加古川城 加古川市 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

加古川城(加古川市西本町)


加古川城は鎌倉時代には播磨の守護所であった可能性が強い。平氏追討にその功を認められた糟谷(糟屋)有季は源頼朝から、印南群南条郷(河南荘・雁南荘)を与えられている(『太平記』『吾妻鏡』)。その後の糟谷氏については明らかではないが、三木合戦で重要な位置を占めている。天正五年(1577)十月、播磨へ入った羽柴秀吉は、毛利討伐の軍議をこの「糟屋の館」で開いたという(『別所長治記』)。十二代城主武則(内膳正)の時である。加古川城は館城であった事が分かる。武則の兄朝正(玄蕃助)は翌六年二月、別所長治の幕下として三木の平井山合戦に参陣し戦死した。一族が両軍に別れながら命脈を保つ手段が図られた一例である(『加須屋家系譜』)。加古川城は単に秀吉と武則を結びつけただけでなく、別所方の諸城攻撃の為の重要な兵站基地になった事は注目されてよい。その後武則は賤ヶ岳七本槍の一人として功名を挙げた。元和元年(1615)五月、子の宗孝(真雄)は大阪夏の陣で豊臣方として参陣籠城し、戦死した。同年六月十五日、加古川城は破却され、その歴史を閉じるのである(『黒田家譜』)。

(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より) 


現在は称名寺が断つ加古川城跡
遺構は何も残されてはいない…