Sun 240519 「書き写せ」の天声人語が心配だ/大覚寺・大澤池/今井解は次回に 4529回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 240519 「書き写せ」の天声人語が心配だ/大覚寺・大澤池/今井解は次回に 4529回

 ワタクシは今、朝日新聞「天声人語」が心配だ。5月18日、「つばさの党」事件に激しく立腹なさったのは当然だが、天下の良識と正論を煮詰めたあの天声人語なのに、思わずワタクシが「下品すぎないか?」と驚くような言葉を遣っている。「みそもくそも一緒」と言ふ、マコトに感情的なフレーズである。

 

 平仮名で書けば「みそもくそもいっしょ」、多少インパクトは弱まるが、同じことを漢字で書けば「味噌も糞も一緒」、これはさすがに、高い知性と品性を誇る新聞の第一面を飾るコラムにふさわしくないんじゃないか。

 

 だって新聞というのは、朝食のテーブルで大きく広げて読むものだ。ご飯と目玉焼きと味噌汁を前にパパが新聞を広げ、そこに「くそ」という名詞を発見、「みそもくそも一緒」のフレーズを発見、パパは思わず口の中の味噌汁を噴き出さなかっただろうか。

 

 何年前だったろう、民主党だったか民進党だったか、すでに「立憲」に改名していたか、昭和の歌謡曲が大好きな「エダノさん」という人が、国会論戦中に怒り心頭に発し、同じ「味噌も糞も一緒」という言葉をご使用になって、メディアの批判を受けたことがあったはずだ。

(4月4日、大覚寺・大澤池の桜。遠景の山の桜も美しかった 1)

 

 ついでに、同じ日の天声人語の中で「ちゃんちゃらおかしい」という感情むきだしの形容詞も登場している。お腹立ちの様子が手に取るように分かるけれども、「ちゃんちゃらおかしい」「味噌も糞も一緒」というマコトに感情的な言葉を連発しておいて、何と朝日新聞では「天声人語を毎日書き写しましょう」とオススメになっている。

 

 ワタクシはこの「天声人語 書き写しノート」という出版物がとにかく大キライ。「他人が書いた意見を無批判&無条件に書き写す」という行動は、決して論理的思考力の養成に資することはない。すでにこのブログでも、2回繰り返して書いてきた。

 

 もちろん朝日新聞のお偉方が今井ブログなんか読んでいらっしゃるはずもないが、その「無批判に書き写しましょう」の手本である天声人語の中に、「みそもくそも一緒」の一言があったのである。

 

 ということは、おそらく昨日、いや今日かもしれない、素直に「書き写し」を習慣にしている朝日新聞ファン、小学生や中高生や高齢者の皆様が、今この瞬間にも、何千人もの人々が一斉に「みそもくそも一緒」「ちゃんちゃらおかしい」と、律儀な文字をマス目に書き込んでいるのである。

(4月4日、大覚寺・大澤池の桜。遠景の山の桜も美しかった 2)

 

 学校の国語科や社会科の先生には、昔から天声人語ファンが多い。国語の授業や「特別活動」「ホームルーム」「朝自習」「探求学習」あたりで、天声人語書き写しを取り入れている先生もいらっしゃるだろう。

 

 すると、今週の何かの授業の中で、30人か40人のクラス全員そろって「みそもくそも一緒」という恐るべき日本語フレーズを、きれいなノートに書き込むことになる。

 

 中学受験や高校受験の塾なんかでも、「書き写し」やら「要約の練習」の教材として使用している国語講師は少なくないだろう。大学生が通う「マスコミ予備校」みたいなシューカツ塾で、天声人語そっくりのコラムを書かせる授業もあるはずだ。

 

 いやそれどころか、確か朝日新聞社が主催して、高校生対象の「私たちの天声人語コンクール」みたいなのをやっているじゃないか。「みそもくそも一緒」のような表現を、その若々しい「私たち」がバンバン使用したら、果たして高く評価されるんだろうか。

(4月4日、大覚寺・大澤池の桜。遠景の山の桜も美しかった 3)

 

 ワタクシは心配なのだ。今度の下劣な選挙妨害事件に対する強烈な怒りは当然として、その怒りを高い品性につつみこんで表現するのが、正しい知性というものではないのか。

 

 やっぱり「書き写しノート」、おヤメになったほうがいい。「私の書いたことを、無条件に無批判に、とにかく書き写しなさい」などという傲慢なことは、過去のどんな文豪も言わなかった。漱石も鴎外も西鶴も、ダンテもニーチェもゲーテも、決してそんな傲慢な提案はしなかった。

 

