上野のアトリエ
カーテンが閉めきられた、薄暗い部屋。
この世界には、俺だけしかいない。
この世界なら、俺は何だって出来る。
そう自分に言い聞かせて、彼は筆を握った。
真っ白なキャンパス。
心から溢れるインク。
指先を伝うイメージ。
色とりどりの花が咲き、枯れ、また芽吹く。朽ちる。
イメージがインクとなり、パレットで浄化され、キャンパスへ流れ込む。そんな感覚。
心を縛る鎖を、ひとつひとつ丁寧にほどいた。感情を解き放つ。筆を走らせる。
彼は思う。
俺は、自由だ。
三月。まだ肌寒いが、暖かい春まであと少し。そんな、季節の変わり目のこと。
僕は常磐ユイ。四月から大学一年生だ。
しかも大学は第一志望。奇跡のようなものだ。まだ実感は持てずにいる。
しかし、時間は待ってくれない。入学準備は忙しく、時間は飛ぶように過ぎていく。
僕は、田舎の実家からだいぶ遠い都会の大学へ通うため、部屋を借りて引っ越した。郊外のマンション。三〇六号室。
初めての一人暮らし。不安が募る。しかし、十八歳にもなって親に頼っている訳にもいかない。
料理には自信があるが、毎日続けることが出来るだろうか。
でも、食費はなるべく削りたい。
でも、しかし、だけど。なんてあれこれと考えていると、憂鬱になってきた。
持ってきた荷物の片付けをしていた手を止める。
散らかった部屋で、一番存在感があるピアノの前に立った。
マンションにピアノを持ってくるのはどうかと思ったが、どうしてもこのアップライトピアノとは離れがたかった。
ピアノは幼少の頃からずっと続けている。小学生の時に、親にねだって買ってもらってから、このピアノは僕の宝物だった。
使い込んだ鍵盤に手を置く。
ぽーん。澄んだドの音。消えるまで余韻を楽しむ。
ドレミファソラシド。右手で、左手で、何度も繰り返す。
気持ちが落ち着いてきた。憂鬱が消えていく。
「なんとかなるよな」
自分に言い聞かせるように呟いた。
部屋の片付けが終わってからゆっくり弾こうと思い、荷物整理に戻った。
持ってきた荷物はかなり多い。自分好みの配置に片付けていくのは時間がかかった。
「部屋の掃除とかは、好きなんだけどなぁ…」
ひとりごちる。つい、ひとりごとを溢してしまう。
部屋に自分一人だけ、という状況にまだ慣れることができなかった。
早くもホームシックか、情けない。
「あ、そうだ」
そういえば、隣人に挨拶していなかったことを思い出して呟いた。
この三〇六号室は角部屋。隣部屋は三〇五号室だけだ。
挨拶は早めにしよう。そう思い、僕は部屋から出た。
三〇五号室 上野ヒジリ
表札にはこう書いてあった。隣人は上野というらしい。
こんこん。軽くノック。
「ごめんください」
しかし返事はない。
もう一度ノック。今度はもう少し強く。
「ごめんくださーい!」
数秒待つと、足音の後、錠の外れる音がした。
ゆっくりとドアが開かれる。ドアを開けたのは男だった。
第一に浮かんだ言葉は、不健康。
骨と皮しかないような、細長い身体。猫背。
日に当たらない人間特有の、青白い肌。
無造作に伸びた髪は、顔をほぼ覆い隠している。
髪の隙間から切れ長の目。
濃い隈。眼光は鋭い。こちらの顔をじっと凝視している。
からころ、と音がする。彼は飴を舐めているようだった。
「初めまして、隣に引っ越してきた常磐です。これから、よろしくお願いします」
「…よろしく」
ぼそぼそ、口の中だけで喋り、彼はドアを閉めようとした。
「あ、ちょっと待ってください!」
まだ言っていないことがある。慌てて呼び止めた。
「…なにか」
不機嫌そうな上野。
「僕、ピアノをやっているんです。練習の音なるべく消音しますので、迷惑かと思いますが…」
頭を下げて、相手の反応を待つ。
「…甘美な音か、下賤な音か。どちらにしろ、俺の世界には関係ない…」
ぶつぶつと、念仏のように抑揚のない声。
僕には何を言っているのか理解できなかった。
