Fri 160311 桜満開 レクラム文庫 聖トマス教会とバッハ(ドイツ・クリスマス紀行13) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 160311 桜満開 レクラム文庫 聖トマス教会とバッハ(ドイツ・クリスマス紀行13)

 東京はサクラが一気に満開になって、今年の新入社員や新入生はマコトに幸せである。国公立大学は3月中旬過ぎまで入試のスッタモンダが続いていたわけだから、入学式まではまだまだ時間がかかるだろうが、2月でスカッと入試を切り上げた私立大なら、4月5日までが入学式のピークのはずだ。

「満開のサクラを仰ぎながら、私たちは初めて校門をくぐりました」。卒業生挨拶、冒頭の常套句だ。多くの場合、このコトバには錯覚が含まれていて、東京より南では入学式の段階でサクラは散ってしまっているし、東京より北の地域では、入学式の頃のサクラはまだ堅いツボミのまんまである。

 だから今年の新入生は、ホントに幸せだと思うのだ。4月に入ったばかりの入学式ラッシュの頃に、どこもかしこもサクラが満開。入社式が終わって今日から社内研修が始まったであろう新入社員諸君も、「初めての仕事は花見の場所取り」という素晴らしいスタートが切れたはずだ。

 一方で、温暖化の波にマトモにさらされたサクラ君たちは可哀そうだ。
「サクラの木の一生のピークは40年目ぐらい」
「40年が経過すれば、木はだんだん衰えていく」
「悪い菌類やキノコどんや蛾の餌食になって、枯れてしまう木も少なくない」
最近、樹医たちが盛んにテレビに出てそう警告していらっしゃる。
バッハ
(ライプツィヒ・聖トマス教会のステンドグラス。バッハの姿がある)

 確かに、千鳥ヶ淵なんかをブラブラしていると、木の幹にボコンボコンと大きなコブが目立って、「誰か、早く何とかしてあげなよ」と我々一般人の胸もうずくのである。ホントに「どげんかせんといかん」のじゃないか。

 それにしても今年のサクラは、1週間の「花冷え」をジッと我慢したあとで一斉に咲き始めたせいなのか、ピンクが濃いように感じる。ソメイヨシノというサクラは、どうも色あせたみたい物足りないのであるが、今年は「あらら、枝垂れ桜を見習いましたか?」と思うぐらい、ギュッとピンクを凝縮した色に見える。

「今年のお花見は角館で」というのが今年の予定。昨年は4月24日に青森県の弘前まで北上したけれども、北上の度が過ぎて弘前には3時間ちょいしかいられなかった。

 しかも今井クマ助流♡爆花見の場合、サクラを眺めるよりお酒を飲むほうが中心だから、弘前城の枝垂れ桜を眺めたのはわずか30分ほど。冷たい雨が降り出したのをいい口実に、立ち並んだ屋台に駆け込んで、温かいおでんやら味噌田楽やらを貪りつつ、熱燗を4合もカラッポにした。

 弘前よりもグッと南下して秋田の小京都・角館ということにすれば、滞在時間だって2~3時間は伸びるはず。花見の名に値する花見を実行するためには、あんまり遠距離の北上は避けたほうがいいようである。
聖トマス教会
(聖トマス教会。バッハが四半世紀にわたって音楽監督を務めた。今もバッハどんの銅像が立っている)

 さて、12月21日、ライプツィヒのワタクシは、「爆花見」とか「爆サクラ」ではなくて、「爆鴎外」「爆バッハ」「爆ゲーテ」に夢中だった。諸君、確かにガイドブックのライプツィヒは「見所は多くありません」「半日あれば十分です」という扱いだが、ここは「爆有名人」な街なのである。

 モトモトは、商業と金融の街。しかし1409年にライプツィヒ大学が創立すると、一気に文化と芸術の街に変貌していく。ハイデルベルグ大学創立が1386年。ライプツィヒはドイツ第2の大学町になったわけである。

 ライプニッツも、数学者メビウスもここで教えた。ゲーテ、ニーチェ、シューマン、社会学者デュルケーム、森鴎外、朝永振一郎もここで学んだ。いやはや、大学というものの威力を見せつけられる気がする。