 今井君ってのは、たかが予備校講師のくせに傲慢の最たるヤツであるが、このワタクシでさえ「無条件で書き写せ」なんてことは言ったことがない。もちろんこんな長いブログじゃ全文を書き写すのは困難だが、「板書を書き写せ」ってのも遠慮している。

 

 かつて繁栄していた「代々木ゼミナール」という予備校には、授業中に「板書を書き写す時間」を与えるセンセもいたが、あらら、すでにそのお姿はない。「無条件に書き写せ」の傲慢は、いろんな不祥事につながりやすいのだ。

 

(4月4日、大覚寺・大澤池の桜。遠景の山の桜も美しかった 4)

 

 だって「書き写せ」は、宗教♡教祖のオコトバである。「写経」の世界である。釈迦やマホメットほどの世界の大聖人なら、それを言ってもかまわない。最澄や空海、法然や親鸞や日蓮や蓮如なら、まだ受け入れてもいい。しかし民主主義の良識と正論を代表するはずの新聞のコラムが、それを言ってはオシマイだ。

 

 そういう傲慢が「他者の発言は聞くな」というそれこそ「ちゃんちゃらおかしい」傲慢と繋がっているんじゃないか。この新聞って、宗教なの? ○教新聞というのが存在するけれども、もし「書き写せ」とまでいうなら、この新聞もまた「教新聞」に改名しなきゃいけないように思うのだ。

 

 今井が国語のセンセなら、「書き写した上で、200字以内のコメントを加えなさい」「200字程度の反対意見を書きなさい」という授業にする。

 

 ワタクシの提案だが、今すぐ「書き写しノート」に、約200字の「私の反対意見」の欄を付け加えたらどうだろう。それとも、提案がキライな新聞社? 反論は決して許さない? 一般読者は、いいから黙って書き写してろ? それって「良識ある民主主義」なの?

 

「必要なのは最低限の『良識』である」と、5月18日の天声人語は最後の1行を結んだ。その天声人語に「必要なのは最低限の『品性』である」「必要なのは最低限の『謙虚さ』である」と、付け加えるべきだとワタクシは愚考する。

 

 あえて擁護するなら、「つばさ事件」自体があまりに下劣で品性に欠けるから、その下品さを言葉遣いでマネすることによって、というかその人々の下品なクチマネをしてみせることによって、筆者は批判を際立たせようとお思いになったのかもしれない。もしそういうことなら、「さすが」と言わざるを得ないが、果たしてそうだったのだろうか。

 (今井君小3からの愛読コラム・朝日新聞「天声人語」2024・5・18。最終盤に「みそもくそも一緒」、中盤の「ちゃんちゃらおかしい」という感情的な形容詞にも驚いた)

 

 というか諸君、こんなに何度も「みそ」「くそ」と書いてしまったことに、ワタクシはいま後悔を感じている。我がMac君が「ほほお、今井はそういう名詞やフレーズがお好きなんだな」と誤解したらどうしよう。

 

 ただでさえ「JALが心配だ」と2回書いただけで、ワタクシのPC画面は「JAL」と「JAL PAK」と「JAL CARD」の広告で埋め尽くされてしまった。

 

 Yahoo!ニュースをひらけば、画面に2つも「JAL PAK」の広告が並んで、「タイムセール」「国内旅行券 宿泊がセット」「5月20日(月)まで!!」と、この旅慣れた今井君に、ごてごてパック旅行の広告を突きつける。「広告停止」をいろいろ試しても、ちっとも止まらない。

 

 いやはや、この世は恐ろしい。京都や大阪のことばかり書いていたら、どうしたわけか京都と大阪のマンションの広告が画面に増えてくる。シティポップの話を書いた翌日には、うーん、どうもその種の広告がじわじわ増えてきたような気がする。

(4月4日、大覚寺・大澤池の桜。遠景の山の桜も美しかった 5)

 

 だから、こうしてブログなんかで使用する名詞にも、大いに気を配らなきゃいけない。「味噌」という名詞を今日1日だけで20回近く打ち込んでしまったから、下手をすると「コイツは味噌が好き」「コイツは発酵食品に興味がある」と、どこかで優秀なAIちゃんがキリッと目を光らせていないとも限らない。

 

 すると諸君、もちろんそんなことはないだろうが、哀れな今井君のPC画面は「味噌だらけ」「豆腐だらけ」「お醤油だらけ」、それならまだいいが「納豆だらけ」なんてことになりかねない。

 

 いや、味噌ではなく、今日繰り返してほぼ同数打ち込んでしまったもう一方のほうの名詞、あのオゾましい名詞の方を優秀なAIちゃんが学習して、そのお目目が「キラーン!!」、それは絶対に困るじゃないか。

