土田観音山城 旧朝来郡和田山町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

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土田観音山城(朝来市和田山町土田)

石禾上郷一分方の地頭職(一四町二二六分)は元弘三年(1333)には後醍醐天皇の綸旨によって巨勢家盛に与えられ、観応二年(1351)には亀別宮地頭職とともに伯耆の相見左衞門大夫入道に安堵された。亀別宮とは宮内の盈岡神社の中世時代の見城を指し、石清水八幡宮領であった。但馬国太田文には面積が「十二町六反」と記されている。
四分方(五六町二三四分)の地頭職は土田氏に与えられ、南北朝期に至って郷内の山に土田富栖城を築いて活動したことはしばしば述べた。土田上郷には藤和谷と墓垣村が属するとみた。藤和谷とは現在の和田山町藤和であり、墓垣村とは養父町畑に比定している。両村は同じ谷筋で、藤和に発した藤和川は畑集落を貫流している。この谷筋へ達するには南北に開けた石禾庄からその奥をさえぎる山並みの峠を一つ越えていく。谷底に達したところでさらに南へと藤和川を逆上っていくと藤和に、降りた地点から藤和川沿いに下がると畑に達する。墓垣村(畑)の地頭職は、但馬太田文には土田六郎時春と土田氏であるが、いつのころか、幕府奉行人の布施昌椿に与えられる。土田氏がこれに反発したのだろう、土田弾正忠が押領の挙に出ている。しかし応安七年(1374)八月十二日付の管領細川頼之施行状によって、その停止と下地を昌椿に還付することが命じられている。永和四年(1378)には布施昌椿から京都南禅寺慈聖院に寄進された(早稲田大学萩野研究室収集文書)。
布施氏はこの他にも土田郷に知行地をもっていて、延徳二年(1490)九月三日、布施梅千代丸は、「但馬国土田郷東方」を含む当知行の所領について安堵御判の下付を要請している(伺事記録)。布施氏がこの土田郷を知行するようになったのは、布施昌椿が墓垣村地頭職を拝領したのと同じころではなかったか。土田氏は延文元年(1356)に北朝勢に反乱を起こして以来衰亡に向かったものと思われる。そしてその所領は幕府奉行人布施氏に与えられたのであろう。布施氏はさらに実力で所領拡大の挙に出ていることがうかがえる。室町中期ごろの「八幡宮領但馬国八所別宮内不知行注文」に、「土田郷布施左衞門尉押領」とみえる。但馬国太田文に、土田郷内の「八幡神人免二十四町六反」がみえる。石禾下庄の亀別宮が八幡宮領一二町六反の他に、八幡宮神人たちに給されていた所領であったのだろう。布施左衞門尉はこの神人免分を押領したのであろう。
布施氏は土田郷を一円支配するようになっていたのであろう。彼らは土田氏の土田富栖城とは別に新しく城郭を築いて支配の拠点とした。『史跡竹田城跡』にはこれが「観音山城」と紹介されているが、ここでは布施氏の城として「土田布施城」と呼ぶことにした。その周りには城ノ山古墳所在地の「城ノ山城」、円山川対岸の寺谷に「寺谷城」がある。さらに南北朝期の城郭を戦国期の城郭に改築している土田富栖城の主郭部がある。この三城が土田布施城の付城とみる。
領主居館地の小字名は「土居の内」とか「垣の内」とかの名称で呼ばれる場合が多い。土田郷域内には二ヶ所に「土居の内」がある。一つは土田区内の旧街道沿い。ここは土田富栖城時代の土田氏の居館地だったのであろう。もう一ヶ所は平野区内の「土居の内」である。平野の土居の内に接して「中市場」がある。領主館地に接して市場の形成されている例は他の地区にも多い。布施氏の居館はこの土居の内に設置されていたのであろう。軍事拠点の城は土田布施城と付城の三城である。これらの城で取り囲む範囲が布施氏の領域だったのであろう。
(※和田山町史より)
北二十二郭
北二十一郭
北二十郭
北十九郭
北十八郭
北十七郭
北十六郭
北十五郭
北十四郭
北十三郭と北十四郭間の北堀切
北十三郭北東腰曲輪下段
北十三郭北東腰曲輪上段
北十三郭
下がって北十二郭
北十一郭
北十郭
北谷底曲輪
北九郭
北九郭からの北八郭東帯曲輪
北八郭
北西七郭下段
帯曲輪状の北西七郭上段
北西七郭上段北西腰曲輪
北西七郭上段から続く北西八郭
北西八郭西腰曲輪
この辺りから複雑な曲輪配置となる
北四郭西帯曲輪北西中段
北四郭西帯曲輪下段
北四郭西帯曲輪上段
北四郭西帯曲輪南西下段
戻って北六郭
北六郭からの北五郭北東帯曲輪
北五郭
北四郭
北三郭
北二郭
主郭
主郭の南東櫓台
西二郭
西三郭
西三郭南西腰曲輪
西四郭
南堀切
南三郭の北土塁
南三郭
南三郭と南四郭間の堀切
南四郭
南五郭
南六郭
南六郭と南七郭間の堀切
南七郭
南七郭と南八郭間の堀切
北側に土塁のある南八郭
南九郭
上がって南端の南十郭
戻って、南堀切から帯曲輪状に続く南東二郭
南東二郭からの東通路状帯曲輪
通路状帯曲輪を下り切った位置の南東六郭
自然地形の南東竪堀
南東三郭
南東四郭
南東五郭
南東五郭からの南東四郭北帯曲輪
方向を変え、北東五郭
北東六郭
北東六郭からの北帯曲輪
北東六郭の北東土塁
北東六郭からの東帯曲輪
北東七郭
北東八郭
北東八郭と一部繋がる北北東八郭
北北東九郭
北北東九郭からの北北東八郭北帯曲輪
北北東十郭
戻って北東九郭
北東十郭
北東十一郭
北東十一郭南東腰曲輪
東十二郭
東十三郭
東十二郭から東十三郭への登り土塁
東十三郭と東十四郭間の東堀切
東十四郭
東十五郭
東十六郭
東十七郭
東十七郭西腰曲輪
東十八郭
東十九郭
東十九郭西腰曲輪
東尾根に連なる曲輪群の北帯曲輪
北帯曲輪の北土塁
東十一郭北腰曲輪東下段
東十一郭北腰曲輪西上段
北帯曲輪の北土塁外の東北東十六郭
東北東十七郭
図に無いが、城域に三本ある北側の中央尾根に一段だけ、ぽつんと存在する曲輪

土田観音山城遠望
軌跡ログ