~携挙(神に選ばれし者たち)~

携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、
未来の主イエス・キリスト再臨において
起こると信じられていることである。
 
まず
神のすべての聖徒の霊が、
復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、
最初のよみがえりを経験し、主と会う。
 
次に
地上にあるすべての真のクリスチャン
空中で主と会い、不死の体を与えられ、
体のよみがえりを経験する。
 
PS
 
聖書のメッセージ「まずキリストにある死者が」
(テサロニケ人への手紙第一4章13~18節)
広瀬薫・牧師 
 
Iテサロニケ 4:13
眠った人々のことについては、
兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
なたがたが他の望みのない人々のように
悲しみに沈むことのないためです。

Iテサロニケ 4:14
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、
神はまたそのように、
イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに
連れて来られるはずです。

Iテサロニケ 4:15
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、
主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、
死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

Iテサロニケ 4:16
主は、号令と、御使いのかしらの声と、
神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

Iテサロニケ 4:17
次に、生き残っている私たちが、
たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、
空中で主と会うのです。
このようにして、
私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

Iテサロニケ 4:18
こういうわけですから、
このことばをもって互いに慰め合いなさい。
 
 
子どもを出産する時も苦痛が伴います。
にもかかわらず、
子どもの誕生は
皆から待ち望まれていることです。
 
それとまったく同様に、
 
神様の御国が
世の終わりの時に
ねじりこむようにして
この世の中に到来するのは、
多くのものを
滅茶苦茶に引き裂くような
激しい苦痛を伴う出来事
です。
 
しかし
私たちはそこに、
言葉では表せないほどの
喜びと希望を見出します。
 
このようにして
キリスト信仰者は
主の再臨を待ち望むことを学びます。
 

 
 「人類の宿命」に逆らうことは誰一人不可能
   ⇒我々は「その覚悟の時」に際し、
      常に備えなければならない。
 
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2017-05-22 (2).png 

 

 

『レフトビハインド』( Left Behind )とは、
ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズの共同著作によるアメリカの小説。
およびその続編からなるシリーズ。1995年に最初の小説が発売された。
公式サイトによれば
全米で6,500万部を売り上げたベストセラーである。
アメリカ本国では映画化、ゲーム化もなされている。
日本語訳はいのちのことば社から刊行されている。
 
時は近未来、最後の審判が迫り
「ヨハネの黙示録」の預言が実現していく世界を描く。

「患難前携挙説」の立場をとっており、
「携挙」によって
心深い人々や幼い子供が姿を消す
ところから物語が始まる。
 
PS
 
患難前携挙説(かんなんまえけいきょせつ)は
キリスト教終末論の説。
聖書は終末に患難時代が起こると預言している。
(マタイ24章、マルコ13章)
この説によると、教会は患難時代の直前に、携挙される。
こうして、患難時代には教会がこの地上に不在である。
空中に携挙されるのは、
教会を終末の患難時代から救い出すためである。
ディスペンセーション主義はこの立場を取る。
他には、患難中携挙説患難後携挙説がある。
 
携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、
未来の主イエス・キリスト再臨において
起こると信じられていることである。
まず神のすべての聖徒の霊が、
復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、
最初のよみがえりを経験し、主と会う。
次に地上にあるすべての真のクリスチャン
空中で主と会い、不死の体を与えられ、
体のよみがえりを経験する。
 