意味を問おうとしたが、ドアを閉められてしまった。錠の下りる音。
なんだあの人は。呆然と立ち尽くす。
もう一度ノックしようとしたが、やめた。
ため息を吐く。
仕方ない、自室に戻ろう。
自室のドアを開けようとすると、階段を昇ってくる音。女性がこちらに向かってきた。マンションの大家である美田屋エリさん。三十代手前のはずだが、二十歳前半にしか見えない女性だ。
彼女は片手に、紙袋を提げていた。紙袋には、画材店の名前が書いてある。
軽く会釈すると、美田屋さんは親しげに話しかけてきた。
「常磐君。もしかして三〇五号室に行った?」
「はい、上野さんの部屋ですよね」
「あら、行ったのね。変なやつだったでしょ」
冗談なのか屈託のない笑顔で、美田屋さんは言った。
「ええ…まあ…」
曖昧に笑う。否定はできない。
そんな僕を見て、美田屋さんは軽く笑った。
「ところで、上野になにか言われた?」
美田屋さんに先ほどのことを全て話した。
「ピアノ、上野の隣だったら大丈夫よ。でも、時間は注意してね。深夜は駄目よ」
「あ、はい。ありがとうございます」
上野の隣だったら、ピアノを弾いても良い。何故だろうか。
「上野は変なやつだけど、悪いやつじゃないのよ。よろしくしてやってね。それじゃ、娘の迎えに行ってくるわ」
美田屋さんは上野の部屋のドアノブに紙袋をさげて、行ってしまった。
上野ヒジリ。謎だらけだ。こんな人の隣にこれから住むのだろうか。
ピアノで誤魔化した不安が、また膨れ上がってくるのを感じた。
夜になって、やっと部屋が片付いた。
少し狭いが自分の気に入る部屋にすることができた。
することもなくなったし、何か弾こう。
そう思い立ち、ピアノの前に椅子を移動させた。適当に楽譜を探す。
なんとなく目についた楽譜。
メンデルスゾーンの、『春の歌』。
楽譜を広げ、鍵盤に手を置く。
忘れず消音ペダルを踏む。
一呼吸。
ゆっくりと指を動かす。
初めの和音。
響いて連なる。
ピアノから溢れ出す優しい音色。
春の暖かい日差しのような、穏やかな旋律。
最後の一音まで、心を込める。
弾き終えてまた、一呼吸。
耳を澄ませるが、苦情の声はない。安心して息を吐いた。
音量に気をつけて弾くのは、かなり気を遣う。
しかし、追い出されるわけにはいかないので最大限の注意を払わなければいけない。
思い浮かんだ旋律を、片手で軽く弾いてみる。
新生活の不安と、響かないピアノの音色が相まって、部屋いっぱいに静寂が響いた。
それから一ヶ月が経って、四月下旬。
僕は無事、大学一年になった。
忙しくて、てんやわんやの毎日を送っていたが、やっと落ち着いてきた。
自分なりの生活ペースもでき、少しは余裕をもって過ごせるようになった。
隣人である上野とは、あれから顔を合わせていない。夜にひっそりとピアノの練習をしているが、苦情もない。
新しい生活に、やっと慣れてきた。
そんなある日の昼、僕は美田屋さんが趣味で開いている小さな喫茶店で、大学の課題を片付けていた。
「終わりが見えない…」
肩が凝った。一向に進まないレポートを書く手をとめ、大きく伸びをした。軽く肩を回すと、ぱきぱきと小気味いい音がした。
眠気を覚ますために、コーヒーをひとくち啜る。口内に広がる深みのある薫りが心地いい。流石コーヒーをウリにしている店だ。
気分転換に僕は店内を見回した。全体的に落ち着いた雰囲気だ。
店内に流れているのは、シューマンの『トロイメライ』か。
客層はさまざまだった。僕のように課題に取り組んでいる学生もいるし、静かに談笑する若い女性たちや、読書をする老人もいる。
そんな店内でひときわ目を引いたのは、壁にかけてある一枚の大きな絵だった。
金色の髪をした、まるで天使のような少女が、たくさんの花のなかで眠っている。
淡く穏やかな色彩。
柔らかな優しい光が少女を照らしている。
一片の不安もない、悠久を感じさせる光景。
