Fri 121228 フツフツと湧き上がりグラグラと煮えたぎる 芋、煮える(ベルギー冬物語4) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 121228 フツフツと湧き上がりグラグラと煮えたぎる 芋、煮える(ベルギー冬物語4)

 諸君、助けてくれ。センター試験の翌日、いまこの瞬間に、受験生諸君に話したいことがいくらでも湧き出てきて、どうにも自分の収拾がつかない。もしいま講演会のステージに立てば、フリーハンドで5時間でも6時間でも話しつづけて、それでも話したいことの半分も話し終えられない。
 ちょうどアキレスと亀みたいなものである。話したいことを話し終えるより、話したいことが湧きだしてくる速度のほうが圧倒的に速いのだ。亀さんは、もう決してアキレスに追いつくことがないんじゃないか。こんなに煮え立ったら、サトイモが煮えちゃうじゃないか。
 つまり、今井はもう一生、夢中で話し続けなければならないんじゃないか。いま今井君が発言のチャンネルとして設定しているのは、講演会とブログだけであるから、講演会は果てしなく続き、ブログは際限なく長くなって、「長過ぎて読む気がしねえ」という短気な諸君は、「もう読むのは諦めた」と絶叫しちゃうんじゃないか。
視線1
(サトイモの視線 1)

 こんなに話したいことがブクン&ブクンと湧き上がってきたんじゃ、とても「ベルギー冬物語」どころの話じゃないのである。話したいことがブリュッセルの大雪のように降り積もり、蔵王の霧氷のように樹木の表面にまとわりついて、一晩のうちに今井君はモンスター的に巨大化してしまう。
 実際、そういう夢にうなされることもある。サトイモの巨大化→巨大サトイモの誕生。サトイモはもともと「芋の子」といって、コロコロ転がっているから可愛らしいのだ。芋の子が成長して芋オヤジになり、例の毛むくじゃらな姿のまま巨大化して、まさに世界を押しつぶそうといているアリサマは、「うなされる」以外の表現は考えられないじゃないか。
 というか、ベルギーに滞在してすでに10日が経過、10日間の今井君は、1日の例外もなく、大量のムール貝をムザボリ食っている。一昨日もムール、昨日もムール、今日も明日もおそらくムール。考えてみれば、今井君の筋肉も血液も、もう10%か20%はムール貝の蛋白質で出来ているのだ。
 ベルギーのムール貝は、日本のちょっとした牡蠣ぐらいの大きさであるが、牡蠣ほどの大きさのムールを連日ナベ1つ=約100個ずつムサボリ食ううちに、今井君はだんだんムール貝みたいになってきた。諸君、サトイモはもう古い。ムール君と呼んでくれたまえ。
視線2
(サトイモの視線 2)

 さて、そこでセンター試験終了後の受験生に向かって、ムール今井はまず大きな声で呼びかけたい。周囲のオトナのアドバイスを、素直によく聞きたまえ。決して「浪人覚悟だ!!」などと、乱暴な絶叫をしなさるな。例え5歳であろうと10歳であろうと、キミよりも年長のヒトは人生の先輩だ。彼らの意見を尊重して、決して乱暴に振り払おうとしないことだ。
 「浪人覚悟だ」「早稲田に合格しても、早稲田を蹴って浪人する」「慶応にウカっても、慶応なんか蹴っちゃえ。どうしても東大でなきゃ意味がない」の類いの発言をよく耳にするが、そりゃホントに正しいのかい?
 そもそも、数十万人の卒業生が「私の母校」「オレの母校」と心から慕い、40歳過ぎても50歳過ぎても神宮球場や国立競技場に出かけて校歌を熱唱するほど、そんなに夢中になっている大学を、「蹴る」「蹴飛ばす」などという発言は、果たしてヒトとして許されるのかい? 愛も優しさも度外視して、「○○じゃなきゃ意味がない」と絶叫するとき、そこに知性は存在するのかね?
視線3
(サトイモの視線 3)