 (大覚寺・大澤池「名古曽の滝」、大河ドラマにも登場した藤原公任の和歌がある。「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ残りて なほ聞こえけれ」。赤染衛門は「あせにける 今だにかかる滝つ瀬の 早くぞ人の見るべかりける」。おお、係結び連発だ)

 

 まあそんな状況で、JALの広告洪水に途方に暮れ、さらにしょんぼりYahoo!ニュースをポチポチやっていたら、「進撃のグルメ」の記事を発見した。何しろ今井は「かつや」「吉野家」「なか卯」の大ファンだ。「進撃のグルメ」はいつも面白く読んでいる。

 

 ところが今回は「進撃のグルメ」としてはマコトに珍しく、ちょっとだけ批判色を前面に出している。普段はどんな店のどんな料理でも、ほぼ間違いなく肯定的に暖かく優しく書いていらっしゃるが、「CoCo壱の『肉塊カレー』を注文してみた」という今回は、ちょっとトーンが違っていた。

 

「ぬるい肉塊が、残念」とおっしゃるのである。肉塊とはトンテキのことなのだが、その肉塊の大きさもその場で選べて便利、こりゃ今回もベタ褒めなさるのかと思ったところ、もう1度繰り返すが「ぬるい肉塊が残念」、このライターさんがこの言葉を遣うとすれば、敏感な今井君はすぐに「そりゃ相当ぬるかったんだな」と分かってしまう。

(4月4日、大覚寺・大澤池の桜。遠景の山の桜も美しかった 6)

 

「肉がハムっぽい」とも書いていらっしゃる。おお、「ハムっぽい肉」と言われると、ワタクシは8年前の12月にシドニーの店で購入した「ハムっぽい肉」のことを思い出して爆笑するのだ。

 

 シドニーの港から電車で15分ほど、船でも15分ちょい、「ダブルベイ」という高級住宅地にある巨大スーパーで購入した。マコトにハムっぽい肉だった。

 

 あの時は、シドニーに2週間滞在。同じスーパーで買うチキンの丸焼きが滅多やたらに気に入って、毎日&毎日チキンの丸焼き、別のスーパーで手に入れたプラスチックのナイフとフォークで、連日チキンをさばいては、缶ビール6本を痛飲した。

 

 そういう日々、確かクリスマス近くの夕暮れだったが、さすが「ほぼクリスマス」、いつものチキンがズラリと並んでいる場所の脇に、熱々に調理された何かの肉を発見した。

 

「何かの肉」という程度のあやふやな判断でも、意地でもそいつを貪りたくなって、ほくほくホテルの部屋に持ち帰り、まだ熱々の「何かの肉」にプラスチックのフォークを突き立てた。

 

 まさにあの時である。「ハムっぽい」「ハムなんじゃないか」「しかしハムとは違う」「でもハムっぽい」。あの落胆をワタクシは忘れることができない。

 

 以上の「シドニー♡ハムっぽい肉騒動」については、よろしければ(Sun 161225 鶏丸焼き/とってもハム次郎/たっぷりハム五郎(シドニー夏のクリスマス8))をポチッと、ないしはタップしていただきたい。

 

  ついでに、面白いからその続編の(Mon 161226 松和荘のハム名人/ハム男の記憶/ボンダイビーチ(シドニー夏のクリスマス9))もどうぞ。

 

 さらについでに、「ボンダイビーチ」 に興味があったら、東大駒場キャンパスから代々木上原方面に抜けたあたり、名店「ボンダイカフェ」も訪問してみたまえ。ちょっと高いが、休日の朝食にベストだと信じる。

 

 今回の「進撃のグルメ」を書いたライターさんは、いつもすごく優しい記事を書く人だけに、「ハムっぽいぬるい肉塊」への落胆は、ハムっぽいぬるい肉塊そのものよりも、もっとずっと大きかったのだと考える。

     (4月4日、静まり返った二尊院の風景 1)

 

 ところで諸君、スーパー混雑の4月4日の京都であるが、清水寺も八坂神社もほとんど阿鼻叫喚のありさま、昨日の写真でお見せしたように、嵯峨野の竹林なんか歩行者大渋滞で前にも行けず、後退することもまた困難という状況だった。

 

 しかし前回の最後に書いた通り、桜満開のあの日でも、場所を選びさえすれば、静寂と静謐の京都を満喫できたのである。嵯峨野だって、大混雑なのは野宮神社から大河内山荘を経て常寂光寺まで。二尊院あたりは、もの静かな数組の日本人がちらほらいらっしゃるだけだった。

 