額縁には、小さく『春眠』と書いてあった。
思わず見とれた。美術に疎い僕でも、その絵の素晴らしさが直観的にわかった。
「レポートの進み具合はどう?」
後ろから、美田屋さんが声をかけてきた。
「さっぱりです…」
苦笑いして答える。レポートは半分も埋まっていない。
「ま、頑張りなさい。若いうちにいろいろ苦労しておくと、あとで得よ」
若い見かけによらず、老成したことを言う美田屋さん。
ふと思いついて訊いてみた。
「あの絵、素敵ですね。何という画家さんが描かれたんですか?」
少女の絵を指差す。すると、彼女は秘密をばらす子供のような顔で言った。
「あれはね、上野が描いたのよ」
「え、上野さんが?」
上野ヒジリ。不健康。変人。いい印象ではない。
こんな素晴らしい絵を、あの上野が描いたのか。にわかに信じがたかった。
「上野は、画家なの。あの絵もお客さんに評判が良いのよ」
本人はどうでもいいみたいだけど、と美田屋さんは続けた。
「あいつは、絵が描ければそれでいいのよ。世間一般のこととか身の回りのこととか、そんなの全部無視。まったく、困った引きこもりよ」
彼女は、上野のことをよく知っているようだった。
「でも、こんな綺麗な絵が描けるなんてすごいです」
素直に感動を述べる。
「絵がうまくなかったら、単なる引きこもりの変人よ。それじゃ、レポートがんばってね」
と、笑顔で言い残し美田屋さんは店の奥へと去っていった。
彼女はその屈託のない笑顔で、さばさばとした物言いをするので、憎めなくて接しやすい。
再びレポートに集中して、僕はなんとか期限までに提出する事ができた。
「昼食、ここに置いておきますから。ちゃんと食べてくださいよ」
返事はない。彼は熱心に筆を走らせ、こちらに見向きもしない。キャンバスには、青い血を流す紅い林檎の絵。
「…行ってきます」
挨拶の言葉も虚しく、僕は大学へ向かった。
ここのところ、僕は上野の部屋に出入りするようになった。
きっかけは、美田屋さんの手伝いで上野の部屋へ掃除をしにいったことだ。
部屋は汚く、食器も流しに山積みにされていてろくに食べていないようだったので、こうして定期的に食事を作りにくることになったのだ。
作りにくるときに、上野の絵を見ることができる。絵がだんだんと出来上がっていくのをみるのは、楽しかった。
初めて上野の部屋に入ったとき、数多くある絵のなかで一枚の絵が目を引いた。
明るい光、平和そうな街で、男が目を押さえて絶叫している。
まわりの雰囲気とそぐわない男の表情がリアルで、心からの苦痛を訴えてきているように見えた。
その絵のことは、彼と関わっていくなかで、わかっていくことなのだろうか。
大学の講義が終わるころには、陽はすっかり暮れてしまっていた。
長い講義で疲れた身体を引きずり、家に荷物を置いて、隣の部屋へ食器をとりに行った。
ノックして、ドアを開ける。
「こんばんは、お邪魔します」
暗い。
上野は、出ていったときと寸分違わぬ姿勢で、電気も点けずに描き続けていた。
明かりは、カーテンの隙間から覗く月明かりだけだ。こんなに暗くて手元が見えるのだろうか。
ぱち。電球の紐を引っ張ると、一瞬遅れて電気が点いた。
彼は驚いたように上を見上げ、眩しそうに目を細めた。だがそれは一瞬。彼はすぐに、髪で目を覆い、視線を絵に戻した。
机に目をやる。チャーハンが手つかずで置いてあった。
「上野さん」
何度も名を呼ぶ。しかし、彼は故意であるかと思うほど、こちらに気づかない。
「上野さん!」
「…?」
「これ、昼食だったんですけど」
冷めたチャーハンを指差す。
「…ん」
いま初めて知った、という風に、上野は視線をこちらに寄越した。
彼のまわりには、飴の包み紙や使いきった絵具が散乱している。
彼を放っておくと、いつもこうだ。
「上野さん…。あなた、死にたいんですか?」
「…別に、そうでもない」
「じゃあどうして食べないんですか!」
「…どうしてだろう」