 どうしてもゆずれない第1志望があって、「ゆずれないから浪人する」という選択は、ムール今井としても悪くないと信じる。大昔、駿台数学の長岡亮介師は、4月の第1回の講義で「ご浪人、おめでとう」と発言して大喝采を受けた。確かに、その通りである。
 しかし、ならば諸君、いちいち「早稲田を蹴って」だの「慶応を蹴って」だの、留保条件を示すのはヤメたまえ。マコトに潔さに欠けるじゃないか。ヒトを傷つけ、自らの見栄と体面を優先する否定的言辞を弄するのはヤメにして、黙って一言、「あの大学にしか、憧れの教授がいないんです」と、力強く呟いてみたまえ。
 30年も40年も昔の話としては、「早慶では、教育の質が確保できないから」という側面はあったかもしれない。かくいう今井君が受けた授業の数々の中には、「うーん、これが高額な授業料に値するものなのか」「この授業を受けているヒマがあったら、自習室なり図書館なりで読書していたほうがマシじゃないか」というのも少なくなかった。
 しかし、時代は大きく変わったのである。少子化の時代に備え、各大学が自らの存亡をかけて努力を継続し、21世紀に入るか入らないかの段階で、大学教育の品質は著しく向上。「蹴る」「蹴飛ばす」の類いの、乱暴な侮蔑的行動の対象には決してならなくなっている。
ブリュッセル南駅
(ブリュッセル、南駅)

 世の中には、侮蔑的な言葉遣いを平気でする人がいる。コトバが乱暴である段階で、少なくとも若いヒトビトにアドバイスする資格なんかないと思うのだが、その最たるものが「ぐだぐだ」「うだうだ」「ぐちゃぐちゃ」「ばっさり」という副詞、ないし形容動詞(英語的には形容詞)である。
 真実とは無限に複雑なものであって、これをクリアーカットにスッパリと要約したり、真っ二つに切断してみせたり、単刀直入に感動的にキレイに切断面を示したりすることは出来ない。スッパリと切ってみせた途端に、真実の多くの側面が、その暴力的な刃の犠牲になって息絶える。
本物
(日々サトイモが食す、ひと鍋のムール貝)

 真実は、無数のディテールで構成されるものであって、言わば無限のミルフィーユである。ミルフィーユなら算術的に真実の薄膜を積み重ねるだけだが、真実のミルフィーユは真実の薄膜の結合の仕方まで無限の可能性をもつのであって、どんなに鋭利な刃物であっても、切断面を示そうとすれば、たちまち目の前で真実は真実でなくなってしまう。真実は、かくも溶融しやすいものなのだ。
 だから、軽率な人間が「簡潔に真実を示そう」などと発言するとき、「このままでは日本は中国の属国になる」「そもそもアメリカの狙いは、日本を言いなりにすることだ」みたいな噴飯ものの発言を平気でなさる。
 何なんだこの異様な擬人化は? 「アメリカの狙いって」、「アメリカ」って誰なの? 2億以上も存在する収入も環境も千変万化の国民が、そんなにカンタンにイッショクタのMr.アメリカになって、「狙い」を1本化できるとでも言うのかい?
ムール1
(リエージュに向かう列車の中の、自分撮りムール君 1)

 「長々とウダウダ言っている」「言っていることがグチャグチャだ」などという発言も、そのウダウダやグチャグチャの中に、真実を探ろうとする熱意や愛を持ち合わせない証拠である。
 もし真実をつかみ取ろうとする熱意があれば、「なぜグチャグチャになっちゃったのか」「どうしてウダウダ言いたい環境に追い込まれたのか」に関心が向いて当たり前。その理解が糸口になって、真実を探る手掛かりがつかめるかもしれない。果ては、相手のグチャグチャぶりを解決してあげることにさえなるかもしれないじゃないか。
 「グチャグチャだ」「グダグダだ」という断言ですべてを切り捨て、切り捨てた対象の人格さえ否定してしまった気分で晴れやかに大見得を切るのは、大見得を切っている当のご本人の、知性のお粗末ぶりを大公開していることにしかならない。
ムール2
(リエージュに向かう列車の中の、自分撮りムール君 2)

