「自分の名前」について、思うこと幾つかが交錯した今日。

まとまりがないけれど、備忘録として。

 

今日、昼頃にデザイナー Kate Spadeの死のニュースが入ってきた。

彼女は自身の名前を冠したブランド「Kate Spade」から離れてすでに10年以上の年月が経っていた。

 

 

ビジネスというのは、買収され大きな企業の傘下に入ることも、より大きく展開するための大事な選択だったりする。

 

しかし、ブランドおよびブランド名にまでした自分の名前が、自身に属さなくなるという事実は、リタイアしたり、別の種類の業務を展開していくのでもない限り、自分の中で何かがバラバラになりそうな気がするのは私だけではないはずだ。

 

自分の名前をブランドにつけるということは、自分の全身全霊をささげる覚悟をしていたはず。他のどんな名前でもなく、自分の名前を冠するのだから、それだけプライドもあるだろう。

 

そこから離れなくてはならない時、それは自分の半身を失うくらい辛いことであり、それと引き換えにしても然るべきだったと後から思えないのであれば、どれだけ大金が手に入ったとしても売ってはならないと思う。

 

そう、名前はおろそかにしてはいけない。自分の人生が終わるその日まで、自分の名前は自分に帰属し、他の誰かにコントロールされることない、自分自身そのものであるべきだから。

 

自分の名前が自分に属さなくなる、そういう状況を一生の間に経験する人は、そうたくさんはいないだろう。

 

しかし、私の身近で同じ経験をした人がおり、サポートをしたことがある。あるブランド(商品)に自分の名前がついたのだけれど、その名称の権利は当時所属していた会社に属しており、その人にはなかったのだ。

 

その人は、ブランドを売却したわけでもなく、名前を使わせるお金ももらっていない、その会社がその人の名前で商品を出そうよと話をし、そのこと自体は本人も納得した。そしてその名前は、その会社名義で商標登録されてしまった。

その際に細かな取り決めをしていなかったのが、取られてしまった人の落ち度だった。アーティストやクリエイターにありがちな、法的な取り決めや契約という部分に関する知識の少なさや交渉力の弱さを上手く突かれたということだ。

 

今考えると、戦えばこちらにも何らかの権利が得られたのかもしれない。しかしその当時、その人はそこまでする気持ち的なパワーさえなくなってしまっていたと思う。表面的には元気に見えたが、説明のできない喪失感と自分の名前が使えなくなるなどというおかしな状況が、世の中では起こり得るのだという事実を受け入れるだけで精一杯だったのだろう。

 

今回のKate Spadeさんの自殺の本当の原因は何であったか、それはわからない。だけど、自分の半身はもう手が及ばないところに行ってしまったことは確かであり、それはビジネスマンだったとしてもスッキリ割り切れることではないだろうし、彼女のように何かを作り生み出すクリエイティブな世界に生きていた人には、尚更だったのではないだろうか。

そして例え大金が舞い込んだとして、そのお金では埋められないだろう。時間が経つにつれ、自責の念に苛まれ、消せない闇になるのかもしれないとふと思った。

 

 

そして人の名前について。

名前はその人自身であり、生まれ持った名前は、その人が生まれた時にその人を想いつけてくれた人がいる大事なもの、長きにわたるニックネームも、自身を示す大事なアイデンティティであり意思表示だ。

 

だから、その人の名前を間違えるというのは、その人の顔を踏んづけたくらいの罪であり、最も礼を失した行為だ。これは世界共通。

 

我が夫は、以前日本で取材された際の記事が雑誌掲載された時、「マス日野」と記載されるはずが「コス日野」となっていて、大変悲しそうにしていたことがある。きっとインタビューをした記者が、メモ書きで書いたカタカナの「マ」の止め部分が横にまっすぐになっていて、後から文字起こしした際に「コ」とされてしまったのだろう。あまりに初歩的であり、杜撰だ。印刷前に原稿チェックをさせてもらえないのであれば、取材した側は責任を持って間違いのないようにするのが仕事だろう。

 

また、「コス」だなんて面白い感じに間違えられてしまったものだから、今でもそのことを言う。本人はよほどショックだったのだろう(最近では半分冗談にしているが)。

 

もちろん書く側も人間なので間違いはある。どんなに注意しても起こってしまうミスというのはあるだろう。それを責めるつもりはない。

しかし、それをやってしまったら、とにかくすぐに謝罪し、ウェブ媒体であれば早急に修正。しかし印刷媒体でそうもいかない場合は、とにかくすぐさま本人のところにすっ飛んで行き(電話やメールなど、もってのほか)、心から謝罪し、できる限りの対応を誠意を持って行う。

悪気はなかったとしても、名前を間違えるということは、それほどにとんでもないミスであることを自覚しなくてはならない。相手が笑って言っているからといって、軽く見てはいけない。言わない人ほど思っていることがあり、きちんと謝らないその人を諦めるからだ。

 

起こしてしまったことを認め、すぐに謝り、できる限りの誠意ある対応をする。危機管理と今後の信頼回復はいつも同じだ。

 

そして呼び名のこと。

私は、家族及び日本の学生時代の友人以外、NYの留学時代以降の友人・知人には「ニーナ」で通している。特に現在はNYに暮らしていること、英語で話すこともあり、統一している(英語表記でもNiena Etsuko Hino)。

それにもかかわらず、わざわざ「えつこさん」と呼んでくる人がいるのに実はとても驚く。名刺もSNSの名前表記も、頭に「Niena」と書いてあるのが見えないのだろうか?どうしてわざわざ2番目に書いてある日本名で呼びのだろう?どうして私の意志表示を無視するのだろう?とグルグルすることがある。もし、どう呼んでいいのかわからない、まだ親しくなっていない関係であれば、苗字で呼べば絶対に間違いがないのにと思うのだ。

 

日本名で呼ばれたりメールをいただいてしまった場合、「ニーナで結構ですよ」と伝えれば、大抵の方はすぐに分かってくれるので、あまり気にしないようにはしている。悪気はないのは分かっているから。しかし時々、私が伝えたことをすっかり忘れて(やめてねというニュアンスも含めて伝えているのに)またもや「日本名」で呼んでくる人がいると、「なんだろうこの人・・・」と残念になることが、私には時々あるのでした。

 

呼び名はその人を作る。呼び続けられてその人になる。

だとしたら、違うという呼び名で呼んでくる人は、悪意はなくてもその人が自分であることを阻害している人だなと思うのです。

 

だから、私の名前の記載をそのまま受け取り、確認のためだろう「ニーナさんとお呼びするのがいいのかな?」と、聞いてくださる方には感動と尊敬さえ抱くことがあるというお話でした。

 

何を言いたかったかというと、人の名前というのは、それくらい大事だということ。

 

それを書き残しておきたくて、今日は思ったことを徒然に。