”と思う感覚(新潮、233頁)は、谷崎潤一郎が「我々もならう事なら宗助のやうな恋によつて、落ち着きのある一生を送りたいと思ふ」と書いた所以だろう。宗助の安井に対する罪悪感にはホモソーシャル性とナルチシズムを感じる。
 
次回は、2ヶ月後、3/13(土)の朝10時〜です。夏目漱石の『彼岸過迄』を読みます。ここから”後期三部作”を読み始めるわけですね。

この回単発の申し込みも大歓迎。前期三部作のものに参加していなくても全然問題ありません。
 
興味のある方は以下の申し込みサイトからどうぞ。先に申し込みをしておくと、「〆切効果」で読み通せる確率が上がるのではないかと思っております(笑)
 
 
3月『彼岸過迄』の申し込みはこちら。
 
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