武藤資頼・資能の墓と、僧正玄昉の墓と、観世音寺と、戒壇院と ~福岡県太宰府市の墓石・史跡・寺院 | 九州下町おやじの珍道中

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2019年1月5日の二日市・太宰府歴史散策の続き。

 

 

大宰府政庁跡の北側の「大伴旅人歌碑」を見学して、「日菅寺」をお参りし、「安ノ浦池」を見学した後は、「武藤資頼・武藤資能の墓」に向かいました。

 

 

大伴旅人歌碑・日菅寺・安ノ浦池のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12588124865.html

 

 

 

安ノ浦池」から更に奥に進むと、「武藤資頼・資能の墓」の案内板が見えて来ます。

 

 

 

矢印の指す方向に進みます。完全な山道だ…(^^;

 

 

 

暫く歩くと、左手に、広い空間が見えて来て…。

 

 

 

由緒書き「武藤資頼・資能供養塔」。

武藤資頼(すけより)は、建久年間(1190年代)に鎌倉幕府から守護職として九州に派遣された関東御家人です。幕府の機関である「宰府守護所」を太宰府に置き、資頼以降の歴代の武藤氏が大宰府の官職であった少弐(しょうに)を兼ねたことから「少弐」を名乗るようになりました。

 

 

資頼は、博多の「承天寺」を建立したことでも知られ、安養院殿と号し、安貞2年(1228)8月25日で没し、法名は覚仏とされています。

向かって左端の石塔が武藤資頼の墓と言われ、高さ75.5cmの凝灰岩製の五輪塔で、笠部の火輪とその下の水輪は一体のもので、台座の地輪を含めて各四方に円窓の中に蓮華座に座る仏が刻まれ、水輪は角を欠いた切子型を成す希少なもので、鎌倉時代中期頃の作と考えられ、福岡県の有形文化財に指定されています。

 

 

武藤資能(すけよし)は、資頼の子で、蒙古の外圧が迫る時期の少弐氏の当主で、文永11年(1273)と弘安4年(1281)の蒙古襲来に際して、息子武藤経資を助けて参戦し、合戦の傷がもとで84歳で没しました。法名は覚恵。「横岳崇福寺」や太宰府の「安養寺」を建立しました。

資頼の供養塔の右隣にある宝篋印塔が資能の供養塔とされていて、明治時代までは「横岳崇福寺跡」にあり、塔には漢文と正平二十二花十二月□日 大宰少貮藤原朝臣と刻まれていたという記録がありますが、今では風化して判読できません。

 

 

 

少弐資能顕彰碑の由来」という由緒書きもありました。

武藤(少弐)資能は、建久8年(1197)太宰府に生まれ、安貞2年(1228)32歳で武藤資頼の跡を継ぎ、弘安4年(1281)に死するまで、九州における武人の棟梁として活躍した人物です。

 

 

朝廷からは、大宰少弐と豊前守の官職に、鎌倉幕府からは鎮西奉行と筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐の五ヶ国の守護職に任ぜられました。

元寇の際、国土防衛上最も責任の重い立場でありましたが、文永の役・弘安の役を

通じ、日本軍の総大将として獅子奮迅の活躍をなし、国家の柱石として讃えられました。

大正4年には、この功績に対し、従三位の位を追贈されています。

 

 

 

左側から、墓石に近づいて…。

 

こちらは、武藤資頼の墓石。五輪塔ですが、上部の空輪、その下の風輪がなくなっているようです…。由緒書きの通り、火輪・水輪・地輪のそれぞれに、蓮華座に座る仏が刻まれ、角が欠けているのが、興味深い♪

 

 

左脇にある丸い石碑には「安養院殿覚仏大禅定門」と刻まれ、武藤資頼の墓であることを示す石碑のようです。

 

 

 

その右隣が、武藤資能の墓。歴史を感じる宝篋印塔です♪

 

 

 

そのまた右隣には、五輪塔を刻んだ石碑があって…。

 

 

 

