発売中の『週刊文春』の記事を読んでいてとても懐かしい名前を見つけました。
北野篤さん。
ビートたけしの長男です。

年齢を見て懐かしさのあまり胸がときめきました。
というのも、私の頭の中の篤さんは1986年当時の、小学校入学前の幼い姿でしかなかったからです。
その篤さんがいつの間にか(?)38歳にもなっていたのです。

昨年暮れくらいから、業界ではたけしの離婚が盛んにウワサされていました。

昨年3月には自らが設立した『オフィス北野』を飛び出し、“ビジネス・パートナー”だった森昌行氏とも決別しています(森さんには色々とお世話になりました)。
さらには2014年夏くらいから愛人の存在が明らかになり、たけしの周辺は一気にきな臭い状態が続いていました。

「もう2年近く父とは連絡が取れていない…」と告白する篤さん。
篤さんがマスコミの前で口を開くのはこれが初めてです。
それだけ事態は深刻なのでしょう。

「昨年から様々なトラブルが報じられ、色々な話を耳にすることに、家族としてなんというか、ちょっと格好悪いなっていうか、心配な気持ちがあります」

「今までの父なら考えられなかった問題が立て続けに起きるようになり…ひょっとして何かのトラブルに巻き込まれているのではないかと、家族のひとりとして心配していました…」

篤さんはこう、たけしの急変ぶりを心配してみせるのです。

あの“『フライデー』編集部襲撃事件”が起きたのは1986年の12月。

当時たけしは専門学校に通う女子学生と“不倫”関係にあったのですが、『フライデー』の記者がこの女子学生に少々強引な取材をしたことがトラブルの原因でした。

この女子学生から事情を聞いたたけしは、軍団のメンバー12人を連れて『フライデー』編集部に殴り込んだ!というのが事件の大まかな流れです。

当時、週刊誌の記者として駆け出しだった私が担当したのが、たけしが家族4人で暮らしていた新宿区大久保2丁目の自宅(当時)周りの取材でした。

取材のイメージとしては、“幹子夫人からコメントを取ること!”、さらには“駆け付けているであろうたけしの親族等から事件の感想を聞くこと!”というのが、私の取材のゴール設定でした。

大久保2丁目のたけしの自宅周りは細い路地が多く、必然的に立ちんぼの取材になりました(通常だと車からの張り込み)。

早朝から深夜まで、真冬の大久保で、とにかく幹子夫人が出てくるのを待ち続けました。

当たり前ですがその間、白いチャリンコに乗ったお巡りさんが何度となく注意をしに近づいてきました。
「近所の住民から何とかしてくれ!って電話が来ているんですョ…」
若い警察官は苦々しい表情で懇願します。

それでも私は、立っている場所を少しづつ変えるだけで、たけしの家の前から決して離れませんでした。

張り込みは数日間続きました。

たけしの自宅からは“生活臭”が完全に消えていました。
夜も家に灯りが点くことは1度もありませんでした。

ところが取材を始めて数日後、玄関が突如として開いたのです!

続きは4月29日(月)のブログまで、お楽しみに!