長崎街道木屋瀬宿記念館 みちの郷土史料館(その2)~福岡県北九州市八幡西区の博物館 | 九州下町おやじの珍道中

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20215月1日の木屋瀬宿・直方・桂川散策の続き。

 

長崎街道木屋瀬宿記念館みちの郷土史料館」の続き。

 

 

問屋場跡(野口家)と、長崎街道木屋瀬宿記念館 みちの郷土史料館(その1)のレポ

 

 

 

 

 

続いて、「木屋瀬の宝物」。

 

 

 

 

糸車など、昔の道具類もいろいろ展示してあって…

 

 

 

 

足踏みの杵と石臼。

 

 

 

 

こちらは「台唐臼」というのですね。米屋などでお米の精米に使われていたものが農家にも広まり、籾ずり等にも用いられたそうです。

 

 

 

 

筵編み機。

 

 

 

 

古文書もありました。

 

 

 

 

こちらも古文書。

 

 

 

 

酒樽もあって…

 

 

 

 

「地動説」を紹介した長崎通詞

出島では、オランダ語だけではなく、ポルトガル語、ドイツ語、スウェーデン語、英語など様々な言葉が飛び交っていて、通訳である長崎通詞は世襲制で40家以上もありました。

中でも名門と呼ばれた本木家の良永阿蘭陀大通詞と呼ばれ、ラテン語・フランス語・オランダ語を駆使して、天文・地理・物産などを広範囲に研究していました。

 

 

 

弟子に大槻玄沢志筑忠雄がおり、「天地二球用法」を翻訳し、日本に「地動説」を紹介。

「惑星」「恒星」は良永の造語で、息子の正栄は最初の英語辞書「諳厄利亜国語和解(アンゲリアこくごわげ)」を編纂しています。

 

 

 

幕末の熱血女流歌人 野村望東尼

野村望東尼は、弘化2年(1845)ともに歌人大隈言道に師事した2人目の夫・野村貞貫と人里離れた平尾山荘(福岡市)に移り住み、54歳で夫を亡くして仏門に入り、その後、勤皇の志に燃え、平野国臣月形洗蔵中村円太らの密議の場として、「蛤御門の変」後、京都を追われた高杉晋作に隠れ家として、山荘を提供しました。

 

 

 

三条実美ら五卿が大宰府に移されると、いち早く目通りを願い出て歌を貰ったりしています。

福岡藩の佐幕派から睨まれ、慶応元年(1865)捕えられ、限界の孤島・姫島(糸島市)に流されましたが、翌年、高杉晋作の手配により救い出されて長州に移り、その生涯を閉じました。

 

 

おお!ここで、野村望東尼に出会えるとは♪

平尾山荘は、当ブログで何度も取り上げていますよん。

 

 

 

 

姫島に行って来ましたよ~♪

 

 

 

 

 

河童の秘傳薬 木屋瀬に伝わる民話

 

 

 

ちょっと読みづらいですかね…こちらに、分かり易く書かれています。

 

 

 

 

 

重要視された筑前六宿街道

福岡藩内の街道・宿場は6筋27宿を数え、明和元年(1761)幕府によって福岡藩領内の宿駅毎に人馬賃銭の値上げが認可されました。中でも筑前六宿街道は、五街道につぐ脇街道の首位である中国路相当であったことが知られています。

 

 

 

筑前六宿のうち、原田宿はレポしていまして、山家宿内野宿は速報レポをしています。

 

 

 

 

 

 

携帯用硯石や秤、水呑などや、食器類も提示されていて…

 

 

 

 

古文書。

 

 

 

 

流石は、宿場町、いろいろ古い書物が残っていますね♪

 

 

 

 

瓦に、陶器類…

 

 

 

 

発掘調査かわら版

地下3mの深さから採取した木杭の放射性炭素による分析によって、御茶屋(本陣)は参勤交代が制度化されたばかりの寛永12年(1635)頃に、遠賀川の岸辺を埋め立てた場所に建てられていたことが分かり、「木屋瀬宿図絵馬」で御茶屋と推定されていた屋敷から、北側の御茶屋と南側の町茶屋の境界を示す練塀基礎が出土し、所在不明だった町茶屋「薩摩屋」の存在が判明しました。

 

 

 

また。発掘現場から「布掘基礎」と呼ばれる溝状の遺構が現れましたが、これは瓦葺の重厚な建物の基礎と推定され、御茶屋の中心地と考えられています。

 

 

 

戦時中の展示コーナー。

 

 

 

 

石炭と木屋瀬」 木屋瀬は石炭輸送で賑わった町なんですね。

 

 

 

 

芝居小屋のコーナー。

 

 

 

 

おお!鬼瓦がいっぱい並んでる♪♪♪

 

 

 

 

昔の商店の看板やポスターなども♪

 

 

 

 

いや渋か~♪左の3つ並んでいる帳面は、魚類台帳・魚類仕切帳とあります♪

 

 

 

 

黒田家の城 -近世城郭と二十四騎-」ということで、お城の模型がいろいろ展示してありましたので、じっくりと見学。

 

 

まずは、「若松城」の模型。

若戸大橋の下、洞海湾の入口付近の中程にかつて小島があって、そこに「若松城」があったそうで、現在は、その小島は跡形もないんですが…

 

 

 

 

若松城」の由緒書き。「海没した筑前六端城の一つ」。

別名「中島城」。陸地から少し離れた小島「中島」にあった城で、室町時代からあったと言われていて、洞海湾の入口をふさぐ位置にあり、戦国時代の永正年間にも城があり、竹内内部という人物がいたらしいですが、詳しくは分かっていません。

 

 

 

永禄6年(1569)毛利方の小田備前守が中島に館を構えて、大友方の田原親宏の軍勢と合戦。

慶長6年(1601)黒田長政が改築・整備し、若松城が筑前六端城となり、城主に三宅若狭家義を13,600石を与えて任命。三宅家義は、黒田二十四騎の一人で、船手頭(船手衆の筆頭)で、福岡藩の水軍を統括していました。

元和元年(1615)一国一城令で、若松城は破却されました。

昭和14年から洞海湾改修工事が始まり、船舶の運航に邪魔な中島は削られ、昭和15年12月にヶ完全に消滅。最後はダイナマイトで吹き飛ばれたそうです。x

 

 

若松城があった中ノ島がかつてあった場所は、こんな所です…面影は全くないです…涙。

 

 

 

 

 

若松城を記した元禄12年の古地図と、かつての写真も掲示してありました。

 

 

 

 

黒田藩の筑前六端城

福岡に入封した黒田長政が国境を守るために設けた6つの出城。若松城黒崎城鷹取城益富城松尾城麻底良城(まてらじょう)の6つ城を指します。

 

 

 

黒崎城は、かなり前ですが、アップしていますが、他は…(^^;

 

黒崎城のレポ

 

 

 

 

 

その3」に続く。

 

 

 

 

長崎街道木屋瀬宿記念館 みちの郷土史料館

福岡県北九州市八幡西区木屋瀬3-16-26

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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