■多くの人は、愛する人と死別したとき、
「大宇宙にたった独り取り残されたように感じた」
といわれます。
この底知れぬ寂しさは、
モノやお金では解決できない問題であり、
娯楽やお酒でごまかしきれるものでもありません。
【人間の八苦のなかに、
愛別離苦(あいべつりく)、
もっとも切(せつ)なり】
という仏教の言葉があります。
人生のいろいろな苦しみの中で、愛する人との別離はもっとも切なく悲しいものです。
「大好きだったおじいちゃんも、おばあちゃんも死んでしまった」
「友人が事故で突然亡くなった」
「家族としてかわいがっていたペットが死んだ」
「父を亡くした」
「母を亡くした」
「連れ添ってきた伴侶を失った」……。
死別の哀しみは底知れず、
言葉にならない絶望に打ちひしがれ、
この胸の痛みが癒えることなどないのではないかと思えるほどです。
そして、考えることは、
「もっと優しくしてあげればよかった」
という後悔や、
「あの人の人生は何だったのだろう」
「あの人はどこへ行ってしまったのだろう」
という解くに解けない問題などではないでしょうか。
大恋愛の末、結婚した夫を、突然の事故で亡くした
20代のある女性は、毎日泣き明かしました。
まだ小さかった長男の、「僕の前では泣かないで」との一言にハッとなり、このままではいけないと思われたのですが、親戚中が集まった時、みんな夫婦そろっているのに、「一番若い自分ひとりが未亡人で、その時の寂しさ、悲しみは言い表しようがなかった」
と言われます。
■またある人は、
「大好きだった人が亡くなった後と前ではまったく世界が変わってしまった」
と、さびしくつぶやかれました。
雨の音
夕やけ
近所から聞こえる一家団欒の笑い声
線香の香り……
すべてが自分の心を締め付け、切りつけてくるように感じられた、と言われます。
【人、世間、愛欲の中にありて、
独生独死(どくしょうどくし)
独去独来(どっこどくらい)】(釈迦)
人は皆、愛し愛されたいと願いながらも、
孤独な魂を抱え、独りぼっちで生まれてきたから、
独り寂しく死んでいかねばなりません。
■死別から少し月日が経ちますと、
自分の胸に、こう問わずにはおられなくなります。
「自分もやがて死んでいく。そう思うと、
胸一面が不安と孤独に覆われ、生きる力が失われてしまう」
「自分は死ねばどうなるのだろう」
見送る側から、見送られる側になる時がくると気づいた時、人は少なからずショックを受けるもの。
ですが、『死』が自分の問題となってこそ、本当の人生が開けてくるのだと、仏教で、こう教えられています。
【無常を観ずるは 菩提心の一なり】
(むじょうをかんずるは ぼだいしんの はじめなり)
「無常」とは、常が無く、続かないこと。
中でも「無常だなぁ」としみじみ感じるのは、人の死。
我が身の無常をまじめに見つめたその時、「菩提の心」が起きる。
「菩提の心」とは、
「本当の幸福を求めようという心」。
日頃、盤石と思っていた幸せも、意外にもろいもの。
石によってヒビ入るガラスのように、思わぬ問題により、ガラスの幸福にヒビが入ります。
まして隕石のような『死』がぶつかってきたら……!!
「その時でも崩れない幸福ってあるのだろうか?」
「もし、ないのなら、何のための人生か」
「最後、すべて儚く砕け散るものを集めているだけなのか」
「この死の恐怖を何とかしたい」
「死を前にするとすべてが無意味に思える。
地に足のついた人生を私は歩んではいない」
「願わくは死んで悔いなき人生を歩みたい」
このように、
『死』を通して人生観、幸福観は向きを変え、正しい方向へ、偉大なる一歩を、あなたは踏み出すのです。
■今から約2600年前、印度で活躍されたお釈迦さまは、
生後一週間で母親のマーヤー夫人を失っています。
お釈迦さまは、無常を縁に、壊れゆく幸せではなく、老いと病と死を超えた本当の幸せを求められました。
そして、35歳で仏のさとりを開かれ、
行く先しらずの孤独で不安な魂の解決の道を明らかにされました。
それが仏教です。
国を超え時代を超え、私達も仏教によって、死が来ても崩れない、本当の安らぎを得て、一人いて喜べる、にぎやかな心を手にすることが出来ます。
その時、
「ああ……、
亡くなったあの人は、
身をもって私に無常を教えてくれ、
菩提心という最高の宝を与えてくれたのか……」
と、奥底からの感謝の念が湧き上がることでしょう。
■このように、正しく深い「無常観」「死生観」は、大切な宝です。
『白骨の御文章(はっこつのごぶんしょう)』
は、傑出した名文で、世の無常を明らかにされています。
国民的作家、司馬遼太郎氏(NHK大河ドラマ原作となった作品は7作と最も多い。2015年現在)
は、こう書いています。
「明治以前の文章家のなかで、平易達意の名文家は、筆者不明の『歎異鈔』と室町末期に本願寺を中興した蓮如上人(白骨の御文章)と
宮本武蔵(五輪之書)のほかにはみられない」(真説宮本武蔵)」
(出典)司馬遼太郎『真説宮本武蔵』講談社文庫、1983年
葬儀で一番多く唱和されるのも、この『白骨の御文章』といわれます。
「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」
という一節を、一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。
このたび『白骨の御文章』の解説を60ページの小冊子の形にまとめました。
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この小冊子を通して、「死生観」「無常観」を深め、
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