 その二尊院で30分ほど過ごした後は、住宅街から田んぼ道に出て、畑に生い茂る春の草花というか要するに雑草を眺めながら、大覚寺を目指した。大覚寺は間違いなく名刹であるが、嵯峨野から向かう畑の中の道は、ふと不安になるほどの静寂、行き合う人もほぼ皆無である。

     (4月4日、静まり返った二尊院の風景 2)

 

 ほっと一息いれて野の花を眺めていると、ワタクシの後方から追いついてきたオジーチャンが1人。驚いたことに「清滝からずっと歩いてきました」とおっしゃる。たいへんな距離を歩いていらっしゃったものだ。「この道を行けば大覚寺ですか?」と尋ねられ、せっかくだから道連れになった。

 

「86歳なんです」と言われてまたびっくり、こんなに矍鑠(かくしゃく)とした86歳男子は珍しいんじゃないか。「昨日まで奈良にいたんです」「奈良は静かでよかったですよ」「京都は人が多すぎますね」と、会話もマコトに積極的な人だった。

 

 さらにびっくりしたことに、「秋田の出身なんですよ」「秋田県の『大曲』という町です」、なんと今井君の同県人であることまで判明。さらに「高校生時代は『秋田高校』という高校に、大曲から汽車で1時間かけて通っていました」とおっしゃる。3度びっくり、なんと&なんと秋田高校の出身、今井君の大先輩でいらっしゃったのだった。

 

 大覚寺のバス停まで、この大先輩とご一緒してお別れの挨拶を交わし、後輩・今井は大澤池に向かった。大覚寺東側の大澤池、確か昨年4月にはNHKのBSで夜桜ナマ中継があったし、今年も似たような企画があったはずだが、その騒がしさに桜の皆様がヘソを曲げたのか、満開の時期を大幅に遅らせたので、企画はスカッと空振り三振に終わった。

(二尊院から大覚寺に向かう途中、嵯峨清涼寺の枝垂れ桜に感動する)

 

 そのせいか、4月4日の大澤池には、ほとんど人影がない。爽快な春の風が広い池の表を流れ、さまざまな水鳥が気ままに水面を滑り、池の周囲の桜は7分咲きから8分咲き。これほど見事な眺めはないが、観光客はほぼ皆無。老夫婦が3組か4組、無言で頷き合いながら池の周りを散策している。

 

 こんな静かな桜なら、正直に言って「帰りたくない」。池1周の散策に30分はかかるけれども、2周しても3周してもいいし、明日も明後日もまた飽きずにここを訪れたっていい。あの激コミの嵯峨野の竹林や、スーパー混雑の円山公園なんかに執着する必要は皆無なのだ。

 (4月4日、大覚寺・大澤池の桜。遠景の山の桜も美しかった 7)

 

 おやおや、また夢中になって書きまくって、すでにA4版7枚になってしまった。だから最後に諸君、(表題にも示した通り)ここでどうしても謝罪が必要だろう。

 

 前回のワタクシの記事の中で「松原みき『真夜中のドア』の詩について、次回の記事で明快な『今井解』を提示いたします」と書いたはずだ。その「今井解」を楽しみに、ここまで付き合ってくれた辛抱強い読者も少なくないだろう。

 

 しかし諸君、マコトに申し訳ないけれども、今井解の提示は「また次回に延期」いたします。我が小3以来の愛読紙♡朝日の「○教新聞」化が心配になり、「みそもくそも一緒」について長く書きすぎたので、スペースが足りなくなってしまった。

 

 いやはや、あんなにビシッと約束しておいて、実際には別の話を長々と書くなんて、無礼も失礼もいいところだが、まあそれほどワタクシは「味噌」に驚いたのだ。まあどうかどうかお許しをいただいて、次回の記事を待っていただきたい。3日も待たせることは、(おそらく)しない(と思います)。

 

 ま、またまた困った広告でいっぱいのPC画面のことを思うと、20歳の松原みきが40年前に歌った余りに美しい愛の曲について、林哲司の素晴らしいアレンジと、松原正樹の感動的なギターと、参加している全てのミュージシャンについて、今すぐここで書いてしまうのを、どうしても躊躇する。「ダマされた」とか、そんな無慈悲なことは言わないでくれたまえ。

 

1E(Cd) Sonny Clark:COOL STRUTTIN’

2E(Cd) Shelly Manne & His Friends:MY FAIR LADY

3E(Cd) Stan Getz & Joao Gilberto:GETZ/GILBERTO

4E(Cd) Keith Jarrett & Charlie Haden:JASMINE

5E(Cd) Kenny Wheeler:GNU HIGH

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