高田城 旧朝来郡和田山町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

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高田城(朝来市和田山町高田字城ノ笠)

高田村には、阿曽沼氏が戦国期末まで法道寺城に在城していた事を物語る記録を残している。中島太郎兵衛家所蔵の文書群で、その中に元和五年から寛政十年に至る間の「御取箇」を列記した帳面があって、その末尾に次の記事が載っているのである。
「高田村は向地下居申雑賀小右衛門殿と申領主候所、二十六年以前文禄三年浅沼甚五衛門之為落城す。古城跡奥山きあり、慶長元丙申年地下古町江家作、同十弐年丁未九月に今之高田町屋敷江引取、それより十弐年過、元和五年三月御検地あり」
高田村に雑賀小右衛門という領主が在城していたが、文禄三年(1594)に浅沼甚五衛門に攻められて落城したというのである。阿曽沼氏は浅沼氏とも呼ばれていたから、この記事は信じてよいものと判断しここに取り上げた。高田村の旧地すなわち円山川右岸の高田村の地蔵堂が残っている辺りの集落跡地には、切り立った崖状の上の台地に屋敷跡の見られる所が二ヶ所ある。そこの字名はどちらも「城の笠」である。笠とは館城であった所の跡地に附せられる字名である事を岡でみてきたところであるが、高田にもその事を証する字名地がある事を知って驚いた。この二ヶ所が雑賀氏の砦であった事は間違いなかろう。ところで、文禄三年より二百五十年余も昔の貞和元年(1345)の事、高田庄の地等職かと思われる所領を拝領した人に雑賀民部六郎入道善乗なる人のいた事を高田庄の項で述べた。雑賀小右衛門の先祖というような関係を有している人なのだろうか。同姓の人が同じ高田に住している事を知って興味をそそられ、ここに特記した。
なお、雑賀氏に関する記録を残していた中島太郎兵衛家は、円山川の川漁権利を認められていた家であった事は、後に近世の章、村の暮らしの項で述べる。その範囲は養父市場村境から土田村境までの円山川水域である。堀畑・高田・宮田三ヶ村に跨がる広い範囲で、ここの川漁権が中島太郎兵衛家一軒に委ねられていたのである。恐らくこの範囲は、雑賀氏の領地範囲だったのであろう。雑賀氏との間にどのような関係があったか詳しくは分からないが、雑賀氏の中世の領主権利が中島太郎兵衛家一軒に引き継がれている、といった事を感じさせられる史実である。
(※和田山町史より)
奥山地蔵尊
西曲輪群の北東虎口
主郭の全周を取り囲む西曲輪群第二郭
西曲輪群主郭
西曲輪群南三郭
南三郭の西端の石列
東曲輪群主郭
図でば南側には曲輪は無いようだが、実際には一段の曲輪が…東曲輪群南二郭
東曲輪群北東二郭

高田城遠望
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