2017年1月14日(土)に実施された、平成29年度入学者向けの大学入試センター試験「国語」の漢文『白石先生遺文』について、本文の現代語訳(全訳、現代日本語訳)を作成いたしました。(古文はこちら)
取り急ぎ作ったため、不確かなところもございますが、受験生あるいはセンター試験同日模試などを受験した生徒さんにとって、少しでも内容の概要把握にお役立ていただけたら幸いです。
お気づきの点はコメントなどでご指導いただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。
【本文書き出し】
聴雷霆於百里之外(雷霆を百里の外に聴けば……)
【現代語訳】
雷鳴を百里離れたところで聞くと、盆を叩いて音を出しているように聞こえ、揚子江や黄河を千里離れたところで見ると、着物の帯をまとうように見えるのは、その離れている距離が大きいからである。だから、千年後の未来にいて、何かを千年の昔に求めるに当たって、あまりに隔たっていることが甚だしいがためにその物に変化が生じていることを知らないと、まるで(剣を落としたときに)舟に印を刻んで、(舟は動いているのにそれを考えず)その目印で剣を探し求めるようなものである。いま探している場所は、以前に剣を失くした場所とは違うのに、舟に付けた印はここにあるからといってそこが失くした場所であると思っている。何と迷走しているではないか。
今、そもそも江戸は世間の言うところの名都・大都市で、高位高官の人の集まるところで、水陸の交通の要所で、本当に天下の大都会である。しかし、その地名である語(=江戸)を、昔において探し求めても、その語を聞かない。なんと、昔と今との隔たりといったら、日々広がり、事物の変化もまたその間にあるではないか。思うに、現在と未来の関係についても、世の中は隔たり、どんどん遠いものとなっていき、事物の変化もますます多く、(未来になってから、現在のことに関して)知りたいと思うことを追求しても得られないというのは、ちょうど、過去と現在の関係のようである(=現在では、過去のことに関して、知りたいと思っても得られないことがある)。
私はひそかに、このことに関し、感慨深く思うことがある。『遺聞』という本は、このために作ったのである。