彼は、考え込む素振りを見せた。
しばらくして、彼は言った。
「…電気消して」
話の脈絡がない。
「どうしてですか」
「…世の中は眩しすぎる」
相変わらず意味がわからない。むっとして言い返す。
「もっとわかりやすく…」
「消せ」
静かな怒声。あまりに鋭い。背筋が凍りついた。
言われるがままに電気を消す。また、闇が部屋いっぱいに広がった。
「…それでいい」
彼はまた絵を描き始めた。キャンバスを滑る筆の音が、に大きく聞こえる。
「こんな暗さで、手元が見えるんですか」
「…夜じゃないと星は見えない…」
やっぱり意味が分からないが、とりあえず食事だけはちゃんと摂るようにだけ言って、その日は部屋を後にした。
翌日。晴天の空が眩しい休日。
僕は上野の部屋で昼食をつくっていた。
メニューは野菜炒め。僕も一緒に食べるつもりなので、二人分つくっている。
部屋はカーテンを閉めきっていて、外からの光は殆ど入ってこない。そのうえ電気も点けていないので、夜のように暗かった。
そんな暗いなかで、上野はいわずもがな、キャンバスに向かって絵を描いていた。
描かれているのは、黄金の稲穂が風に波打つ情景。
本物をそのまま写したかのような明確な描写。
そういえば、上野は全く外出をしない。なのに、どうしてこんな写実的な絵が描けるのだろうか。
僕は気になって、それについて訊くと、意外にも聞き返された。
「…君は音楽をやっていると前に言っていた…。その音楽が創られた時代や場所に…実際に行ったことはあるのか…」
珍しく長い言葉。そう言われると、確かに僕は知らない時代の音楽を奏でている。
「…俺には音楽がわからない…」
「音楽はいいものですよ。すぐ身近にあって…」
「…いつも音はあいまいだ」
上野が僕の言葉を遮った。
どういうことだろう。次の言葉を待つ。
長い沈黙ののち、上野は話し始めた。
「…音は、薄い膜を通して物を見るような感覚だ。生まれた時からずっと。話し声も音楽も全て、ぼやけている」
「それってつまり、耳が聞こえないってことですか…?」
「…少しは聞こえる。大きな音は届く。でも、小さな声は届かない。唇の動きで読むしかわからない…」
唇の動き。つまり、読唇術。思えば、後ろから呼びかけてもいつも何も反応がなかった。それは後ろからの声は聞こえなかったからなのか。
「…音楽とはそんなにいいものなのか…」
上野は言う。耳が遠いなら音楽の良さが分からなくても不思議ではないけど、上野に音楽を聴かせてみたくなった。
「試しに聴いてみますか?」
断られると思いつつ訊いてみた。
「…どうせわからない…」
その返事は聴いてみたいという感情の裏返しだと、何故か理解できた。
上野を部屋に招き、ピアノの近くに座らせた。
上野は物珍しげにピアノを眺めている。
僕は、迷わず楽譜を取り出した。
ショパンの『ノクターン9-2』。
ピアノの前に掛け、いつもと同じように一呼吸。
消音ペダルは踏まない。
大きく息を吸って。
ゆったりと鍵盤に指を滑らせる。
響く旋律。
音楽が上野の心に届くように…
弾き終えて、一呼吸。なかなかうまく弾けたと思う。
「どうでしたか?」
「…下手だな」
「聴こえたんですか?」
「…いや、聴こえない。…でも、俺にはぴったりかもしれないな…」
相変わらず言っていることは意味不明だ。
しかし、上野の髪に隠れた顔から一瞬、にやりと笑みがこぼれていたように見えた。
「…たまに聴かせてくれ」
嬉しくなって、微笑む。
「はい。喜んで!」
僕は今まで上野のことを何も知らずに変人扱いしてきたが、彼のほんの一部が見えた気がした。
***
2009/3/23 春部誌
これはかなりお気に入りのお話。
構想はあるので、いつか続き書きたい。
ちなみに、
常盤→ときわ
上野→かみの
美田屋→みたや
と読みます。
美田屋エリは…マイキャラである、ヘルガー擬人化のエルタヤをモデルにしています(誰に言ってる
