2020年9月21日の福岡県大川市・佐賀市諸富町・川副町・福岡県柳川市の歴史散策の続き。
「三潴銀行記念館」を見学し、筑後川沿いに歩いた後は、「筑後川昇開橋」に向かいました。
三潴銀行記念館・筑後川・筑後川昇開橋のレポ
筑後川の堤防に戻り、「筑後川昇開橋」を眺めて…
由緒書き「導流堤が支えた筑後川若津港近代化遺産案内」
左上の写真は、「若津~東京線就航式の様子[明治30年(1897年)]」。東京までの船が就航したんですね!
右上には、「深川造船所船舶」「深川造船所鉄道車両」。
この近くに、造船所があって、船だけでなく、福岡市内の路面電車も製造したのか~
下には、三潴軌道と国鉄若津駅・国鉄佐賀線、旧三潴銀行本店の記載があります。
右下には、この辺りの地図があって、「筑後川昇開橋」から下流、「深川造船所跡」や有明海等の位置が示してありました。
その中にある「デ・レイケ導流堤」って、一体、何?
「筑後川昇開橋」をアップで…美しい形だこと♪
「筑後川昇開橋」を渡る前に、大川市側をもう少し散策してみましょう。
橋の袂は、公園になっていて、「えつ伝承碑」があります。
台座には、由緒書きのプレートがあって…。
筑後川に、初夏に、「えつ」が産卵の為、群をなして遡上して来ます。
「えつ」は、日本では、筑後川下流と有明海にのみ生息しているカタクチイワシ科の魚です。
「えつ」には伝説があります。
遠い昔、一人の行脚僧がここから筑後川を渡ろうとして、船賃もなく困っていました。
それを見かねた若い船頭が小舟を漕いで対岸まで渡してあげた処、その僧は、お礼として「もし暮らしにお困りの時はこの魚をお取り下さい。」と言って蘆の葉を取って川の中に投げ入れた処、その葉は一匹の魚になって、夕陽に銀鱗を輝かせて水底深く消えました。
その後、この魚は次第に増え、若者の船頭はこれを捕えて平和な一生を終えました。
この魚が「えつ」で、行脚僧は弘法大師であったと言います。
「筑後川昇開橋」に近づいて…真下から見る鉄橋♪いいですね~♪
高架をくぐると、何やら、石を積み上げた土塁のようなものが見えて来ます。
この石積みは「筑後川デ・レイケ導流堤」。土木学会の選奨土木遺産です。
明治23年(1890)石黒五十二技師らよって造られた土木構造物で、実物は筑後川の中にあり、干潮時にその姿を見せています。
デ・レイケ導流堤は、明治維新以降に船舶が大型化するに伴い、筑後川の若津港にも大型船が入港できるようにすることを目的とし、筑後川の流れを制御し自然の力で川底に溜まる土砂を有明海に流して、航路を確保する為に設けられました。
デ・レイケ導流堤は、筑後川の河口から早津江川の分派点近くまでの約6.5kmに渡って築かれていて、筑後川の近代河川計画を検討したオランダ人技師ヨハネス・デ・レイケの名を当てて、通称「デ・レイケ導流堤」と呼ばれていますが、正式には「若津港導流堤」です。
基礎部には、オランダ人技術者らが持ち込んだ粗朶沈床(そだちんしょう)の技術が使われています。
粗朶沈床とは、軟弱地盤の低地が広がる阿蘭陀で用いられていた技術で、雑木の枝を束ねて一定の大きさ(高1m×幅3m×長8m以上)に組み上げ、工事現場まで曳航して沈める工法です。
その上に、長崎県諫早市の小長井地域から船で運んだ石をアーチ状に積み上げていきました。
オランダと日本の技術を融合してできた導流堤なのですね!
先程の由緒書きの地図に出ていた「デ・レイケ導流堤」は、こんな形をしていて、約6.5kmも続いているとは!
「デ・レイケ導流堤」に近づいて…
先程の由緒書きに出ていた粗朶沈床とは、こんな形のものなんですね。
裏側に回ってみて…
デ・レイケ導流堤を一回り。明治時代に造られた堤が、今も残っているというのは、スゴいことだな~♪
先程の「えつ伝承碑」の近くには、大川テラッツァという大川市観光・インテリア情報ステーションがあります。写真は裏側なのですが、観光情報だけでなくカフェコーナーもあって、休憩することもできるんですよね。
「大川市観光案内図」。大川市は、作曲家古賀政男の出身地なんですね。
公園の植込みの中に、歌碑を発見。
こちらは「若山牧水歌碑」。「大川に われは来にけり おほかはの 流るるごとく 酒わかる里に」
大正13年3月、若山牧水は大川市を訪問し、この歌を含む5首を詠んだのですね。
その近くにも、また歌碑が!
こちらも、若山牧水歌碑のようです。その由緒書き。
これらの歌碑や「えつ伝承碑」、「デ・レイケ導流堤模型」がある場所は、「筑後川昇開橋展望公園」。
国鉄佐賀線は、昭和10年(1935)鹿児島本線瀬高駅と長崎本線佐賀駅を結ぶ鉄道(総延長24km)として、「筑後川昇開橋」を含む前線が開通しました。
佐賀線の開通以前は、大川・柳川地区から佐賀・長崎方面へ行く場合は、鳥栖・久留米を経由するほかなく、まさに「陸の孤島」。
鉄道開通以後、佐賀市までの通勤通学や筑後平野の米の輸送も速くなり、木材の輸送も筏から鉄道になり、各地の木材も送り込まれ、家具建具の生産が増え、町の発展に大きく貢献しました。
昭和30年(1955)大川橋が開通し、乗用車の普及やバス路線の充実により、年々利用者が減り、貨物も陸運輸送の発達に伴って、取扱量が減少したため、第二次廃止対象路線に指定され、昭和62年(1987)廃線となりました。
「筑後川昇開橋展望公園」の隣には、閉館となった「大川昇開橋温泉」の建物が残っていて…
「大川昇開橋温泉」の向かいには、古そうな建屋が!港町だった名残のようです。
「大川昇開橋温泉」の先には、空き地が続いていて…この辺りは、「深川造船所」の跡地になるようです。
この辺りを散策すると、おお!昔ながらの建物が見えて来て…
これは立派な御宅ですね~スゴい!
こちらにも…かつての繁栄ぶりを見て取れます。
「筑後川昇開橋(旧国鉄佐賀線筑後川橋梁)」を眺め、「筑後川昇開橋展望公園」にある「えつ伝承碑」「デ・レイケ導流堤」「若山牧水歌碑」を見学した後は、「旧国鉄佐賀線筑後若津駅跡」に向かいました。
その様子は、また後日。
筑後川昇開橋(旧国鉄佐賀線筑後川橋梁)
大川テラッツァ(大川市観光・インテリア情報ステーション)
福岡県大川市大字向島2525-2
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