 
ジャンボジェットの機長をつとめるレイフォード・スティールは、
同じ機で働く美女ハティー・ダーラムのことで頭がいっぱいだった。
彼には妻子がいるのだが、
妻アイリーンはここ数年キリスト教信仰に異常なほど傾倒しており、
レイフォードはそんな彼女を遠ざけていた。
自分の誕生日に離れて暮らす娘が訪れると聞いても、
家に残らずにハティーとのフライトを選ぶ。
そして誕生日当日。
フライト中にふとハティーの顔を見たくなった彼が操縦室を出ると、
そこにはおびえた様子のハティーがいた。
彼女は突如として機内に起こった異常を語った。
乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消失したのだ。
しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていた。
宇宙人による誘拐説など諸説が入り混じる中、
黙示録の予言が成就したのであると見抜いた人々もいた。
その一人、ブルース・バーンズは牧師であったが携挙に選ばれなかった。
しかしこの事で自らの信仰を見つめ直し、
人々にキリストを信じるよう説いていた。
一方、妻と息子を携挙で失ったレイフォードはブルースと出会い、
信仰に生きるようになる。
やがて反抗的であった娘も改心し、それ以外でも様々な人々が集い、
信仰に目覚めていった。
レイフォードらは来るべき患難時代(トリビュレーション)に備え、
クリスチャンからなる集団「トリビュレーション・フォース」を結成する。
ルーマニア政府の下院議員であったニコライ・カルパチアは、
この混乱の中で、瞬く間に地位を手にしていく。
表面的には平和主義者として振舞う彼であったが、
その仮面の下に邪悪な本性を蠢かせていた。
実権を手にしていく中で徐々に仮面を脱ぎ捨て、
独裁者への道を歩んでいくこの男。
彼こそ黙示録に予言された反キリストであった。
 
 
フィンランド語原版執筆者:
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者:
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
 
ロバに乗ってエルサレムに到着しから
死んで復活なさるまでの最後の期間に、
イエス様が何を教えてくださったか、これからまた学びましょう。
まさにこの時期が福音書の頂点なので、
私たちは今、御言葉の一語一語に注目して読み進める必要があります。
この箇所(「マルコによる福音書」13章)で
とても大きな位置を占めているのが、
「来るべき滅び」についてのイエス様の予言です。
この箇所を
「ルカによる福音書」や「マタイによる福音書」の該当箇所と
あわせて読むと、
それが「どのように世界が終わるか」に関する
全聖書を通しても稀なほど詳細な説明であることがわかります。
 