カーテンが閉めきられた、薄暗い部屋。
この世界には、俺だけしかいない。
この世界なら、俺は何だって出来る。
そう自分に言い聞かせて、彼は筆を握った。
真っ白なキャンパス。
心から溢れるインク。
指先を伝うイメージ。
色とりどりの花が咲き、枯れ、また芽吹く。朽ちる。
イメージがインクとなり、パレットで浄化され、キャンパスへ流れ込む。そんな感覚。
心を縛る鎖を、ひとつひとつ丁寧にほどいた。感情を解き放つ。筆を走らせる。
彼は思う。
俺は、自由だ。
三月。まだ肌寒いが、暖かい春まであと少し。そんな、季節の変わり目のこと。
僕は常磐ユイ。四月から大学一年生だ。
しかも大学は第一志望。奇跡のようなものだ。まだ実感は持てずにいる。
しかし、時間は待ってくれない。入学準備は忙しく、時間は飛ぶように過ぎていく。
僕は、田舎の実家からだいぶ遠い都会の大学へ通うため、部屋を借りて引っ越した。郊外のマンション。三〇六号室。
初めての一人暮らし。不安が募る。しかし、十八歳にもなって親に頼っている訳にもいかない。
料理には自信があるが、毎日続けることが出来るだろうか。
でも、食費はなるべく削りたい。
でも、しかし、だけど。なんてあれこれと考えていると、憂鬱になってきた。
持ってきた荷物の片付けをしていた手を止める。
散らかった部屋で、一番存在感があるピアノの前に立った。
マンションにピアノを持ってくるのはどうかと思ったが、どうしてもこのアップライトピアノとは離れがたかった。
ピアノは幼少の頃からずっと続けている。小学生の時に、親にねだって買ってもらってから、このピアノは僕の宝物だった。
使い込んだ鍵盤に手を置く。
ぽーん。澄んだドの音。消えるまで余韻を楽しむ。
ドレミファソラシド。右手で、左手で、何度も繰り返す。
気持ちが落ち着いてきた。憂鬱が消えていく。
「なんとかなるよな」
自分に言い聞かせるように呟いた。
部屋の片付けが終わってからゆっくり弾こうと思い、荷物整理に戻った。
持ってきた荷物はかなり多い。自分好みの配置に片付けていくのは時間がかかった。
「部屋の掃除とかは、好きなんだけどなぁ…」
ひとりごちる。つい、ひとりごとを溢してしまう。
部屋に自分一人だけ、という状況にまだ慣れることができなかった。
早くもホームシックか、情けない。
「あ、そうだ」
そういえば、隣人に挨拶していなかったことを思い出して呟いた。
この三〇六号室は角部屋。隣部屋は三〇五号室だけだ。
挨拶は早めにしよう。そう思い、僕は部屋から出た。
三〇五号室 上野ヒジリ
表札にはこう書いてあった。隣人は上野というらしい。
こんこん。軽くノック。
「ごめんください」
しかし返事はない。
もう一度ノック。今度はもう少し強く。
「ごめんくださーい!」
数秒待つと、足音の後、錠の外れる音がした。
ゆっくりとドアが開かれる。ドアを開けたのは男だった。
第一に浮かんだ言葉は、不健康。
骨と皮しかないような、細長い身体。猫背。
日に当たらない人間特有の、青白い肌。
無造作に伸びた髪は、顔をほぼ覆い隠している。
髪の隙間から切れ長の目。
濃い隈。眼光は鋭い。こちらの顔をじっと凝視している。
からころ、と音がする。彼は飴を舐めているようだった。
「初めまして、隣に引っ越してきた常磐です。これから、よろしくお願いします」
「…よろしく」
ぼそぼそ、口の中だけで喋り、彼はドアを閉めようとした。
「あ、ちょっと待ってください!」
まだ言っていないことがある。慌てて呼び止めた。
「…なにか」
不機嫌そうな上野。
「僕、ピアノをやっているんです。練習の音なるべく消音しますので、迷惑かと思いますが…」
頭を下げて、相手の反応を待つ。
「…甘美な音か、下賤な音か。どちらにしろ、俺の世界には関係ない…」
ぶつぶつと、念仏のように抑揚のない声。
僕には何を言っているのか理解できなかった。
