紀元前221年始皇帝は「秦王朝」を樹立する。

 

 辰韓在馬韓之東。其耆老伝世、古之亡人避秦役、来適韓国。「三国志」辰韓伝

(訳)辰韓は馬韓の東にある。其の耆老(きろう)は世々伝えて自ら言う、古の亡人が秦の役を避けて逃亡者が続出する。

 

「松野連系図」に「宇閉」がいる。

 

宇閉

漢の宣帝の時「地節二年(紀元前68年)」、遣使  「松野連系図」

 

宇閉は地節二年に漢に朝貢している。

 

紀元前75年に卑弥氏の倭城は、遼東郡になっているので朝鮮半島の南部から朝貢したと考えられる。



     卑弥氏の移動経路は、紀元前108年  漢は「衛氏朝鮮」を討つ→卑弥氏は「真番郡」に属する→紀元前75年 漢は遼東郡の領土拡大→宇閉は漢へ朝貢(大凌河下流)→紀元前50年漢は遼東郡の支配を強化→卑弥氏は朝鮮半島南部へ

 

男女近倭、亦文身。

(訳)(弁辰国の)男女は倭に近いところでは亦文身(刺青)をする。

 

韓在帯方之南。東西以海為限。南興倭接。方可四千里    「三国志」韓伝

(訳)韓は帯方郡の南に在り、東西は海を以て限りと為す。方四千里ばかり。

 

「弥生時代後期」紀元0年頃 天氏の都(須玖遺跡)が破壊され朝鮮半島東南部の「錨型鉄器」が出土している。

 

錨型鉄器

 

「卑弥氏」が「天氏」より「王権」を奪ったと見るべきである。

 

建武中元二年(57年)、倭奴国は奉貢朝賀す。倭国の極南界なり。光武賜うに印授を以てす。

 

「松野連系図(卑弥氏)」に「中元二年に漢へ和通し、印綬を賜る。倭奴国王を称す。」とある。

 

不彌国

「三国志」「倭人伝」に不彌国があり、「三国志」「韓伝」にも不彌国の記載がある。

 

「三国志」の記載では半島の「不彌国」は「戸数」だが倭国の不彌国は「家」と記されている。

 


            魏志倭人伝の韓国の不彌国


おそらく倭国の不彌国は半島の不彌国の分国と考えられる。韓国の不彌国の位置には倭国があったはずである。

 

以下のことから金印を賜った伊都国は一時 不彌国に奪還されたと考えられる。その時 倭国が一時避難した場所が筑紫野市隈であるようである。

 

伊都国の鏡が全て割られ、筑紫野市隈から鏡が出土されている。

 

前漢鏡

 

隈・西小田遺跡、永岡遺跡

福岡県筑紫野市にあった隈・西小田遺跡、永岡遺跡は考古学者から「戦いに敗れたムラ」と呼ばれている。いずれも弥生時代中期前半ごろ(約2000年前)の墓地遺跡。隈・西小田からは429体、永岡からは53体の人骨が出土しているのだが、青銅器の切っ先が突き刺さっていたり、頭を割られていたり、首がなかったり、あるいは首だけだったりと、無残な“戦死者”がとにかく多いのだ。当時の北部九州は、稲作社会の進展とともに土地争い、水争いが激しさを増し、極めて不穏な社会だったらしい。