その裏面には、「大宰少弐武藤経資供養塔」とあります。武藤資能の子武藤経資の供養塔なのか~

 

 

 

そのまた右側にも、武藤少弐経資の供養塔がありました。

 

 

 

そのまた右横には、「少弐資能顕彰之碑」と刻まれた石碑があって…。こちらが先程の由緒書きにあった武藤資能の供養塔になるんですね。

 

 

 

武藤資頼・資能の墓」の全景を…

 

 

 

武藤資頼・武藤資能の墓」をお参りした後は、山道を先と進み、舗装された路地に出ますので、そのまま道なりに歩きます。

 

 

途中、「庚申天」と刻まれた庚申塔を発見。

 

 

 

一つ目の丁字路を左折して、「観世音寺」を目指して歩きます。すると、建物の礎石群が見えて来て…。この場所は「観世音寺」のすぐ真裏になります。

 

 

 

礎石群が見える四つ角を右折すると、右側に案内板があるんですよね。

 

 

 

この案内板は、「僧正玄昉の墓」。玄昉は、奈良時代の僧で、阿倍仲麻呂吉備真備らとともに遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ、紫袈裟を許されました。

 

 

帰国後、奈良の宮廷で権力をふるいましたが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。

政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられています。

 

 

 

由緒書きの横には、石塀で囲われた石碑があって…。

 

 

 

入口脇にある「玄昉僧正之墳墓」と刻まれた石碑。

 

 

 

僧正玄昉の墓」に近づいて…。墓石には、宝篋印塔が刻まれているようです。

 

 

 

その後ろには「大乗妙典…」と刻まれた石碑があります。

 

 

 

僧正玄昉の墓」のお参りを終えた後は、すぐ横にある「観世音寺」をお参り。

本堂。見事です!

 

 

 

本堂に向かって左手には、金堂があって…。

 

 

観世音寺」は、大好きなお寺の一つで、よく訪問していまして、以前もレポしいるんですよね。詳しくは、そちらをどうぞ。

 

 

観世音寺の以前のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483452744.html

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483429198.html

 

 

 

観世音寺」の境内にも、「庚申尊天」と刻まれた庚申塔がありました。

 

 

 

そして、その隣の「戒壇院」にも…

 

 

 

戒壇院」の本堂。

 

 

下町おやじが大好きな寺院の一つ。何度もお参りしていますよ。

 

 

戒壇院の以前のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483452918.html

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483429222.html

 

 

本堂の中の様子。ご本尊の「盧舎那仏」。平安時代の作で国の重要文化財に指定されています。

 

 

 

境内にある石塔。

 

 

 

この石塔は「五重塔」。戒壇院再建に尽くした博多の豪商天王寺屋浦了無の供養塔で、貞享2年(1685)の銘があります。

 

 

塔身初層にくり穴があり、仏舎利一粒、小版本大乗妙典10巻、国回札、3つの紙包(文書)が納置されていました。

 

 

 

その横には、五輪塔と、宝篋印塔があって…。

 

 

 

右は「鑑真和上の供養塔」で、屋根型に「開山大唐国」とあり、左は「変形宝篋印塔」で、天明7年(1787)の銘があります。

 

 

 

武藤資頼・武藤資能の墓」「僧正玄昉の墓」「観世音寺」「戒壇院」とお参りした後は、「日吉神社」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

武藤資頼・資能の墓

福岡県太宰府市観世音寺4-16-20付近

https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/d-map/kaisetu26.html(九州国立博物館HP)

 

 

僧正玄昉の墓

福岡県太宰府市観世音寺5-9-33付近

https://www.dazaifu.org/map/tanbo/tourismmap/genbou.html(太宰府観光協会HP)

 

 

観世音寺

福岡県太宰府市観世音寺5-6-1

https://www.dazaifu.org/map/tanbo/tourismmap/4.html(太宰府観光協会HP)

 

 

戒壇院

福岡県太宰府市観世音寺5-7-10

https://www.dazaifu.org/map/tanbo/tourismmap/5.html(太宰府観光協会HP)

 

 

 

 

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