「レクラム文庫」は、1867年にライプツィヒで出版を開始。明治維新の前年であるが、これが日本の岩波文庫のモデルになった。昔は神田神保町交差点そば「信山社」にズラリとレクラム文庫が並んでいたものだが、今はどうなんだろう。
ゲバントハウス
(音楽の都ライプツィヒの象徴・ゲヴァントハウス)

 1867年、最初に出版されたレクラム文庫は
ゲーテ「ファウスト第1部」
ゲーテ「ファウスト第2部」
シェークスピア「ロミオとジュリエット」
シェークスピア「ジュリアス・シーザー」
ハウフ「美術橋上の乞食乙女(ラウラの絵姿)」
など、10冊ほどであった。

おお、やっぱりさすがにゲーテとシェークスピアなのであるが、ワタクシはハウフというヒトの書いた「美術橋上の乞食乙女(ラウラの絵姿)」が気になってならない。読んでみたいじゃないか。

 むかしむかしの今井君は、頑張って神保町の「信山社」に出向き、何冊かのレクラム文庫を購入した。ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」や、ホフマン「黄金の壷」などである。もちろんドイツ語であるが、20歳そこそこの人間には何と言っても見栄が必要。見栄なくして進歩は考えられない。

 明治大正期には、レクラム文庫を世界で最も多く輸入していたのは日本なのである。おお、素晴らしい見栄っぱりじゃないか。森鴎外の愛読書もレクラム文庫。せっかくだからアンデルセンの「即興詩人」なんかも、レクラム文庫から日本語に訳しちゃった。
内部
(聖トマス教会、内部)

 昭和の日本の中学生必読書に、武者小路実篤「友情」というのがあった。武者小路実篤、今ではどこに消えちゃったのか、滅多にヒトの口にものぼらなくなったが、カボチャやヘチマやキュウリの絵を書きまくった武者小路先生も、やっぱりレクラム文庫の愛読者であった。

 彼は、「電車に乗らない派」。彼の時代の電車とは、山手線とか中央線とかではなくて、「市電」「都電」の類いのチンチン電車のことである。電車に乗らずにオカネを節約し、そのオカネでレクラム文庫を買って読んだ。4月の新入生諸君、彼のマネをしてこれから4年を過ごしてみないか。岩波文庫でいいんだから。

 こういうふうで、近世&近代のライプツィヒはまさに文化の都に変貌した。中でも音楽のライプツィヒ集中は激しく、この街で活躍したヒトビトには、シューマン・メンデルスゾーン・ワグナー、そしてもちろんバッハがいる。
バッハ像
(聖トマス教会のバッハどん、拡大図)

 そのバッハの活動拠点が、1212年創立の聖トマス教会。実際に訪れてみれば、さほど大きくも壮麗でもない静かな教会であるが、彼はここで28年も音楽監督を続け、トマス教会少年合唱団の指揮者を務めた。

 バッハは1685年生まれ。音楽監督をやっていたのは1723年から1750年までだから、38歳から65歳までここにいたことになる。「マタイ受難曲」を作曲したのもここ。そして65歳、ライプツィヒで死去。今もトマス教会の前で難しい顔で立っていらっしゃる。

 ま、確かにライプツィヒは「見るべきところは多くない」。ガイドブックのおっしゃる通りである。しかし諸君、見るべき所は多くなくとも、呼吸すべき空気はナンボでもある。

 300年も前のこととはいえ、四半世紀にわたってバッハが呼吸した空気の数万分の1ぐらいは、まだこの教会の片隅に、天井裏に、合唱隊席の薄闇に、残っているに違いない。

 この日も、オルガン奏者が練習を重ねていた。夜に予定されたコンサートの練習であるらしい。ワタクシが教会に入ったのが午後3時。練習に聞き惚れながら、午後5時近くまでお目目を閉じて座っていた。

 バッハが呼吸したのと同じ空気が、ホントに数万分の1でいい、こんなクマ助の肺の中に入ってきてくれたら、ちっとも時間のムダとは思わないのである。

1E(Cd) Surface:2nd WAVE
2E(Cd) Enrico Pieranunzi Trio:THE CHANT OF TIME
3E(Cd) Quincy Jones:SOUNDS … AND STUFF LIKE THAT!!
4E(Cd) Courtney Pine:BACK IN THE DAY
5E(Cd) Dieter Reich:MANIC-“ORGANIC”
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