 
<幸福な都? 13章1~2節>
 
イエス様の時代のエルサレムは大都会でした。
とりわけヘロデ王がつくらせた神殿は、
貧しいパレスティナの住民たちにとっては
壮観に映ったにちがいありません。

聖地に立てられたこの立派な神殿は、
とくにユダヤ人のお祝いの時期には
皆から感嘆のまなざしを向けられました。

ところがイエス様の目には、
この幸福な都の外見がまったく失われる未来が映っていました。
それは、一切が倒壊して粉々になり跡形もなくなる、
という光景でした。

<「終わりの時」の到来 13章3~13節>
 
オリーブ山で
イエス様は「終わりの時」について詳しく語っています。
人類の歴史は常により輝かしい光に向けて着実に歩み続ける、
ということにはなりません。

それどころか、
世界はいっそう陰惨な状態の中に沈んでいくようにさえ見えます。

こうした状態に拍車をかけるのが、
あたかも自分が「正真正銘のキリスト」であるかのように振舞って
人前に登場する「偽のキリストたち」です。

多くの者は
彼らを本物だと思い込み、
間違った道にひきずりこまれていきます。
 
戦争や地震や飢饉が起こり、
キリストに属する信仰者たちは
法廷に引き出され、拷問を受けます。
 
兄弟が兄弟を死に追いやり、
父は子を死なせ、
子は両親を死に渡します。
 
怒りはますます
どす黒く渦巻いていきます。
 
そのような悲惨な状況下でも、
神様の新しい時代が始まりつつありました。

それは「産みの苦しみ」なしにはありえません。
 
産みの苦しみの只中で
キリスト御自身がキリストに属する信仰者と共にいて、
導かれます。
そして、最後まで耐え忍ぶ者は救いにあずかるのです。
 
<大いなる苦難 13章14~23節>
 
暗闇が増していく中、
大いなる苦難の時が
訪れようとしています。
 
「時のしるし」として
「荒らす憎むべきものが
いてはならないところにあらわれる」
というのです。
 
その時がきたら、
ユダヤにいる人々は
すぐさま町々から逃げ出して、
持ち物などには目もくれずに、
道もない山々に
避難しなければなりません。
 
この苦難の時は、
それが寒い冬に起こる場合には、
とりわけ厳しいものになります。
 
さらに悪いことに、
偽キリストたちと偽預言者たちが
あらわれて、
大勢の人々を「奇跡」によって惑わします。
 
キリストが選び分かち、
主の警告を銘記していた人々のみが、
こうした惑わしをまぬかれます。
 
イエス様の御言葉は
とても謎めいていますが、
それは「終わりの時」にかかわる予言では
よくあることです。
 
ヴェールに覆われた力強い言葉を
説明しようとするときには、
自制と慎みが必要とされます。
 
教会の歴史のなかでは、
聖書のこの箇所について
自分の説明の正しさに確信をもつ人々が
数え切れないほどいました。
 
しかし
歴史は証明しているように、
自分たちの生きた時代の
政治的・宗教的な潮流を
むりやり聖書に押し付けた
「解釈者たち」などを
本当なら
誰一人信じるべきではなかったのです 。
 
このことを念頭に置いて、
ここで私たちは聖書の難しい箇所について
いったい何が言えるか、
慎重に試みることにしましょう。
 
イエス様の御言葉のなかには、
まぎれもなく「世の終わり」や
「西暦70年に実際に起こったエルサレムの崩壊」に
関係している部分があります。
 
これらのふたつの予言を別々に選り分けるのは、
不可能ではないにせよ困難な作業です。

ともかくも、
エルサレムは包囲され非常な苦難の時に見舞われ、
ついには瓦解し、
石が石の上に残されることさえありませんでした。

当時すでにひどい迫害を受けていた
ユダヤ人キリスト信仰者たちが、
これを機にイスラエルの反乱計画から身を引き、
山岳地方に避難したのは、ほぼ確実です。
 
ユダヤ戦争の間には、
都市も山々も言語に絶する過酷な現実にさらされました。

これらイエス様の予言は、
少なくとも一度はすでに現実のものとなったのです。
 
「荒らす憎むべきもの」とは、
旧約聖書的な表現で、ある特定の事例をさしています。
 
紀元前160年、
シリア王アンティオコス・エピファネスは
軍隊をエルサレムに入城させました。
王の要求にしたがって、
聖なる神殿では
ギリシア人たちの最高神ゼウスに
犠牲をささげる儀式が始められました。

この異邦的な犠牲の儀式、
「荒らす憎むべきもの」が活ける神様の神殿で行われたことは、
ユダヤ人たちにすさまじい憤怒を生み出しました。
 
そして彼らは、
自分たちよりもはるかに強大な敵に立ち向かって反旗を翻し、
勝利を収めました。

アンティオコス王は
神殿での異教の儀式を取りやめることを余儀なくされ、
神殿はすみやかに清められました。
 
この出来事の詳細は
旧約聖書外典「マカバイ記」に記されています。

また「ダニエル書」も、
「荒らす憎むべきもの」について二度言及しています
(「ダニエル書」11章31節、12章11節)。

これは、
元々は聖なる神殿での儀式をひどく汚す行為をさしていました。
エルサレムが破壊されたとき、神殿も破壊されました。
ローマ人はユダヤ人がどんな民族か知っていたので、
神殿を汚した年には
ユダヤ人たちに対してとくに激しい攻勢に出ました。
 
歴史家ヨセフスによれば、
ちょうどこの頃、
自らメシアを名乗り御民に救いを約束する男が
神殿にあらわれました。

こうして、
「荒らす憎むべきもの」にかかわる「しるし」と、
偽キリストがあらわれるというキリストの予言とが
実現しました。

エルサレム滅亡の最中に神殿は汚されました。
異邦人たちが
神殿で自分たちの最高神ジュピター(つまりゼウス)を
敬うためになだれこんだのです。
 
このように、
イエス様の御言葉とイエス様の時代の後
まもなく起きた出来事との間には、
具体的な対応関係が多く見出されます。
 
しかし、
これらすでに実現した歴史上の出来事は、
「荒らす憎むべきものというイエス様の御言葉は、
もはや聖書に書いてあるとおりに繰り返されることがない」、
と言っているのでしょうか。