意味を問おうとしたが、ドアを閉められてしまった。錠の下りる音。
なんだあの人は。呆然と立ち尽くす。
もう一度ノックしようとしたが、やめた。
ため息を吐く。
仕方ない、自室に戻ろう。
自室のドアを開けようとすると、階段を昇ってくる音。女性がこちらに向かってきた。マンションの大家である美田屋エリさん。三十代手前のはずだが、二十歳前半にしか見えない女性だ。
彼女は片手に、紙袋を提げていた。紙袋には、画材店の名前が書いてある。
軽く会釈すると、美田屋さんは親しげに話しかけてきた。
「常磐君。もしかして三〇五号室に行った?」
「はい、上野さんの部屋ですよね」
「あら、行ったのね。変なやつだったでしょ」
冗談なのか屈託のない笑顔で、美田屋さんは言った。
「ええ…まあ…」
曖昧に笑う。否定はできない。
そんな僕を見て、美田屋さんは軽く笑った。
「ところで、上野になにか言われた?」
美田屋さんに先ほどのことを全て話した。
「ピアノ、上野の隣だったら大丈夫よ。でも、時間は注意してね。深夜は駄目よ」
「あ、はい。ありがとうございます」
上野の隣だったら、ピアノを弾いても良い。何故だろうか。
「上野は変なやつだけど、悪いやつじゃないのよ。よろしくしてやってね。それじゃ、娘の迎えに行ってくるわ」
美田屋さんは上野の部屋のドアノブに紙袋をさげて、行ってしまった。
上野ヒジリ。謎だらけだ。こんな人の隣にこれから住むのだろうか。
ピアノで誤魔化した不安が、また膨れ上がってくるのを感じた。
夜になって、やっと部屋が片付いた。
少し狭いが自分の気に入る部屋にすることができた。
することもなくなったし、何か弾こう。
そう思い立ち、ピアノの前に椅子を移動させた。適当に楽譜を探す。
なんとなく目についた楽譜。
メンデルスゾーンの、『春の歌』。
楽譜を広げ、鍵盤に手を置く。
忘れず消音ペダルを踏む。
一呼吸。
ゆっくりと指を動かす。
初めの和音。
響いて連なる。
ピアノから溢れ出す優しい音色。
春の暖かい日差しのような、穏やかな旋律。
最後の一音まで、心を込める。
弾き終えてまた、一呼吸。
耳を澄ませるが、苦情の声はない。安心して息を吐いた。
音量に気をつけて弾くのは、かなり気を遣う。
しかし、追い出されるわけにはいかないので最大限の注意を払わなければいけない。
思い浮かんだ旋律を、片手で軽く弾いてみる。
新生活の不安と、響かないピアノの音色が相まって、部屋いっぱいに静寂が響いた。
それから一ヶ月が経って、四月下旬。
僕は無事、大学一年になった。
忙しくて、てんやわんやの毎日を送っていたが、やっと落ち着いてきた。
自分なりの生活ペースもでき、少しは余裕をもって過ごせるようになった。
隣人である上野とは、あれから顔を合わせていない。夜にひっそりとピアノの練習をしているが、苦情もない。
新しい生活に、やっと慣れてきた。
そんなある日の昼、僕は美田屋さんが趣味で開いている小さな喫茶店で、大学の課題を片付けていた。
「終わりが見えない…」
肩が凝った。一向に進まないレポートを書く手をとめ、大きく伸びをした。軽く肩を回すと、ぱきぱきと小気味いい音がした。
眠気を覚ますために、コーヒーをひとくち啜る。口内に広がる深みのある薫りが心地いい。流石コーヒーをウリにしている店だ。
気分転換に僕は店内を見回した。全体的に落ち着いた雰囲気だ。
店内に流れているのは、シューマンの『トロイメライ』か。
客層はさまざまだった。僕のように課題に取り組んでいる学生もいるし、静かに談笑する若い女性たちや、読書をする老人もいる。
そんな店内でひときわ目を引いたのは、壁にかけてある一枚の大きな絵だった。
金色の髪をした、まるで天使のような少女が、たくさんの花のなかで眠っている。
淡く穏やかな色彩。
柔らかな優しい光が少女を照らしている。
一片の不安もない、悠久を感じさせる光景。
額縁には、小さく『春眠』と書いてあった。
