この城は天正二年(1574)、それまで山名氏の本城であった此隅山城に代わって、山名祐豊により築城された。その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したという。しかし僅か六年後の天正八年(1580)、天下統一を狙う織田軍によって城は陥落。城主は因幡に出奔した。その後、城は織田系の城主の管理となるが、江戸時代に入り、麓に出石城が築城され、有子山城は廃城となった。
(※現地説明文より)
現地案内図(※下が北となる)
山麓の出石城
背後より遊歩道が整備されており、そこを登る
曲輪群が連なる尾根の北に竪堀
尾根上に連なる曲輪群
尾根の北に明瞭な竪堀
その付近の尾根にも多数の曲輪が
北堀切に架かる土橋
北堀切
土塁に囲まれた虎口
さらに続く曲輪群は、主郭直下まで連なる
主郭と「千畳敷」の間の堀切
堀切を南へ抜けると、主郭との間に空堀のような溝のある帯曲輪
主郭南東の「千畳敷」
ほとんど段差は無いが、三段の曲輪から成る
千畳敷主郭~東三郭
東三郭から東へは、まるで竪堀のような通路
下った先は登り土塁となっている
そしてその東には、東堀切
戻って主郭
南側には土塁が見られる
そして西へは石垣の築かれた曲輪が並ぶ
井戸なのか、石組も
石垣から一転、土塁で囲まれた西五郭
帯曲輪を辿り南へ向かうと、見事な南西堀切
北西へ伸びる尾根上にも曲輪群が展開しており、登り土塁や、門跡?のような石塁が見られる
そして先端には、この城最大の北西堀切
主郭の北側の谷間には、土砂崩れ防止の為なのか、石垣で固められた場所が
主郭北の長大な竪堀
有子山城遠望
軌跡ログ
全ての遺構を見て回るのに5時間ちょっと、国史跡とはいえ、中心部しか整備されておらず、斜面を這い下り、岩がゴロゴロ転がる谷間を歩いたりせねば到達出来ない所も…
しかし美しい石垣、深い堀切、長大な竪堀、見事な遺構が散りばめられた山城だ
旧出石郡出石町の城