それを知っているのは神様だけです。
 
かつてエルサレム神殿のあった場所は、
今では
ムスリム(イスラム教徒)たちの聖なる場所、
岩のモスクになっています。

多くのユダヤ人は、
それが取り壊されて
二千年ぶりに新しい神殿が建てられることを要求しています。

しかしそれを実現しようとするのは、
全世界のムスリム全員に対して宣戦布告するようなものです。

このように、
かつてエルサレム神殿のあった区域は
世界的に見ても最悪の「爆薬庫」になっています。
 
イエス様の御言葉は、
黙示の言葉に典型的に見られるように、
説明が困難でヴェールに包まれています。
しかし、もしも預言がまとめて一挙に実現するなら、
その出来事は誰の目にも明らかになることでしょう。
 
<キリストの再臨 13章24~27節>

苦難の時を経て、
ようやく終末がやってきます。
もう後戻りはできません。
 
世界は震え、日は暗くなり、星は落ちます。
 
イエス様が
終末の大いなる裁き主として
戻って来るのです。
 
「人の子」という名前は
「ダニエル書」にでてきます
(7章13~14節)。

「人の子」は
御自分に属する人々を集めて、
決して揺るぐことのない王国を築きます。

この世の終わりに関連する
すべての騒乱は、
この喜ばしい新たな時のための
生みの苦しみなのです。

キリストが再臨し
御国が人々の只中に見えるかたちで
到来する時に、
この生みの苦しみは終わります。

その時、
完全に新しい天と新しい地が
創造されます。

<しかし、それは何時か? 13章28~32節>
 
何千年もの間、
人々は、いつキリストがふたたび戻ってこられ、
いつ世の終わりがくるのか、知ろうとしてきました。
 
ところが、
主はこの疑問に答えてはくださいません。
 
主は、
御自分の再臨がいつであるか、人間も天使も誰一人知らないし、
キリスト御自身さえも知らないこと、
それを御存知なのは御父ただおひとりだけであることを、
はっきりと告げておられます。
 
私たちのやるべきことはふたつあります。
まず、
私たちはいつも
準備ができていなければなりません。
次に、私たちは
実現していく神様の大いなる御計画につき
したがっていかなければなりません。
 
心構えとして大切なのは、
キリストの再臨を忘れて
準備を怠るような瞬間が
私たちの生活の中にあってはならない、
ということです。
 
それはちょうど、
家の主人がいつ帰宅するか知らずに待っている
門番のようなものです。

門番は
一瞬たりとも眠り込んではなりません。
たえず完全な準備ができていなければなりません。

それと同じようにして、
イエス様のこともずっと待ち続けていなければなりません。
 
なぜなら、
イエス様はいつ何時戻ってこられてもおかしくないからです。
 
「時のしるし」を追い求めていくときには、
知恵と慎重さが必要とされます。
 
「よく見える目」と神様の御言葉の理解があれば、
世の終わりに先立って起きる事象に目が向くようになります。
 
これらの「しるし」は
しばしば重苦しく希望を奪い去るようなものです。
 
しかしキリスト信仰者にとって、
それらの「しるし」は長い間待ち望まれていた
「春の訪れのしるし」なのです。
 
新しい時、神様のすばらしい御国が到来しようとしています。
 
それゆえ、
どのような苦難であろうとも
キリスト信仰者から希望を奪い取ることはできません。
 
子どもを出産する時も苦痛が伴います。
にもかかわらず、
子どもの誕生は
皆から待ち望まれていることです。
 
それとまったく同様に、
 
神様の御国が
世の終わりの時に
ねじりこむようにして
この世の中に到来するのは、
多くのものを
滅茶苦茶に引き裂くような
激しい苦痛を伴う出来事
です。
 
しかし
私たちはそこに、
言葉では表せないほどの
喜びと希望を見出します。
 
このようにして
キリスト信仰者は
主の再臨を待ち望むことを学びます。
 
30節については
すでに8章1節~9章1節の説明のときに取り扱いました。
ここでは一番大切な点を短く復習することにしましょう。
 
神様には「神様の時」というものがあります。
神様は私たちにどんなことでもなさる権威をおもちです。
全能なる神様にとっては、
御自分の計画をいちいち私たちに尋ねたりはせず
自由に変更することも、
もちろん可能なことです。
 
ですから、私たちは大いなる主の御前にひれふし、
主に栄光を帰したいと思います。