思わず見とれた。美術に疎い僕でも、その絵の素晴らしさが直観的にわかった。
「レポートの進み具合はどう?」
後ろから、美田屋さんが声をかけてきた。
「さっぱりです…」
苦笑いして答える。レポートは半分も埋まっていない。
「ま、頑張りなさい。若いうちにいろいろ苦労しておくと、あとで得よ」
若い見かけによらず、老成したことを言う美田屋さん。
ふと思いついて訊いてみた。
「あの絵、素敵ですね。何という画家さんが描かれたんですか?」
少女の絵を指差す。すると、彼女は秘密をばらす子供のような顔で言った。
「あれはね、上野が描いたのよ」
「え、上野さんが?」
上野ヒジリ。不健康。変人。いい印象ではない。
こんな素晴らしい絵を、あの上野が描いたのか。にわかに信じがたかった。
「上野は、画家なの。あの絵もお客さんに評判が良いのよ」
本人はどうでもいいみたいだけど、と美田屋さんは続けた。
「あいつは、絵が描ければそれでいいのよ。世間一般のこととか身の回りのこととか、そんなの全部無視。まったく、困った引きこもりよ」
彼女は、上野のことをよく知っているようだった。
「でも、こんな綺麗な絵が描けるなんてすごいです」
素直に感動を述べる。
「絵がうまくなかったら、単なる引きこもりの変人よ。それじゃ、レポートがんばってね」
と、笑顔で言い残し美田屋さんは店の奥へと去っていった。
彼女はその屈託のない笑顔で、さばさばとした物言いをするので、憎めなくて接しやすい。
再びレポートに集中して、僕はなんとか期限までに提出する事ができた。
「昼食、ここに置いておきますから。ちゃんと食べてくださいよ」
返事はない。彼は熱心に筆を走らせ、こちらに見向きもしない。キャンバスには、青い血を流す紅い林檎の絵。
「…行ってきます」
挨拶の言葉も虚しく、僕は大学へ向かった。
ここのところ、僕は上野の部屋に出入りするようになった。
きっかけは、美田屋さんの手伝いで上野の部屋へ掃除をしにいったことだ。
部屋は汚く、食器も流しに山積みにされていてろくに食べていないようだったので、こうして定期的に食事を作りにくることになったのだ。
作りにくるときに、上野の絵を見ることができる。絵がだんだんと出来上がっていくのをみるのは、楽しかった。
初めて上野の部屋に入ったとき、数多くある絵のなかで一枚の絵が目を引いた。
明るい光、平和そうな街で、男が目を押さえて絶叫している。
まわりの雰囲気とそぐわない男の表情がリアルで、心からの苦痛を訴えてきているように見えた。
その絵のことは、彼と関わっていくなかで、わかっていくことなのだろうか。
大学の講義が終わるころには、陽はすっかり暮れてしまっていた。
長い講義で疲れた身体を引きずり、家に荷物を置いて、隣の部屋へ食器をとりに行った。
ノックして、ドアを開ける。
「こんばんは、お邪魔します」
暗い。
上野は、出ていったときと寸分違わぬ姿勢で、電気も点けずに描き続けていた。
明かりは、カーテンの隙間から覗く月明かりだけだ。こんなに暗くて手元が見えるのだろうか。
ぱち。電球の紐を引っ張ると、一瞬遅れて電気が点いた。
彼は驚いたように上を見上げ、眩しそうに目を細めた。だがそれは一瞬。彼はすぐに、髪で目を覆い、視線を絵に戻した。
机に目をやる。チャーハンが手つかずで置いてあった。
「上野さん」
何度も名を呼ぶ。しかし、彼は故意であるかと思うほど、こちらに気づかない。
「上野さん!」
「…?」
「これ、昼食だったんですけど」
冷めたチャーハンを指差す。
「…ん」
いま初めて知った、という風に、上野は視線をこちらに寄越した。
彼のまわりには、飴の包み紙や使いきった絵具が散乱している。
彼を放っておくと、いつもこうだ。
「上野さん…。あなた、死にたいんですか?」
「…別に、そうでもない」
「じゃあどうして食べないんですか!」
「…どうしてだろう」