 だから諸君、特に受験生諸君、センターの結果に基づいて志望校をもう1度考え直すときも、諸君はいくらグチャグチャしてもかまわないし、いくらウダウダしてもかまわない。少なくとも今だけは、長い人生の中でそれを無条件で許してもらえる瞬間だと信じていい。
 自らの心の奥底のグチャグチャやウダウダを最も混乱なく整理する方法が「キチンと文章に書く」ことだと信じるからこそ、ムール今井は昨日の記事で「文章に書いてみたまえ」と提案した。まだ文章にしていない受験生は、このブログを読み終えたら、直ちに机の前に座って、しっかりとペンを握ることだ。
ムール3
(リエージュに向かう列車の中の、自分撮りムール君 3)

 こんな塩梅で、今井君の胸の中には言いたいことのアブクがブクブク&ブクブク、湧き上がり、沸き立ち、やがて沸騰して、もはや収拾がつかない。自分がいまベルギーの大雪の中に立って、湯気の立つムール貝をすでに1000個もムサボったことさえ忘れてしまいそうである。
 しかしまあ、せっかく「ベルギー冬物語」と、普段とは違うロマンティックなタイトルもつけたことだ。さすがにそろそろ、ホントにベルギー冬物語を始めなければならない。羊頭狗肉は、世の中すべてのグチャグチャだかウダウダの中でも最も嫌われるグチャグチャだ。
 諸君、ベネルクスは、さすがの今井君も今回が初めてだ。ベルギーの「べ」、ネーデルラントの「ネ」、ルクセンブルクの「ルクス」、まとめて「ベネルクス3国」である。
 遥かな昔、今井君が中2のとき、社会科担当の増淵先生(仮名)は「ベネルックス」と「小さなッ」を入れて板書したけれども、やっぱりその「ッ」は不要で、どうしても「ベネルクス」。増淵先生は「ルネサンス」も「ルネッサンス」と板書した。小さな「ッ」に特別な愛情を持っていらっしゃったのであるね。
ムール4
(リエージュに向かう列車の中の、自分撮りムール君 4)
 
あれれ、ベルギーやネーデルラントに比較して、人口でも面積でも圧倒的に小さい国、歴史に及ぼした影響も比べ物にならないぐらい小さなルクセンブルクだけ、何故か「ルクス」で特別扱い、大きな2国は「べ」と「ネ」の1音で終わりだなんて、何だかバランスが取れないんじゃないの?
 しかしそこで「不公平」と乱暴に怒りだしてはならない。お兄ちゃんやお姉ちゃんは、小さな弟を優先してあげるもの。ボクたちはもうおっきいから「べ」や「ね」でかまわないよ、キミだけ「ルクス」にしてあげよう。そういうことである。
 「早慶上智」という呼び方にも相通ずるものがある。早稲田と慶応はもうすっかり定着しているから、「早」「慶」で十分だ。上智君、キミはあとから入ってきた新参者だけど、可愛い弟(マコトに妹的ではあるが)だから、自分だけフルネームでもいいんだよ。そういう愛すべき優しさの溢れる呼び方が「早慶上智」であり、「ベネルクス」なのである。

1E(Cd) Lucy van Dael:BACH/SONATAS FOR VIOLIN AND HARPSICHORD 1/2
2E(Cd) Lucy van Dael:BACH/SONATAS FOR VIOLIN AND HARPSICHORD 2/2
3E(Cd) Holliger:BACH/3 OBOENKONZERTE
4E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 1/4
5E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 2/4
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