彼は、考え込む素振りを見せた。
しばらくして、彼は言った。
「…電気消して」
話の脈絡がない。
「どうしてですか」
「…世の中は眩しすぎる」
相変わらず意味がわからない。むっとして言い返す。
「もっとわかりやすく…」
「消せ」
静かな怒声。あまりに鋭い。背筋が凍りついた。
言われるがままに電気を消す。また、闇が部屋いっぱいに広がった。
「…それでいい」
彼はまた絵を描き始めた。キャンバスを滑る筆の音が、に大きく聞こえる。
「こんな暗さで、手元が見えるんですか」
「…夜じゃないと星は見えない…」
やっぱり意味が分からないが、とりあえず食事だけはちゃんと摂るようにだけ言って、その日は部屋を後にした。
翌日。晴天の空が眩しい休日。
僕は上野の部屋で昼食をつくっていた。
メニューは野菜炒め。僕も一緒に食べるつもりなので、二人分つくっている。
部屋はカーテンを閉めきっていて、外からの光は殆ど入ってこない。そのうえ電気も点けていないので、夜のように暗かった。
そんな暗いなかで、上野はいわずもがな、キャンバスに向かって絵を描いていた。
描かれているのは、黄金の稲穂が風に波打つ情景。
本物をそのまま写したかのような明確な描写。
そういえば、上野は全く外出をしない。なのに、どうしてこんな写実的な絵が描けるのだろうか。
僕は気になって、それについて訊くと、意外にも聞き返された。
「…君は音楽をやっていると前に言っていた…。その音楽が創られた時代や場所に…実際に行ったことはあるのか…」
珍しく長い言葉。そう言われると、確かに僕は知らない時代の音楽を奏でている。
「…俺には音楽がわからない…」
「音楽はいいものですよ。すぐ身近にあって…」
「…いつも音はあいまいだ」
上野が僕の言葉を遮った。
どういうことだろう。次の言葉を待つ。
長い沈黙ののち、上野は話し始めた。
「…音は、薄い膜を通して物を見るような感覚だ。生まれた時からずっと。話し声も音楽も全て、ぼやけている」
「それってつまり、耳が聞こえないってことですか…?」
「…少しは聞こえる。大きな音は届く。でも、小さな声は届かない。唇の動きで読むしかわからない…」
唇の動き。つまり、読唇術。思えば、後ろから呼びかけてもいつも何も反応がなかった。それは後ろからの声は聞こえなかったからなのか。
「…音楽とはそんなにいいものなのか…」
上野は言う。耳が遠いなら音楽の良さが分からなくても不思議ではないけど、上野に音楽を聴かせてみたくなった。
「試しに聴いてみますか?」
断られると思いつつ訊いてみた。
「…どうせわからない…」
その返事は聴いてみたいという感情の裏返しだと、何故か理解できた。
上野を部屋に招き、ピアノの近くに座らせた。
上野は物珍しげにピアノを眺めている。
僕は、迷わず楽譜を取り出した。
ショパンの『ノクターン9-2』。
ピアノの前に掛け、いつもと同じように一呼吸。
消音ペダルは踏まない。
大きく息を吸って。
ゆったりと鍵盤に指を滑らせる。
響く旋律。
音楽が上野の心に届くように…
弾き終えて、一呼吸。なかなかうまく弾けたと思う。
「どうでしたか?」
「…下手だな」
「聴こえたんですか?」
「…いや、聴こえない。…でも、俺にはぴったりかもしれないな…」
相変わらず言っていることは意味不明だ。
しかし、上野の髪に隠れた顔から一瞬、にやりと笑みがこぼれていたように見えた。
「…たまに聴かせてくれ」
嬉しくなって、微笑む。
「はい。喜んで!」
僕は今まで上野のことを何も知らずに変人扱いしてきたが、彼のほんの一部が見えた気がした。
***
2009/3/23 春部誌
これはかなりお気に入りのお話。
構想はあるので、いつか続き書きたい。
ちなみに、
常盤→ときわ
上野→かみの
美田屋→みたや
と読みます。
美田屋エリは…マイキャラである、ヘルガー擬人化のエルタヤをモデルにしています(誰に言ってる